第22話:増えた一人と、変な空気(1)
その話を持ち出したのは、またしても結衣だった。
杏里がバイトを終えて、いつものように従業員用通路を出た時のことだ。駐車場で待っていた結衣が、開口一番に言い放った。
「ねえ、久しぶりにまた飲み行きたくない?」
「……誰と」
「誰と、じゃないでしょ。なべさんたちと」
あまりにも当然のような口ぶりに、杏里は思わず眉を寄せた。
「また?」
「また。前の飲み会、普通に楽しかったじゃん。杏里も途中からちゃんと楽しそうだったし」
そう言われると、強くは否定しにくい。
確かに、以前のようにぎこちなく黙り込むことはなかったし、林田のナルシスト発言に笑った記憶もある。鍋島が少し酔って、帰りの車で静かになっていたことまで思い出してしまい、杏里は小さく息をついた。
「結衣が言うなら、自分で鍋島さんに言えばいいでしょ」
「えー、そこは杏里から言った方が自然じゃん。だって今、同居してるんだし」
その言葉に、杏里は少しだけ視線を逸らした。
まだ完全に慣れたとは言えないけれど、もう「同居」という響きにいちいち身構えなくなっている自分がいる。
「……じゃあ、帰ったら一応聞くだけ聞いてみる」
「やった! 決まりね!」
その夜、自宅にて。
こたつの横でハヤブサを膝に乗せていた鍋島に、杏里は少しだけ言いにくそうに切り出した。
「あの、結衣がまたご飯に行きたいって言ってるんですけど……」
「いいですよ。林田にも言っておきます」
間髪入れずに返ってきた承諾に、杏里の方が拍子抜けした。
「……あっさりですね」
「前も変な感じではなかったですし、結衣さんも楽しそうでしたから。そういうの、結構大事じゃないですか」
その返し方が鍋島らしくて、杏里は少しだけ肩の力が抜けた。
前と同じメンバーなら、それほど気負う必要もないだろう。――そう、思っていたのだ。この時までは。
当日。待ち合わせ場所は、前回と同じ駅前の居酒屋。
杏里が結衣と合流して店の前まで来ると、親友の様子が明らかにおかしかった。いつもならワクワクしているはずなのに、やけに目が泳いでいる。
「……何、その顔」
「ごめん、杏里。先に謝らせて」
「だから、何が」
「お、いたいた」
背後から、聞き覚えのある落ち着いた声がした。
振り返ると、そこには仕事帰りらしいジャケット姿の健人が立っていた。
「……え?」
「こんばんは、杏里ちゃん」
健人はいつもの余裕ある笑みを浮かべて片手を挙げる。杏里は即座に結衣を問い詰めた。
「ちょっと、何で健人さんがいるの」
「だから……ごめんって。お兄ちゃんに飲むって話したら、『俺も行く』って聞かなくて……」
「ついてきちゃった。結衣から話は聞いてるよ、杏里ちゃん」
健人は悪びれる様子もなく続ける。
「杏里ちゃんが最近、よく『世話になってる人』がいるんだって?」
その瞬間、杏里は血の気が引くのを感じた。結衣が申し訳なさそうに小声で耳打ちしてくる。
「……ごめん、同居してること、ちょっと話しちゃって……なべさんのこと見たいって言うから……」
「……ちょっと、じゃないよね。健人さん、思いっきり『視察』の目をしてるんだけど」
そのやり取りの最中、駅の方から見覚えのある二人が歩いてくるのが見えた。
派手なジャケットの林田と、黒いシャツにジャケットを羽織った、落ち着いた空気の鍋島だ。
「お待たせ! ……って、あれ?」
林田が立ち止まり、その隣で鍋島がゆっくりと目を細める。
健人は、まるでこうなるのが当然だという顔で一歩前に出た。
「どうも。結衣の兄です」
鍋島の表情はほとんど変わらなかった。けれど、杏里にはわかった。場の空気が、一瞬で鋭く変質したのを。
「……どうも。鍋島です」
静かな、けれどどこか重みのある挨拶。
「話は妹から聞いていますよ」
健人がにこやかに先制すれば、鍋島も穏やかに言葉を返す。
「……どのへんまででしょう」
その一言に、杏里の背筋に冷たいものが走る。声はやわらかいのに、妙に切れ味がある。
「そのへんだよねぇ」と林田が横で面白がっているのを、「黙っててください」と杏里が制した。
「杏里ちゃんと結衣が最近お世話になってる人だって聞いたので。兄として、一度ご挨拶をね」
健人の言葉に、鍋島はただ静かに、けれど逸らさずに視線を返した。
「とりあえず、入りましょうか」
結衣が必死に明るい声を出し、一同は店の中へ。
案内された席につくと、杏里は右に健人、左に鍋島という、逃げ場のない配置になってしまった。
向かいには面白がりすぎて顔がニヤついている林田。
その隣で「ごめん!」と手を合わせている結衣。
カオスだ。最初から、何かが決定的に狂っている。
鍋島も健人も、表面上は穏やかに振る舞っている。けれど、視線が交差するたびに火花が散っているような、そんな落ち着かない夜が幕を開けた。




