第21話:帰る場所の名前(2)
家に着いた時、玄関の向こうはしんと静まり返っていた。
けれど、廊下の先にある居間の引き戸からは、柔らかな灯りが漏れている。
鍋島は鍵を閉め、音を立てないように靴を脱いだ。林田に散々茶化されたせいか、自分でも自覚できるほど妙な緊張が胸の奥に残っている。
襖をそっと開けると、そこには「日常」の断片が転がっていた。
こたつの上には、片付けきれていないマグカップと小さな皿。その向こうで、杏里がこたつに伏せるような格好で眠っていた。
片腕を枕にし、頬を横に向けている。少し乱れた髪が、彼女の華奢な肩に落ちていた。
鍋島はその場で、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
待っていた、というほど大げさなものではないのかもしれない。ただ、起きているうちに帰ってくると思って、そのまま睡魔に負けただけなのだろう。
けれど、こうして灯りのついた部屋で自分を待つように眠っている姿を見ると、それだけで胸の内側が、音を立ててやわらかくほどけていくようだった。
「……杏里さん」
起こさなきゃ、と思うのに、すぐには声をかけられない。
鍋島はそっとこたつのそばにしゃがみ込んだ。眠っている杏里の顔は、起きている時よりもずっと無防備で、少し幼く見える。
気づけば、無意識に手が伸びていた。
乱れた前髪を避けるように、静かに頭へ触れる。撫でるというより、そこに彼女がいることを確かめるように、指先を優しくすべらせた。
その時だった。
「……鍋島さん……」
寝言のように、小さな声がこぼれる。
鍋島は一瞬だけ目を見開いて、それから耐えきれずにふっと笑ってしまった。
「寝てても呼ぶんだな」
低く漏れた独り言は、夜の居間に静かに吸い込まれていく。
すると足元で、もぞりと何かが動いた。丸くなっていたハヤブサが起き上がり、鍋島の足首に甘えるように絡みついてくる。
「にゃあ」
「……お前も起きたのか」
鍋島は片手を下ろし、今度はその小さな頭を撫でた。
ふと、現実的な思考が頭をよぎる。年明けには引っ越さなくてはいけない。部屋も探している。この家にずっと甘えるわけにはいかないのだ。
分かっている。
分かっているのに、灯りのついた居間も、ここで眠る杏里も、足元のハヤブサも、いつの間にか自分の中で「手放したくないもの」になりすぎていた。
だめだな、と自嘲気味に思う。
けれど、もう簡単には切り離せないほど、この温もりが自分の一部になりつつあることも、同時に確信していた。
鍋島は気持ちを切り替えるように、もう一度杏里の肩に手を置いた。
「杏里さん。……杏里さん、起きてください。こたつで寝ると風邪ひきますよ」
そっと揺らすと、杏里のまつ毛がゆっくりと震えた。
「……ん……」
ぼんやりと顔を上げ、まだ半分夢の中のような潤んだ瞳で、彼女は鍋島を見た。
「あ……鍋島さん」
その声はやわらかく、寝起きのせいかいつもより少しだけ素直に響く。
「おかえりなさい……」
一瞬だけ、返事が遅れた。
ほんのそれだけのことなのに、自分でも驚くほど胸の奥が揺れる。
「……ただいま」
ようやく返した声は、思ったよりも掠れていて、静かだった。
杏里はまだ眠そうなまま目をこすろうとして、それからはっとしたように周囲を見渡した。
「あたし、寝ちゃってた……」
「見れば分かりますよ」
「待ってるつもりだったんですけど」
「その気持ちだけ、ありがたく受け取っておきます」
「うわ、やだ……」
杏里はこたつ布団を持ち上げて、顔を半分ほど隠した。
「なんか、すごい恥ずかしいんですけど」
「そこまでじゃないですよ。……でも、灯りがついていて助かりました」
杏里がこたつの中から上目遣いに鍋島を見る。
「……ごはん、置いてあります。ちゃんと食べました?」
「まだです。今からいただきますね」
「じゃあ、温めます」
起き上がろうとする彼女を、鍋島は手で制した。
「大丈夫です。杏里さんはそのままで」
「でも」
「今日はもう、だいぶ眠そうですから。ゆっくりしててください」
そう言われて、杏里は抗うのを諦めたように目を細めた。
ハヤブサが二人の間を縫うように歩き、杏里の腕に収まる。その光景が、どうしようもなく尊くて、あたたかい。
「鍋島さん」
「はい」
「今日、遅かったですね。……お疲れ様でした」
「杏里さんも。待っててくれて、ありがとうございました」
杏里は少しだけ目を伏せ、こたつ布団の端を弄った。
「……待ってたっていうか、結果的に寝てただけですけど」
「そこは、しっかり見させていただきました」
「……言わなくていいです」
そんな他愛もないやり取りが、居間の空気をさらに和らげていく。
鍋島は立ち上がり、台所へ向かおうとして、最後にもう一度だけ振り返った。
灯りの中にいる、少し眠そうな彼女と、一匹。
その光景を記憶に焼き付けるように見つめ、鍋島は小さく笑った。
「本当に、寝るならちゃんと布団で寝てくださいね」
「……努力します」
「努力じゃなくて、お願いします。……おやすみなさい、杏里さん」
「おやすみなさい」
背中にこたつの温もりを感じながら、鍋島は台所へ歩き出した。
そこには、彼女が自分のために用意してくれた食事が待っている。その事実だけで、夜の寒さなどとうに忘れてしまっていた。




