第21話:帰る場所の名前(1)
ゆみりんのマンションを出た後の夜の空気は、思っていたよりも少しぬるかった。
エレベーターを降り、エントランスを抜ける。隣を歩く林田は片手をポケットに突っ込み、いかにも上機嫌な顔をしていた。あれだけ食べたくせに、まだどこか余裕がある。
「俺、シェアハウスの芸人どもに夕飯買って帰ろっと」
「まだ食うのかよ」
鍋島が呆れたように言うと、林田は肩をすくめた。
「だって、あいつらどうせ何も食ってないし。俺って優しいからさ」
「……それを自分で言うんだな」
「言うよ。言わないと誰も気づかないだろ」
そこで林田は、ニヤリと口角を上げた。
「お前はいいよな。家で杏里ちゃんが待ってるんだろ?」
鍋島は反射的に眉を寄せた。
「お前なぁ……」
否定しようとして、言葉がわずかに止まる。
確かに、今日も杏里は家にいるはずだ。ハヤブサがいて、居間に灯りがついていて。もしかしたら、彼女も何かを食べずに待っているかもしれない。
そう思った瞬間、林田の言葉を真っ向から否定するのが、ひどく難しく感じられた。
林田はその一瞬の「間」を、絶対に見逃さなかった。
「あ、今ちょっと詰まった」
「詰まってない」
「詰まったって。わかりやすすぎ」
「お前がうるさいだけだろ」
鍋島は歩幅を速めたが、林田は平気な顔で横に並び続ける。
「でもさ」
いつもの軽い調子のまま、林田が続けた。
「あんな可愛いアイドルの子にあれだけ懐かれて、いい感じになってたのに。お前が完璧に線引きしてたのって、他に気になる奴がいるからじゃないの?」
その言葉に、鍋島は視線を前に向けたまま黙り込んだ。
夜の駅前は明るい。コンビニの光も、車道を流れるヘッドライトの列もある。なのに、林田の声だけが妙にはっきりと鼓膜に届く。
「……いい感じ、なんて。そんなんじゃない」
「いや、十分そう見えたけど。俺だったら即食いつくね!」
「やかましいなお前」
鍋島は軽く相方の腕を小突いた。けれど林田はちっとも堪えた様子がなく、むしろ面白そうに笑う。
「いて。でも実際そうだろ? ゆみりんちゃん、わかりやすかったし。……で、お前はちゃんと距離を取ってた」
林田は歩きながら、珍しく少しだけ声を落とした。
「そういう時のお前って、ただ鈍いんじゃなくて、わかっててやってる時あるじゃん」
鍋島は返事ができなかった。
ゆみりんの好意に、全く気づいていなかったわけではない。けれど、確信を持つには怖れ多いし、かといって軽く受け取っていいものでもない気がした。
だから変に期待をさせないように、けれど傷つけすぎないように、その「中間」を探していた。
ただ、それができた理由を突き詰めると、思考が止まる。
もし、自分の帰る場所に誰もいなかったなら。あそこまできっぱりと線を引けただろうか。
「……別に、そんなんじゃないよ」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱かった。
「ふーん。じゃあ何?」
「何って……」
「だから、なんであんなに綺麗に線を引いたのかって話。理由はひとつだろ?」
鍋島は小さく息を吐いた。うまく言えない、というより、自分でもまだ整理がついていないのだ。
脳裏に、杏里の姿が浮かぶ。
居間でこたつに入っている時の顔。少し呆れたように笑う時の口元。「作り置きしておきますね」と自然に言った時の声。電球が切れた夜、腕の中で一瞬だけ止まった呼吸の熱さ。
あれを思い出すだけで、胸の奥の鼓動がわずかに速まる。
「……わかんない。まだ、ちゃんと整理できてないんだ」
林田は少しだけ意外そうな顔をしたが、すぐにいつもの不敵な笑みに戻った。
「へえ。お前でもそういうのあるんだな。普段、妙に落ち着いてるくせに」
「落ち着いてるように見せてるだけだよ」
「今の、結構レアな本音だな」
「お前にだけは言いたくなかったけどな」
林田は笑った。でも、その笑い方の奥に、少しだけ真面目なものが混ざっている。
「まあでも、俺、そういうのって後から気づく方が厄介だと思うんだよね。気づいた時には、相手がもういないとかさ。……それ、笑えないじゃん」
林田の声は相変わらず軽かった。でも、言っていることだけは妙に真っ直ぐだった。
「だから、くれぐれも手放さないようにしろよ」
鍋島は少しだけ目を細めた。
「何を」
「そこからかよ! 家だよ、帰る場所。……あと、まあ、そのへん全部」
「雑だな」
「雑なくらいでちょうどいいんだって。お前、細かく考え始めると動かなくなるし」
鍋島は返事の代わりに、また小さく林田の腕を小突いた。顔が少し熱いのは、夜風のせいにするには無理があった。
駅前の分かれ道。林田はコンビニの方を指差した。
「じゃ、俺あっち寄るから。シェアハウスの連中に」
「優しいな、お前も」
「だろ? お前はさっさと帰れよ。待ってる人がいるんだから」
ひとりになった帰り道。夜の空気はさっきより静かだった。
足は自然と家の方へ向いている。そのことに、もう違和感はない。
杏里は、自分にとって少し特別な存在になりかけている。
そう思いかけて、鍋島は小さく息をついた。
まだ言葉にするには心許ないけれど、帰りたいと思う風景の中に、杏里のいる家がはっきりと組み込まれていることだけは、もう誤魔化せなかった。




