第19話 昨日の余韻と、余計な提案(1)
翌朝、杏里はいつもより少しだけ早く目が覚めた。
布団の中で目を開けたまま、しばらく動けなかったのは、昨夜のことを思い出してしまったからだ。
電球が切れて、暗い部屋で落ちかけて。鍋島に抱きとめられた、あの一瞬。
腰に回った腕の力強さも、驚くほど近かった顔も、まっすぐ向けられた「大丈夫ですか」という低い声も、妙にはっきり残っている。
思い出しただけで顔が熱くなって、杏里は布団を鼻先まで引き上げた。
けれど、いつまでもこうしているわけにはいかない。ハヤブサが枕元で小さく鳴く声がして、杏里はようやく起き上がった。
顔を洗い、髪をまとめて居間へ向かうと、台所の方からすでに軽い音が聞こえていた。
(ああ、やっぱりいる……)
それだけのことに少しほっとして、同時にまた少し気まずくなる。
のぞくと、鍋島がトーストを焼いていた。アイロンのきいたシャツ姿で、昨日のことなんてまるで気にしていないような、いつも通りの涼しい顔をしている。
「おはようございます」
杏里が声をかけると、鍋島が振り向いた。
「おはようございます。今日はちょっと早めに出るんです」
「そうなんですね」
それだけの会話でも、杏里は妙に落ち着かない。自分だけが意識している気がして、なんだか少しだけ悔しい。
鍋島は皿を二枚並べて、トーストをのせた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
向かい合って座る。昨日までなら自然になってきたはずの距離感が、今日は少しだけ近すぎる気がした。杏里は視線を落としたまま、トーストを口に運ぶ。
鍋島はコーヒーをひと口飲んでから、ふっと思い出したように口を開いた。
「今日はグルメ番組の収録で遅くなりそうなんです。時間が押すかもしれないので、先に休んでいてくださいね」
その言い方はいつも通り、淡々としていて、けれど優しい。昨夜のことを引きずっている自分が馬鹿らしくなるくらいに。
「分かりました。……じゃあ今夜は、何か作り置きしておきますね」
言ってから、自分でも少しだけ驚いた。でも鍋島は、そこを変に深読みしたりはしなかった。
「いいんですか?」
「遅くなるんですよね? だったら、その方が楽かなって。この前みたいに焼きそばとか、そのくらいならすぐできますし」
「じゃあ、お言葉に甘えます」
鍋島は少しだけ目を細めて、素直に頷いた。
「何がいいですか。作り置き」
「そこまで選べるんですか。じゃあ……杏里さんが作りやすいもので」
「え、それでいいんですか」
「でも、その方が外れないので。作る人が無理しないのが一番おいしい、っていうのが持論なんです」
「それ、今適当に言いました?」
「さあどうでしょう」
思わず少しだけ笑ってしまう。その瞬間、昨日から残っていた妙な気まずさが、ふっとやわらいだ気がした。
鍋島は特にそれ以上何も言わずにトーストを食べている。
「……意外と普通ですね。鍋島さん」
ぽろっと、杏里の本音がこぼれた。
「何がですか?」
「いや、その。昨日のこと、そんなに気にしてないんだなって」
鍋島は一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。
「気にしてないわけじゃないですよ」
「え……」
「でも、杏里さんが余計に気まずくなるかなと思って。一応、普通っぽくしてました」
その答えはあまりに意外で、杏里は少しだけ目を見開いた。
「……そうだったんですか」
「はい。まあ、あれは普通にびっくりしましたし」
そこだけ少し言い方が曖昧で、杏里は逆に変に意識してしまう。
「じゃあ、私だけじゃなかったんですね。気まずかったの」
鍋島は数秒だけ黙って、それから少しだけ視線を逸らして笑った。
「そうですね。俺も少しは」
その言葉を聞いた瞬間、不思議と安心した。自分だけが昨夜を引きずっていたわけじゃない。それだけで、気まずさの質が「共有された思い出」に変わる。
「でも、ケガなくてよかったです。そこは本当に」
「……はい」
朝の食卓に流れる空気は、昨日より少しだけ柔らかかった。
食べ終わる頃には、いつもの会話の温度にほとんど戻っていた。鍋島は先に立って、皿を流しへ運ぶ。
「じゃあ、今日は遅くなると思うので。先に休んでてください」
「分かりました。ごはん、ちゃんと置いときますね」
「楽しみにしてます」
その言葉に、杏里は少しだけ目を細めた。
気恥ずかしいのに、嫌じゃない。そういう感覚が少しずつ増えていくのを、もう完全には見ないふりできなくなっていた。




