第15話:いない夜の静けさ(2)
翌朝、目を覚ますと、腕の中にはまだハヤブサが丸まっていた。
いつもなら鍋島の部屋の前で鳴いているはずなのに、今日は一晩中、杏里のそばを離れなかった。
それが自分と同じ寂しさの裏返しのような気がして、杏里は少しだけ胸が締め付けられる。
結局、その日は仕事中も、ふとした瞬間にスマホを確認してしまった。
鍋島から連絡が来ているわけではない。ただ、なんとなく。彼が今どこにいて、いつ帰ってくるのか、それだけが妙に気になって仕方がなかった。
夕方、仕事を終えて帰宅する。
昨日と同じ、誰もいないはずの家。けれど、玄関を開けようとしたその時、中から微かに音が聞こえた。
ガチャリ、と鍵を開けて扉を引く。
「おかえりなさい」
廊下の奥、居間の入り口から、聞き慣れた声がした。
鍋島だった。まだ着替えていないのか、仕事の時のジャケット姿のまま、彼は少しだけ疲れたような、でも柔らかな顔で立っていた。
「……あ、戻ってたんですね」
「さっき着きました。昨日はお疲れ様でした。ハヤブサ、大人しくしてましたか?」
杏里は靴を脱ぎながら、自分でも驚くほど肩の力が抜けていくのを感じた。
家の中に、自分以外の呼吸がある。それだけで、昨日あれほど広く感じた空間が、いつものサイズに戻った気がする。
「……ハヤブサなら、私の布団でずっと寝てましたよ」
「えっ、そうなんですか。俺がいないとそっちに行くんですね、あいつ」
「いつも鍋島さんと寝てるのにねーって、言い聞かせておきました」
杏里が少しだけ意地悪く言うと、鍋島は「それは振られた気分ですね」と笑った。
居間に入ると、すでに台所の方からいい匂いが漂っていた。
「何か作ってるんですか」
「地方でお土産に干物を買ったので、それを焼こうかなと。あとは適当に冷蔵庫にあるもので」
「お土産……」
「はい。杏里さんの分もありますよ」
台所へ向かう鍋島の背中を追いながら、杏里はふと口を開いた。
「……昨日、家がすごく静かでした」
鍋島が、手を止めて振り返る。
「そうでしたか?」
「はい。テレビをつけてても、なんか余白があるっていうか。……一人で食べるお惣菜、あんまり美味しくなかったですし」
そこまで言って、言い過ぎたかもしれないと杏里は視線を泳がせた。けれど、鍋島は否定も茶化しもしなかった。
「……俺も、向こうのホテルで少し落ち着かなかったです」
「鍋島さんがですか?」
「はい。ハヤブサが足元にいないのも、台所から杏里さんの『うるさい』って声が聞こえないのも、意外と寂しいものですね」
さらっと、逃げ場のないようなトーンで言われて、杏里は顔が熱くなるのを感じた。
「……私、そんなに毎日うるさいって言ってますか」
「言ってますよ。でも、それが日常になってるんでしょうね」
鍋島はそう言って、再び魚を焼き始めた。
パチパチという音。だしの匂い。そして、足元で「なべさんだ!」と言わんばかりにじゃれつくハヤブサ。
杏里は、その光景を静かに見つめた。
昨日感じた、あの胸のざわつき。
それはまだ完全には消えていないけれど、今はもう、ただの不安ではない何かに変わっている。
「……鍋島さん」
「はい?」
「おかえりなさい」
昨日、言えなかった言葉をようやく口にすると、鍋島は火を止めて、まっすぐに杏里を見た。
「ただいま、杏里さん」
その声が、ようやくこの家の空気を完成させた。
今夜は、静けさが余ることはなさそうだった。




