表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三日月ロケット、居候中  作者: あしゅ太郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
23/60

第15話:いない夜の静けさ(1)

 その日は朝から、鍋島が少しだけ慌ただしかった。


 地方営業でそのまま一泊してくることが決まっている日だった。出発前から荷物をまとめて、時間を気にしながらコーヒーを飲んでいる姿は、いつもより少しだけ「外の仕事」の顔をしている。


「今日は、帰るの明日になりそうです」


 玄関で靴を履きながら、鍋島が言った。


「分かりました」


「ハヤブサのごはん、朝の分は入れてありますけど、夜はこれくらいでお願いします」


 鍋島がしゃがんで、フードの量を指で示す。


「あと、水も減ってたら足してあげてください」


「大丈夫です。それくらいできますから」


「わかってます」


 鍋島が少し笑う。


「でも、念のため」


「心配しすぎですよ」


「この子にとってはじめてのことなので」


 そう言って立ち上がった鍋島は、最後にもう一度ハヤブサの頭を撫でた。


「じゃあ、行ってきます」


「行ってらっしゃい」


「杏里さんも、お仕事気をつけて」


「鍋島さんも」


 扉が閉まって、足音が遠ざかる。それだけのことなのに、家の中が少しだけ広くなった気がした。


 けれど、朝は忙しい。杏里はその違和感をちゃんと掴む前に、自分も支度をして家を出た。


 仕事を終えて、夕方、家に帰る。


 玄関の鍵を開けて中に入る。いつもならそこで自然に「ただいま」と声が出るのに、その日は口を開きかけて、杏里は何も言わなかった。


 居間の方から、小さく鳴く声がする。


 ハヤブサがぱたぱたと短い足音を立てて近づいてきて、杏里の足元にちょこんと座った。しゃがんで頭を撫でると、気持ちよさそうに目を細める。


 コートを脱いで居間へ入る。テレビはついていない。台所にも人の気配がない。湯を沸かす音も、食器の触れ合う音もなく、家の中は静まり返っていた。


 杏里は買ってきた食材を冷蔵庫へしまいながら、一度だけ手を止めた。前からずっと、こういう家だったはずなのに。今日は、妙に広く感じる。


 ハヤブサにごはんを入れてやり、水を替える。ハヤブサは夢中になって食べ始めた。


「よっぽどお腹減ってたんだ……」


 小さくそうこぼしてから、杏里は少しだけ視線を落とした。こういう言い方、前にも聞いた気がする……と思ってしまったからだ。


 自分の夕飯は簡単に済ませた。ひとりだと、どうしても適当になる。鍋島がいる時みたいにちゃんと皿に盛る気にもなれなくて、買ってきたお惣菜をそのまま並べた。


 食卓の向かいは、ぽっかりと空いていた。杏里はそちらを見ないようにしながら、味噌汁を口にする。


 前もずっと、こうだったはずだ。おばあちゃんがいなくなってから、家に帰って、静かなまま過ごして、眠って。そういう毎日を普通にやってきた。


 けれど今は、その静けさの中に、ひとつ分だけ足りないものがある気がした。


 食後、こたつに入ってテレビをつけても、内容はあまり頭に入らなかった。ハヤブサはやがて、杏里の膝の上に乗って丸くなる。


 その重みを感じながら、杏里は無意識に和室の方を見た。襖は閉まったまま、何の音もしない。


 前なら、ただ静かなだけだった。けれど今日は、その静けさが少しだけ違和感がある。


 そこでようやく、杏里は気づいた。


(鍋島さんが、いないからだ……)


 それが分かった瞬間、胸の奥が少しざわついた。認めたくないような、でももう分かってしまったような、妙に落ち着かない感覚。ハヤブサの背中を撫でる指先だけが、ゆっくり動く。


 鍋島がいる生活に、いつの間にか慣れてしまっていること。その不在で、家の空気がこれほど変わること。それを自分が、ちゃんと感じてしまっていること。


 どれもまだ、うまく言葉にはできなかった。


 寝る前に、杏里はハヤブサを抱いたまま和室の前まで行った。


 襖は閉まっている。いつもならその向こうに鍋島がいて、ハヤブサも気づけばそっちへ入り込んでいた。しばらく襖を見つめたあと、杏里はそのまま自分の部屋へ戻った。


 布団を敷いて横になると、ハヤブサはためらいなくその上へ上がってきた。そのまま杏里の腕のあたりにくっつくように丸くなる。


 杏里は少しだけ目を伏せて、ハヤブサを抱き寄せた。


「……君も、いつも鍋島さんと寝てるのにな」


 小さくこぼれた声は、暗い部屋の中に静かに落ちた。


 小さな体温がじんわり伝わってくる。そのぬくもりだけが、今日はやけに近く感じられた。


 静かな夜だった。でも、完全なひとりの夜ではなくて、そのことに少しだけ救われる。


 胸の奥のざわつきは、まだうまくほどけないまま残っているけれど。それでも、ハヤブサの呼吸に合わせるみたいに、杏里の息も少しずつ落ち着いていった。


 鍋島のいない家は、やっぱり少し静かすぎた。


 そのことを、杏里はもう、否定しきれなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ