第15話:いない夜の静けさ(1)
その日は朝から、鍋島が少しだけ慌ただしかった。
地方営業でそのまま一泊してくることが決まっている日だった。出発前から荷物をまとめて、時間を気にしながらコーヒーを飲んでいる姿は、いつもより少しだけ「外の仕事」の顔をしている。
「今日は、帰るの明日になりそうです」
玄関で靴を履きながら、鍋島が言った。
「分かりました」
「ハヤブサのごはん、朝の分は入れてありますけど、夜はこれくらいでお願いします」
鍋島がしゃがんで、フードの量を指で示す。
「あと、水も減ってたら足してあげてください」
「大丈夫です。それくらいできますから」
「わかってます」
鍋島が少し笑う。
「でも、念のため」
「心配しすぎですよ」
「この子にとってはじめてのことなので」
そう言って立ち上がった鍋島は、最後にもう一度ハヤブサの頭を撫でた。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「杏里さんも、お仕事気をつけて」
「鍋島さんも」
扉が閉まって、足音が遠ざかる。それだけのことなのに、家の中が少しだけ広くなった気がした。
けれど、朝は忙しい。杏里はその違和感をちゃんと掴む前に、自分も支度をして家を出た。
仕事を終えて、夕方、家に帰る。
玄関の鍵を開けて中に入る。いつもならそこで自然に「ただいま」と声が出るのに、その日は口を開きかけて、杏里は何も言わなかった。
居間の方から、小さく鳴く声がする。
ハヤブサがぱたぱたと短い足音を立てて近づいてきて、杏里の足元にちょこんと座った。しゃがんで頭を撫でると、気持ちよさそうに目を細める。
コートを脱いで居間へ入る。テレビはついていない。台所にも人の気配がない。湯を沸かす音も、食器の触れ合う音もなく、家の中は静まり返っていた。
杏里は買ってきた食材を冷蔵庫へしまいながら、一度だけ手を止めた。前からずっと、こういう家だったはずなのに。今日は、妙に広く感じる。
ハヤブサにごはんを入れてやり、水を替える。ハヤブサは夢中になって食べ始めた。
「よっぽどお腹減ってたんだ……」
小さくそうこぼしてから、杏里は少しだけ視線を落とした。こういう言い方、前にも聞いた気がする……と思ってしまったからだ。
自分の夕飯は簡単に済ませた。ひとりだと、どうしても適当になる。鍋島がいる時みたいにちゃんと皿に盛る気にもなれなくて、買ってきたお惣菜をそのまま並べた。
食卓の向かいは、ぽっかりと空いていた。杏里はそちらを見ないようにしながら、味噌汁を口にする。
前もずっと、こうだったはずだ。おばあちゃんがいなくなってから、家に帰って、静かなまま過ごして、眠って。そういう毎日を普通にやってきた。
けれど今は、その静けさの中に、ひとつ分だけ足りないものがある気がした。
食後、こたつに入ってテレビをつけても、内容はあまり頭に入らなかった。ハヤブサはやがて、杏里の膝の上に乗って丸くなる。
その重みを感じながら、杏里は無意識に和室の方を見た。襖は閉まったまま、何の音もしない。
前なら、ただ静かなだけだった。けれど今日は、その静けさが少しだけ違和感がある。
そこでようやく、杏里は気づいた。
(鍋島さんが、いないからだ……)
それが分かった瞬間、胸の奥が少しざわついた。認めたくないような、でももう分かってしまったような、妙に落ち着かない感覚。ハヤブサの背中を撫でる指先だけが、ゆっくり動く。
鍋島がいる生活に、いつの間にか慣れてしまっていること。その不在で、家の空気がこれほど変わること。それを自分が、ちゃんと感じてしまっていること。
どれもまだ、うまく言葉にはできなかった。
寝る前に、杏里はハヤブサを抱いたまま和室の前まで行った。
襖は閉まっている。いつもならその向こうに鍋島がいて、ハヤブサも気づけばそっちへ入り込んでいた。しばらく襖を見つめたあと、杏里はそのまま自分の部屋へ戻った。
布団を敷いて横になると、ハヤブサはためらいなくその上へ上がってきた。そのまま杏里の腕のあたりにくっつくように丸くなる。
杏里は少しだけ目を伏せて、ハヤブサを抱き寄せた。
「……君も、いつも鍋島さんと寝てるのにな」
小さくこぼれた声は、暗い部屋の中に静かに落ちた。
小さな体温がじんわり伝わってくる。そのぬくもりだけが、今日はやけに近く感じられた。
静かな夜だった。でも、完全なひとりの夜ではなくて、そのことに少しだけ救われる。
胸の奥のざわつきは、まだうまくほどけないまま残っているけれど。それでも、ハヤブサの呼吸に合わせるみたいに、杏里の息も少しずつ落ち着いていった。
鍋島のいない家は、やっぱり少し静かすぎた。
そのことを、杏里はもう、否定しきれなかった。




