第14話:ハヤブサの行き先(2)
居間に戻ってからもしばらく、さっきの部屋の冷えた空気が杏里の胸の奥に残っていた。
ハヤブサはそんなこと何も知らないみたいに、こたつの脚にじゃれついている。
鍋島も、もう何も聞かなかった。聞かないまま、居間の端に置いたキャットタワーの箱を見て、少しだけ声のトーンを変える。
「……とりあえず、先に昼ごはんにしませんか?」
その言い方があまりに自然で、杏里は少しだけ救われた気がした。
「そうですね。お腹空きました」
「空腹のままキャットタワー組み立てるの、たぶんあんまりいい判断できないですから」
「その理屈、ちょっと分かります」
「よかった。今日はまともな方の理屈だった」
鍋島が小さく笑って、台所へ向かう。杏里はハヤブサをそっと抱き上げて、毛布の上へ戻した。
「おとなしくしててよ」
そう言うと、ハヤブサは一度だけ短く鳴いた。
台所からトントントン、と包丁の音がし始める。杏里もそのあとを追うように入ると、鍋島は冷蔵庫の中を物色していた。
「何作るんですか」
「すぐできるので、親子丼にしようかなと。卵も鶏肉もあるし、買ってきた玉ねぎも使えますから」
「手際いいなあ、本当に」
「こういう時に、生活力で信用を稼いでおかないと」
「まだ言ってる」
「地道な積み重ねって大事ですから」
鍋島は迷いのない手つきで玉ねぎを薄切りにしていく。その落ち着いた背中を、杏里は少しだけぼんやりと眺めていた。
「……鍋島さん」
「はい」
「さっきは、その……ハヤブサ捕まえてくれて、助かりました」
鍋島は手を止めずに、やわらかく返した。
「いえ。間に合ってよかったです」
「おばあちゃんの部屋、あんまり人に入られたくなかったので……」
「うん」
そこで初めて、鍋島が短く相槌を打った。それ以上は何も言わない。
杏里はその沈黙に、心の底からほっとした。分かったような顔で慰められるより、今はこれくらいの距離感が一番ありがたい。
「でも」
鍋島が鍋にだしを入れながら続ける。
「無理に片づけなくてもいいと思いますよ」
「……」
「そのままにしておきたい部屋って、誰にでもあるでしょうし」
言い方は軽いのに、変にごまかしていない。
杏里はしばらく黙ってから、小さく息を吐いた。
「そういうこと、あんまり人には言われたくないんですけど……」
「すみません」
「でも、鍋島さんに言われるのは、そんなに嫌じゃないです」
鍋島が少しだけ目を丸くした。それから、ふっと目元を緩める。
「じゃあ、今日はそれで十分です」
「何がですか」
「嫌じゃなかったなら」
「基準、低いですね」
「最初はそのくらいからでいいかなって。……でも、今ちょっと笑いましたよね?」
「笑ってないです」
「そんなに必死に否定しなくてもわかってますよ」
「……面倒くさい」
「褒め言葉として受け取っておきます」
親子丼の甘い匂いが、だしの湯気と一緒に広がっていく。さっきまで胸に張り付いていた重みが、その匂いで少しずつ解けていく気がした。
テーブルに並んだ親子丼は、完璧な出来栄えだった。
「……また普通においしそう」
「“また”ってことは、前回の評価は維持されてるんですね。大事ですよ、居候界隈での立場は」
「まだその界隈あるんですか。……なくていいですよ、そんなの」
向かい合って座り、二人で手を合わせる。
「「いただきます」」
親子丼の味は、やっぱりちょうどよかった。だしの味が優しくて、玉ねぎも甘い。ハヤブサのことでバタバタしたあとだからこそ、温かいごはんが身体に染みる。
「おいしいです」
「よかったです」
「親子丼までちゃんと作れるんですね」
「丼ものはわりと得意分野なんです」
「得意分野、地味に広いですね」
「お褒めいただきありがとうございます。これでしばらくは生きていけます」
「大げさだなあ」
会話の合間にも、ハヤブサは毛布の上からこちらを観察していた。
「完全にこっち見てますね、ハヤブサ」
「自分の下僕を値踏みしてるんじゃないですか?」
「下僕って……。……まあ、否定しづらいですけど」
昼食のあと、鍋島は宣言通りキャットタワーの箱を引っ張ってきた。
「じゃあ、組み立てます」
「本当にできるんですか? 大きいですよ、これ」
「説明書があるから大丈夫です。こういうのは、勢いじゃなく順番ですから」
部品を広げると、ハヤブサが興味津々で近づいてきた。
「邪魔しそう」
「もうしてますね」
ネジを留めようとすれば指先にじゃれつき、支柱を立てようとすれば下へ潜り込もうとする。
「ちょっと、そこ危ないよ!」
杏里が抱き上げると、ハヤブサは不満そうに鳴いた。
「いや、今のはお前が悪いから。……あ」
「杏里さん、だいぶ猫に普通に話しかけますね。いい傾向です、下僕として」
「だから、その言い方やめてくださいってば」
鍋島の手際は鮮やかだった。支柱を立て、板を固定し、みるみるうちにタワーの形になっていく。
「……本当に手際いいじゃん」
「だから言ったじゃないですか。今日は組み立て担当として、しっかり評価されたいので」
「評価制度なんですか……」
完成したタワーを居間の隅に置く。ハヤブサをそっと下ろすと、数秒後には一番低い段へよちよちと前足をかけた。
「あ」
ハヤブサはそのまま、ぎこちない動きでちょこんと一段目に乗った。
その姿があまりに小さくて、けれど本人は大真面目で。杏里は思わず吹き出してしまった。ほぼ同時に、鍋島も笑う。
「乗った……」
「乗りましたね。顔、めちゃくちゃ得意げですよ」
「自分の城だと思ってそう。一段目なのに」
「そこがまた可愛いですね」
二人で並んで、小さな背中を見つめる。少し重たかった空気も、今はもうきれいに塗り替えられていた。
「……似合ってるね」
「うん」
買い物をして、ごはんを食べて、キャットタワーを組み立てる。
どれも生活の延長でしかないはずなのに、今日はその一つひとつが少しだけ特別に感じた。
杏里はこたつのそばに座り込み、ハヤブサの方へ手を伸ばした。その向こうで、鍋島も穏やかに笑っている。
日常は、こうやって少しずつ増えていくのかもしれない。
そんなことを、杏里はぼんやりと考えていた。




