第14話:ハヤブサの行き先(1)
翌朝、杏里が食卓でパンをかじっていると、向かいに座った鍋島がコーヒーを置きながら切り出した。
「今日、ホームセンターに行きましょう」
杏里はパンを持ったまま、目を瞬かせた。
「今日?」
「今日です」
鍋島は真顔で頷く。
「フードも砂も、ちゃんとしたのを揃えた方がいいですから。あとは食器と、寝床と……」
「もうそこまで考えてるんですか。仕事早いですね」
「昨夜、わりと真面目に調べました。今は二匹目の居候のためなので」
さらっと言われて、杏里は少しだけ眉を寄せた。
「二匹目って言い方、やめてください。……なんか、現実を突きつけられるので」
「じゃあ、新入りで」
「謎の先輩面しないでください」
「でも、名前も必要ですよね」
その一言に、杏里は少しだけ考えるように視線を落とした。昨夜からずっと、箱の中で丸まっているキジトラをどう呼ぶべきか、自分でも決めきれないままだった。
「……鍋島さんが拾ったんだから、鍋島さんが決めればいいんじゃないですか?」
「え、責任重大だな」
鍋島は少し考え込む顔になり、窓の外へ目をやってからふっと笑った。
「『ハヤブサ』、とかどうですか」
「ハヤブサ?」
「三日月ロケットから連想して。速そうでいいかな、と」
「……連想の飛び方が雑なんだか、ちゃんとしてるんだか。この子、まだ全然よちよちですよ?」
「これから伸びるかもしれないっていう、希望込みです」
杏里は少しだけ反芻してから、小さく頷いた。
「……ハヤブサ。……うん、いいかも」
口に出してみると、思ったより悪くない。こたつのそばで丸くなっていた子猫が、その声に反応したように顔を上げた。
「呼ばれたって思ってるのかな」
「気が早いな」
鍋島が笑う。その顔が、なんだか少し嬉しそうに見えた。
ちょうどその日は二人とも休みが重なっていた。朝の片づけを済ませてから、杏里は車の鍵を取る。
「じゃあ、行きますか」
「はい」
返事をしてから、杏里は少しだけ妙な気持ちになった。
家の中ではもう一緒にいるのが自然になっているのに、いざ家の外となると別の落ち着かなさがある。助手席に鍋島が乗り込み、シートベルトを締める音がしただけで、少しだけ意識してしまう。
「……なんか緊張しますね」
「ホームセンターですよ?」
「そこじゃなくて」
「じゃあ何ですか」
「いや、別に……なんでもないです」
鍋島は小さく笑って、それ以上は追求しなかった。
ホームセンターのペットコーナーは、思っていた以上に賑やかだった。杏里はカートを押しながら、猫用品の売り場を見回した。
「……こんなにあるんですね。見てるだけで疲れる……」
「ありますね。フードだけで迷うな」
結局、店員に聞きながら子猫用のフード、トイレ用の砂、爪とぎ、ベッドなどを選んでいく。並んで商品を見る時間は、思ったより悪くなかった。
鍋島は勝手に決めつけず、でも一緒に真剣に考えてくれる。フードの成分表を真面目に読んでいる彼の横顔を見て、杏里は少しだけ感心していた。
やがて、大きなキャットタワーの前で杏里は足を止めた。
「……これ、あったら喜ぶかな。ちょっと早い気もするけど」
「気になります? 今後のことを考えたら、あってもいいかもしれませんね。組み立て、俺得意ですよ。説明書をちゃんと読むタイプなんで」
「そこ、妙に信用できるから困るんですけど」
「でしょ」
結局、手頃なサイズのタワーをカートに入れた。鍋島は箱を持ち上げながら、「これならいけます」と頼もしい顔を見せる。
「鍋島さん、今ちょっと得意げですね」
「こういう時くらいは、いいでしょう」
買い物を終えたあと、併設のスーパーにも寄ることになった。
「ついでに食材も見ていきます?」
「そうですね。ちょうどいろいろ切れそうだったし」
「なんか、普通に主婦っぽい会話ですね」
「……何なんですかね、これ」
「生活、ですかね」
カートを押しながら野菜を選び、肉をかごに入れる。気づけば買い物の動きまで自然に分担できていた。
「今日、キャベツ安いですよ」と言う鍋島に、「じゃあお好み焼きでもしましょうか」と返す。そんな何でもないやり取りが、少しだけこそばゆくて、でも嫌ではなかった。
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帰宅して二人で手分けして荷物を運んだ。食材を冷蔵庫にしまっていた、その時だった。
少しだけ開けていた居間の襖を、鍋島が荷物を運ぶ拍子にさらに押し広げる。その隙間から、するりと小さな影が飛び出した。
「えっ」
「ハヤブサ!」
二人同時に声を上げた。ハヤブサは短い足でぱたぱたと廊下を走り、奥へ向かう。
「あっ、待って!」
そこは、普段は閉めてある「おばあちゃんの部屋」だった。今日は掃除の後で、襖がわずかに開いたままになっていた。
ハヤブサはその隙間へ、迷いなく滑り込んでしまった。
慌てて追いかける杏里。けれど、鍋島の方が一歩早かった。
「大丈夫です」
彼はためらわず、その部屋へ足を踏み入れた。
部屋の中は、薄暗かった。カーテンは閉まったままで、家具も小物も、あの日から時が止まったように置かれている。
鍋島は部屋の隅で丸まっていたハヤブサを、そっと抱き上げた。
「捕まえました」
その声に、杏里は安堵して、それからハッとした。
鍋島もそこで気づいたらしい。腕の中のハヤブサを抱えたまま、ここが自分の入ったことのない場所であることを自覚したような顔で、周囲を静かに見回している。
「……」
鍋島が何かを言いかけた気配があった。けれど、杏里の方が先に、静かな声を漏らした。
「この部屋、そのままにしてるんです」
自分でも驚くほど、凪いだ声だった。
「ここに来たら……おばあちゃんがまだここにいるような気持ちになれるから」
小さく呟くみたいに言ったその言葉は、誰に聞かせるためでもなく出てしまったものだった。
鍋島が少しだけ目を細める。
「……それって」
「言わなくてもわかってます」
杏里は鍋島の言葉を、やわらかく制した。
未練だとか、前に進めていないとか。そういうことを、たぶん鍋島は言おうとしたんじゃない。でも、言葉にされる前に止めたかった。
自分でももう、分かっているからだ。ずっとこの部屋をそのままにしている理由も、ここに入ると少しだけ時間が戻ったみたいになることも。
「……戻りましょうか」
それだけ言って、杏里は先に部屋を出た。廊下に出てから、そっと襖を閉める。その音は小さかったけれど、胸の中には重く響いた。
鍋島も無言でその後ろへ続く。腕の中のハヤブサだけが、不思議そうにきょろきょろと首を振っていた。
居間に戻ると、組み立てを待つキャットタワーの箱が、現実を引き戻すようにそこに立っていた。
鍋島がハヤブサを床に下ろすと、子猫は何事もなかったようにこたつの周りを歩き始める。
杏里は小さな背中を見つめながら、静かに息を吐いた。
閉めた襖の向こうの冷えた空気は、まだ少しだけ、胸の奥に残っていた。




