第12話:深夜の焼きそば
翌朝、杏里が仕事の支度を終えてスマホを見た時、鍋島からメッセージが入っていた。
『おはようございます』
『今日は年末の特番収録で、帰りがかなり遅くなりそうです』
『夕飯は作れないので、杏里さんは先に食べてください』
『帰宅は深夜になると思うので、起こさないよう静かに入りますね』
画面を見つめたまま、杏里は小さく瞬きをした。
年末のテレビ収録。芸人なら当たり前の書き入れ時なのだろうけれど、こうして文字で見ると少しだけ現実味が違った。
それにしても、報告が丁寧だ。遅くなる理由も、夕飯のことも、帰り方の気遣いまで伝えてくるあたりがいかにも彼らしい。
杏里は短く返信した。
『分かりました』
『気をつけてください』
それだけ送って、スマホをしまう。
別に、それ以上言うこともない。ないはずなのに、出かける支度をしながら、何となくその文面が頭の隅に残っていた。
その日は仕事がそこそこ忙しかった。
値札の入れ替えに追われ、レジを打ち、接客をこなす。気づけば外は夕闇に包まれていた。
店の中を歩き回っている間は、鍋島のことなんてほとんど思い出さなかった。
けれど、仕事終わりにスーパーで買い物かごを持ち、夕飯の材料を選び始めた瞬間、ふいに今朝のメッセージを思い出した。
(夕飯は作れないので、杏里さんは先に食べてください……か)
「……別に、言われなくてもそうするし」
小さく独り言を漏らしながら、キャベツを手に取る。その横で、もやしにも目が留まった。麺売り場まで行って、一度通り過ぎて、また戻る。
焼きそばなら簡単だ。野菜も消費できるし、パッと作れる。別に、特別なことじゃない。
そう自分に言い聞かせながら、二玉入りの麺をかごに入れた。
「……二つ入りしかないだけだから」
誰に言い訳しているのか自分でも分からなかったが、そのまま豚こま肉のパックも手に取っていた。
帰宅後、杏里はエプロンを締めて台所に立った。
キャベツを刻み、もやしを洗い、フライパンに油を引く。ジュッと弾ける音と共に、肉の焼ける匂いが立ち上った。
考えてみれば、鍋島のために何かを作るのはこれが初めてだった。
作るといっても焼きそばだ。大した手間じゃない。むしろ、凝った料理じゃない分、気楽でいい。
ソースを回し入れると、香ばしい匂いが一気に広がった。
一人分を自分の皿によそい、残った分をどうするか一瞬だけ迷う。けれど、すぐに別の皿へ移してラップをかけた。
何か書き置きでもすべきだろうか。『温めれば食べられます』とか。でも、そこまですると急に気を遣いすぎている気がして、結局そのまま冷蔵庫へ押し込んだ。
作った。ただ、それだけ。
待っているわけじゃないし、感想が欲しいわけでもない。たまたま二人分になっただけだ。
そう思いながら自分の分を食べてみると、少しだけ味が薄かった。
「……微妙」
でも、作り直すほどでもない。彼も、きっと同じ感想を抱くだろう。まあいいか、と無理やり納得することにした。
風呂を済ませ、髪を乾かして居間の明かりを落とす。時計の針は十一時を回ろうとしていた。
テレビをつけても内容が頭に入らず、杏里はこたつに入ったままスマホを眺めていた。鍋島からは、特に連絡はない。
(忙しいんだろうな……)
年末の収録現場なんて、きっと戦場のような慌ただしさなのだろう。
先に寝ていてくださいとは言われていない。けれど、あんなに「静かに入る」と念を押されたのだから、起きている必要はまったくない。ないのに、どうしてもすぐに布団へ行く気になれなかった。
「……別に、待ってるわけじゃないから」
また独り言で武装して、こたつ布団を引き上げる。
結局、日付が変わる直前にようやく眠気に負けて、自室へ戻った。
深夜。玄関の扉が静かに閉まる音と、廊下をそっと歩く気配で、杏里の意識がうっすらと浮いた。
本当に、起こさないように気を遣っているのが伝わってくる静かな帰宅だった。
杏里は布団の中で目を開けたが、起き上がりはしなかった。眠気が勝っていたけれど、「帰ってきたんだな」とだけ思った。
その少し後、台所から冷蔵庫を開ける小さな音が聞こえた。
鍋島はネクタイを緩めたまま、冷蔵庫の前で動きを止めていた。
ラップのかかった焼きそば。見覚えのない、けれど自分のためのものだとすぐに分かる置き方。
彼はしばらくその皿を見つめてから、そっと取り出した。
深夜の台所に、電子レンジの加熱音だけが低く響く。
張り詰めていた収録、長い待ち時間、慣れない現場。ようやく帰ってきた無人の家の中で、自分の分の食事が用意されている。
「……やっぱりやさしいな」
ぽつりと、独り言が漏れた。
温め直した焼きそばを、静かに口に運ぶ。少しだけ、味が薄い。けれど、それが妙に身体にちょうどよかった。
これを杏里が作ってくれたのだと思うだけで、冷え切った胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……こういうの、沁みるな」
食べ終えた皿を丁寧に洗い、音を立てないように流しへ伏せる。
消えかけた居間の明かりを一度だけ見つめて、鍋島は小さく笑った。
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翌朝、杏里が台所へ向かうと、流しには洗われた皿が一枚伏せてあった。
焼きそばの皿。食べたんだ、という事実に加え、きれいに洗われていることに少しだけ安堵する。
そこへ、ちょうど和室から鍋島が出てきた。
「おはようございます」
「おはようございます……」
一瞬の沈黙。いつもと同じ朝なのに、何かが昨日までとは違う気がする。
先に口を開いたのは、鍋島だった。
「昨日、焼きそば……ありがとうございました。すごく助かりました」
杏里は冷蔵庫を開けるふりをして、できるだけ平坦な声を出す。
「別に。多く作りすぎただけですから」
「そういうことにしておきます」
「何ですか、その含みのある言い方」
「いや、嬉しかったので。帰ってから、ちょっとびっくりしました」
まっすぐな言葉に、また落ち着かなくなる。
「……味、薄くなかったですか?」
「少し」
「やっぱり」
「でも、ちょうどよかったです」
「それ、やさしさで言ってませんか?」
「さあ」
鍋島が少し笑う。その顔を見て、杏里もようやく肩の力を抜いた。
遅く帰る夜に、自分の分の食事が用意されている。そんな些細なことが、思ったよりもずっと、二人の距離を動かしていく。
「次に遅くなる時は、もう少し早めに言ってくださいね」
「別に、そこまでしなくても……」
「でも、言った方がいいかなと思ったので。……その方が、作り置きもしやすいですし」
しまった、と思った時にはもう遅かった。
「……また、作ってくれるんですか?」
鍋島が少しだけ目を丸くする。
「いや、そういう意味じゃ……」
「じゃあ、どういう意味ですか?」
「……朝から面倒くさいです」
「期待してますね」
楽しそうに笑う鍋島に、杏里はもう何も言い返せなかった。コップを持って逃げるようにテーブルへ向かう彼女の背中を、鍋島はいつまでも穏やかな眼差しで見守っていた。




