第11話:家なんだから(2)
食事を終えたあとも、その日の鍋島はどこか静かにやさしかった。
杏里が食器を流しへ運ぼうとすると、「今日はそのままでいいですよ」と先に立ってしまうし、こたつの上を拭く手つきまで妙に丁寧だ。いつもなら少しだけ気まずくなるような親切も、今日は不思議と押しつけがましく感じなかった。
「お風呂、先どうぞ」
鍋島に言われて、杏里は小さくうなずいた。
「じゃあ……先に入ってきます」
「はい。ゆっくりどうぞ」
その「ゆっくり」という言葉が、今は少しありがたかった。
浴室に入って、湯船に肩まで浸かる。熱すぎずぬるすぎないお湯の中で、ようやく張りつめていたものが少しずつほどけていく気がした。
今日の客の顔。ずっと同じ説明を繰り返した自分の声。頭を下げ続けた、あの無機質な時間。それが、さっき鍋島に話したことで、ほんの少しだけ遠くなっている。
「……災難、か」
ぽつりと口に出す。ああいうふうに断定してもらえると、不思議と「自分のせいじゃない場所」まで戻ってこられる気がした。
風呂から上がり、髪をタオルでざっと拭きながら居間へ戻ると、鍋島はこたつの横に座っていた。
台本でも見ているのかと思ったが、顔を上げた鍋島の視線はまっすぐ杏里に向いた。
「おかえりなさい」
「ただいまです」
そう返して、杏里はこたつに入った。体はあたたまったけれど、気力まではまだ戻りきらない。タオルを肩にかけたまま、ぼんやりとしてしまう。
そんな杏里を見て、鍋島が少しだけ首を傾げた。
「杏里さん」
「はい」
「髪、今日は俺が乾かしてもいいですか?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「え……」
「ドライヤー、出しますね」
鍋島はそう言うと、前にも使った引き出しから慣れた手つきでドライヤーを取り出した。
「いや、いいですよ。自分でできますし」
杏里は反射的に言う。けれど鍋島は、珍しくそこでは引かなかった。
「わかってます。でも、今日はゆっくりしてほしいので」
その言い方があまりにもまっすぐで、しかも本当にそれ以上の意味がなさそうで、杏里は返す言葉を失う。
「……悪いです」
「悪くないですよ。今日は俺がそうしたいだけなので」
そこまで言われると、逆に断る方が不自然な気がしてくる。杏里はしばらく迷ってから、小さく息を吐いた。
「……じゃあ、お願いします」
「はい」
鍋島がやわらかく笑う。そのまま杏里の後ろへ回り、ドライヤーのコードを伸ばした。
スイッチが入る。温風がふわっと髪を揺らした。
最初に髪を指ですくわれた瞬間だけ、杏里の肩がほんの少し跳ねる。でも、鍋島の手つきは驚くほど丁寧で、急かすようなところがまるでなかった。
濡れた髪をやさしく分けて、根元から少しずつ乾かしていく。タオルで乱暴に拭いて終わりにしてしまう自分とは、扱いが全然違う。
「……慣れてます?」
杏里が前を向いたまま尋ねる。
「慣れているように見えますか?」
「ふざけないでください……」
「長い髪はあんまり経験ないですけど」
「じゃあ、なんでこんなに普通なんですか」
「美容室で乾かしてもらうのが好きだったので、見て覚えたのかもしれないですね」
「変なところで活きてますね」
「人生、何が役立つか分からないですよ」
ドライヤーの音に混ざって、その声が静かに落ちてくる。鍋島の指先が耳の後ろの髪をそっと持ち上げた時、杏里は少しだけ目を伏せた。
近い。でも、不思議と嫌じゃない。それどころか、今日一日まとわりついていたざらつきが、髪と一緒に少しずつほぐれていくような気さえする。
「熱くないですか?」
「大丈夫です」
「痛かったら言ってくださいね」
「いえ、大丈夫ですけど」
「それはよかった」
鍋島が少し笑う。やがて温風が止まった。
最後に髪を一度だけ軽く整えて、彼が静かに言った。
「できました」
杏里が振り返る前に、鍋島の指先が乾いた髪をひと筋すいた。
「ほら。杏里さんの髪、サラサラになりましたよ」
その言い方は少しいたずらっぽくて、杏里はようやく顔を上げた。
「ちょっと。からかってます?」
「少しだけ」
「やっぱり」
「でも、本当にきれいになりました」
その笑い方につられるように、杏里の口元も少しだけ緩んだ。
「……でも、ちょっとだけ元気出ました」
言ったあとで、急に照れくさくなる。けれど鍋島はそこを大げさに受け取らなかった。
「それならよかったです」
にっこりと、ただそれだけ言う。
恩に着せない。押しつけない。もっと言えば、自分が何かをしてあげたという顔さえしない。
こういうさりげないやさしさが、この人は本当にうまいのだ。たぶんそれは、芸人として人前に立ち、空気を見ながら生きてきた中で身につけてきた、彼なりの処世術なのかもしれない。
杏里はこたつの中で足を少しだけ伸ばした。さっきまで重かった胸の奥が、今は少しだけ軽い。
「……ありがとうございます」
今度は素直に言えた。
鍋島は少しだけ目を細める。
「どういたしまして」
外では理不尽なことばかりだったけれど、今はもうそれだけじゃない夜になっている。
杏里は乾いた髪の先にそっと触れた。本当に、少しだけサラサラしている気がした。
「……ほんとだ」
「だから言ったじゃないですか」
「そこは別に疑ってなかったけど」
「でも、ちょっとびっくりしてましたよ」
「してません」
「してました」
「見すぎです」
「今日は役得ということで。居候の」
「都合いいですね……」
そんなやり取りさえ、今は心地よかった。
夜は静かに更けていく。でもその静けさは、もう以前のような「一人分」だけの寂しいものではなくなっていた。




