第11話:家なんだから(1)
その日の夕方、杏里はいつもより少し遅く家に帰った。
玄関の鍵を開ける手つきからして、もうだいぶ雑だった。ただいま、と言う前に小さく溜息が漏れる。
今日は、本当に疲れた。
居間の方から、鍋島の声がした。
「おかえりなさい」
その声に、杏里はようやく「ただいま」と返す。けれど、自分でも驚くほど元気のない声だった。
靴を脱いで廊下を上がると、鍋島が台所から顔を出した。エプロン姿のまま、少しだけ目を細める。
「……今日、だいぶ疲れてますか?」
いきなり核心を突かれて、杏里は一瞬だけ言葉に詰まった。
「別に……」
反射でそう返してから、自分でその素っ気なさに気づく。
鍋島はそれ以上すぐには聞かなかった。ただ、やわらかい声で言う。
「とりあえず、座ってください。今、味噌汁を温め直しますから」
杏里は小さく眉を寄せた。
「いいですよ、自分でやります」
「今日は、そういう日じゃないように見えます」
「……」
「当たってますか?」
静かな聞き方だった。押しつけでもなく、探る感じでもない。
杏里はコートを脱いで椅子の背にかけると、小さく息を吐いた。
「……ちょっと、面倒なお客さんがいただけです」
「なるほど」
「ちょっと、じゃないかもしれませんけど」
「相当でしたか」
鍋島は鍋の火を弱めながら、頷いた。
「ごはんは、もう少しでできます」
「……ありがとうございます」
「いえ。こういう時に役立たないと、また居候界隈での立場が危うくなりますから」
「その界隈、絶対狭いですよね」
「たぶん、全国で見てもかなり狭いです」
少しだけ笑いそうになったが、今日はそこまで元気が出なかった。杏里はそのまま居間のこたつに座り込む。
鍋島は深追いせず、台所に立ったままだった。味噌汁の匂いがふわっと広がる。それだけで少しだけ肩の力が抜けるのが、なんだか悔しかった。
しばらくして、鍋島がトレイを運んできた。
「どうぞ」
「……すみません」
「気にしないでいいので。代わりに食べてください」
杏里は味噌汁を一口飲んだ。あたたかい。その温度が、思ったより身体に沁みた。
「何があったんですか」
鍋島が向かいに座る。その声は静かで、急かす感じがなかった。
杏里は茶碗を持ったまま、少しだけ黙った。言うほどのことじゃない、とも思う。でも、今日の疲れは、誰かに少しこぼしたかった。
「……ジャンク品って書いてあるのに」
ぽつりと出た声が、思ったより低かった。
「はい」
「値札にも書いてあったし、口頭でも確認したのに、読んでなかったみたいで。後から『壊れてる』って持ってきて、ずっと文句を言われて……」
そこまで言って、杏里は箸を置いた。
「いや、読めよ、って思うじゃないですか」
言った後で、自分の口調が少し荒くなっていることに気づく。けれど、鍋島はまったく気にした様子がなかった。
「思う」
短く、普通に返ってくる。
「それは、杏里さんは悪くないです」
「でも、接客だから説明しないといけないし」
「説明は、したんですよね?」
「した!」
即答して、それから自分でも少し詰まった。さっきより、はっきりと言葉が崩れた。
鍋島はやっぱり何も言わない。ただ、そのまま受け取ってくれる。
「じゃあ、杏里さんの責任じゃないです。ちゃんと書いてあって、説明も聞いて、それで読まないのは相手の責任ですから」
鍋島の声は穏やかだった。
「今日、杏里さんは人のミスまで背負わされた感じだったんじゃないですか?」
その言い方に、胸の奥が少しだけ痛くなる。まさに、それだった。
「……ずっと謝っていたのが、しんどかった」
杏里はこたつ布団の端を握った。
「別に自分が壊したわけでもないのに。ずっとこっちが悪いみたいな顔をして、頭を下げて。あれ、本当に疲れる」
言ってしまった、と思う。でも、もう止まらなかった。
「しかも全然人の話を聞かないし。だからジャンクだって書いてあるじゃんって、何回も思った。なのに、こっちは敬語で説明して謝って。意味わかんない……」
そこまで言って、杏里はふっと息を吐いた。
「……あ」
自分の言葉が、もう完全に素のままだったことに気づく。
鍋島が少し首を傾げた。
「うん?」
「いや、今の……」
「別にいいんじゃないですか? 今の杏里さんの方が分かりやすい」
「でも」
「家なんだし」
鍋島はそう言って、小さく笑った。
「家の中でまでちゃんとしてなくていいですよ」
その一言が、思った以上に深く落ちた。
家なんだから、ちゃんとしてなくていい。
店では、笑って、敬語で、理不尽でも顔に出さないのが当たり前だと思っていた。でも今、その「面」をここでは下ろしていいと言われた気がした。
「……そういうの、ずるいです」
小さく呟く。
「何がですか?」
「言い方」
「褒め言葉なら受け取りますよ」
「褒めてないし」
「大丈夫」
鍋島が言う。
「さっきより、顔がやわらかいです」
杏里は味噌汁を飲みながら視線を逸らした。でも、否定はできなかった。さっきより少しだけ、呼吸がしやすい。
「人って、自分が恥ずかしい時ほど人のせいにしたくなるんですよね。読んでいなかった自分を認めるより、店のせいにした方が楽だから」
鍋島が静かに続けた。
「だからといって、杏里さんが背負う必要はないです。今日は災難でしたね」
その言葉に、杏里はようやく肩の力を抜いた。
「……うん」
気づけば返事まで崩れていた。でも、もう直す気にはならない。
「災難だった」
「だったな」
鍋島も、ごく自然にそこだけ合わせるように言った。
食べ終わりかけた頃、鍋島が思い出したように立ち上がった。
「そうだ。こういう日は糖分で黙らせるのが一番ですから」
「なにそれ。聞いたことないですけど」
「でもだいたい効きます。プリンありますけど、食べますか?」
「……食べる」
「よかった。買ってきて正解でした」
出されたプリンのスプーンを持ちながら、杏里は少しだけ笑った。
笑えるくらいには、戻ってきたらしい。
「鍋島さん」
「はい」
「ありがとうございます」
言うつもりはなかったのに、自然に口から出た。
鍋島は少しだけ目を丸くして、それからやわらかく笑う。
「どういたしまして」
たったそれだけで、また少しだけ落ち着かなくなる。でも今のそれは、嫌なものではなかった。
外では理不尽なことばかりでも、家に帰って、こうやって少しだけ気を抜けるなら。この同居生活は、思っていたよりずっと、自分を救ってくれるのかもしれない。
杏里はプリンを一口食べて、こたつの向こうにいる鍋島を見た。
そして今日はもう、それ以上は何も言わずに、静かな夜の温度に身を預けることにした。




