第10話:嵐のあとの温度(1)
翌朝、杏里はいつも通りの時間に目を覚ました。
キッチンへ向かうと、そこにはすでに鍋島が立っていた。昨夜の泥酔ぶりが嘘のように、彼は整った身なりでコーヒーを淹れている。
「おはようございます。昨日は……すみませんでした。最後、記憶がだいぶ怪しいです」
「おはようございます。……歩くのが気合い頼みだったことは覚えてます?」
「最悪ですね、俺」
鍋島は苦笑しながら、杏里の分のマグカップをテーブルに置いた。
「結衣さん、帰りは大丈夫でしたか?」
「うん。林田さんと一緒に送ったから。二人とも最後まで元気でしたよ」
昨夜の賑やかさを思い出し、杏里の口元が少しだけ緩む。
結衣が嵐のように去っていったあとの家は、以前よりも少しだけ「他人同士の場所」という硬さが取れたような気がした。
「四人で飲むの、思ったより悪くなかったですね」
「そう言ってもらえると助かります。林田も『杏里ちゃんは俺の仕上がりに見惚れてた』とか、また変なこと言ってましたけど」
「それは絶対ないので、否定しておいてください」
そんな軽口を叩きながら、二人は並んで朝のトーストを口にする。
鍋島が居候を始めてから、まだ一週間も経っていない。けれど、朝のこの静かな時間や、昨夜のような騒がしい夜が、少しずつ杏里の日常に溶け込み始めていた。
不意に、昨夜の彼の言葉が脳裏をよぎる。
『やさしいですね』
熱を持ったあの低い声を思い出し、杏里はわざとらしくパンを大きくかじった。
「……鍋島さん」
「はい」
「あんまり飲みすぎないでください。次は本当に玄関に放置しますから」
「気をつけます。放置は、普通に風邪ひくので」
鍋島は穏やかに笑い、空になったマグカップを片付けに立った。
その背中を見つめながら、杏里は自分の中に芽生えた小さな変化を、もう少しだけ見守ってみることにした。
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その日、三日月ロケットの二人は、商業施設の屋外イベントスペースにいた。
開演前、客席の前ではスタッフが慌ただしく動き回っている。ステージ脇に設けられた簡易的な控えスペースには、機材の確認音や遠くの館内放送が混ざり合い、独特の活気が満ちていた。
鍋島はマイクチェックを終え、袖で軽くジャケットの裾を整えた。その隣で、林田はいつものようにスマホの黒い画面を鏡代わりにして前髪を確認している。
「なあ、鍋島」
「何」
「昨日の飲み会のあと、少しは杏里ちゃんと仲良くなれた?」
あまりに軽い調子で言われ、鍋島は一瞬だけ返事に詰まった。今朝、食卓で並んでトーストを食べた時の、あの少しだけ距離の縮まった空気感が脳裏をよぎる。
「……仲良くって、何のことだよ」
「え、そこ照れるところなんだ」
林田がニヤリと笑う。
「いや、別に照れてない。お前が変な言い方をするからだろ」
「変じゃないじゃん。実際、ちょっとは距離が縮まったんじゃないの?」
鍋島は小さく息をついた。言い返すのも面倒になり、そのまま視線をステージの方へ逃がす。
「今朝、普通に会話したくらいだよ」
「へえ」
「何だよ、その返事」
「いや、十分じゃん」
林田が肩を揺らして笑う。鍋島は呆れた顔をしながらも、それ以上は何も言わなかった。
その時、控えスペースの反対側から明るい声が近づいてきた。
「おはようございます!」
振り向くと、アイドルグループ『虹色トランジスター☆』の三人がスタッフに案内されてやってくるところだった。
先頭は赤担当のゆみりん。きびきびした足取りで、笑顔を絶やさず周囲に気を配っている。後ろには、少し眠たそうな顔で歩く青担当のふわっち。その隣で、黄色担当のみみぃが興味津々に周囲を見回していた。
「おはようございます。本日ご一緒させていただく、虹色トランジスター☆です」
「どうも。よろしくお願いします」
ゆみりんの丁寧な挨拶に、鍋島も軽く会釈を返した。その横で、林田がいつもの調子で口を開く。
「よろしくー。俺、今日ビジュいいから見ておいて」
あまりにさらっと言うので、鍋島は即座に横目で睨んだ。
「アイドル相手に言うことじゃないだろ」
「いや、こういうのは先に共有しておいた方がいいかなって。今日の仕上がりを」
「いらない共有だな」
みみぃがそのやり取りを見て、ふんと小さく鼻を鳴らした。
「あんた達より、うちらが客席沸かすからね!」
「お、強気だね」
林田が楽しそうに応じる。すると隣のふわっちが、眠そうな顔のまま首を傾げた。
「今、なんて言ったの? 聞いてなかった」
「ちょっと!」
みみぃがすぐに振り返る。
「そこはちゃんと乗ってよ!」
「ごめん、別のこと考えてた。今日のお昼、何かなって」
「自由すぎるでしょ!」
すぐにゆみりんが二人の間に割って入った。
「ちょっと、余計なこと言わないの!」
それから三日月ロケットの方へ向き直って、にこっと微笑む。
「本日はよろしくお願いします。お互い頑張りましょうね!」
「はい、よろしくお願いします」
スタッフが「そろそろお願いします」と声をかけに来た。客席のざわめきが大きくなり、開演前の熱気が空気中に混ざり始める。
鍋島は一度だけ、深く息を吸い込んだ。その横で林田が小声で囁く。
「今日も頑張ろうな」
「そっちこそ、アイドル相手に変なこと言うなよ」
「もう言った後なんだよなあ」
「知ってる」
思わず小さく笑ってしまい、それで少しだけ肩の力が抜けた。
ステージの向こうから、司会の声が響く。虹色トランジスター☆の三人が先にスタンバイへ向かい、その背中を見送りながら、鍋島もジャケットを整えた。
昨夜のことが、ふと頭をよぎる。
送りの車の中の静けさ。
支えてくれた、杏里の手のあたたかさ。
『やさしいですね』と言った、自分の熱っぽい声。
「鍋島?」
林田に呼ばれ、鍋島はハッと意識を引き戻した。
「何」
「珍しくぼんやりしてる」
「してないよ」
「いや、してるね」
そう言いながらも、林田はそれ以上は突っ込まなかった。代わりに、軽く背中を叩く。
「ほら、行くぞ」
客席のざわめきが一段大きくなった。
出囃子が鳴り、照明が弾ける。
三日月ロケットの、今日のステージが始まった。




