第9話:四人で飲む夜
飲み会の日取りは、結衣がその場の勢いで決めたわりに、驚くほどあっさりまとまった。
結衣が候補の日をいくつか出し、鍋島さんが相方の林田さんに聞き、林田さんが「行く」と二つ返事。その報告を聞いた時、杏里は「そうだろうね」としか言えなかった。
そして当日。
仕事終わりの杏里は、待ち合わせ場所へ向かう前から、すでに少し疲れていた。まだ始まってもいないのに、気疲れの予感しかしない。
店は駅近くの気軽な居酒屋だった。定食も出すような、落ち着いた店を選んでくれたのは結衣の配慮らしい。
「おつかれー!」
結衣はすでに席についていて、最初からやたら上機嫌だった。
「今日、絶対楽しいから!」
「まだ始まってないんだけど」
「こういうのは、始まる前の『勢い』が大事なのっ」
意味が分からない。杏里が席に着いたところで、鍋島さんと林田さんもやって来た。
「お疲れさまです」
鍋島さんが軽く会釈し、隣で林田さんがいつもの軽い調子で手を振る。
「おつかれー。……おっ、今の俺、窓の反射で見たらいい感じに仕上がってたわ」
「今見たよね? 自分の顔」
結衣がすぐ反応する。
「見るだろ。私服は油断すると事故るからな。仕上がり確認は義務」
「すごい真面目に何言ってるか分からない」
「俺もたまに分からないです」
鍋島さんがさらっと言い、杏里は少しだけ笑った。
四人が揃うと、思った以上に空気は賑やかだった。結衣と林田がすぐ同じテンポで話し始め、鍋島さんがそれを一歩引いた位置から拾う。杏里も、結衣の話振りと鍋島さんの自然な繋ぎのおかげで、気づけば会話の輪の中にいた。
「杏里ちゃん、お酒は?」
林田さんがメニューを差し出す。
「今日は車なので、飲みません」
「偉い。俺だったらその時点で『今日は烏龍茶の顔』に切り替えるね」
「烏龍茶の顔って何ですか」
「テンション管理。今日はほら、整ってるだろ?」
「……聞いてないです」
そんな、どうでもいい会話が次々続く。結衣は最初こそ「なべさんと飲み会だ!」とはしゃいでいたが、三十分もすればだいぶ普通に喋っていた。順応が早い。
話題は自然と、仕事やライブのことへ流れていく。
「杏里ちゃん、前よりちょっと慣れたよね」
林田さんが枝豆をつまみながら言った。
「何にですか」
「俺らに」
「別に……」
「ほら、その『別に』の言い方とか」
「林田、それ言いすぎ」
鍋島さんが小さく笑いながらたしなめる。
結衣がジョッキを置いて身を乗り出した。
「でも分かるかも。前より普通に喋ってるよ」
「結衣まで何なの」
「でも、前より話しやすくはなってる気がしますよ」
鍋島さんが少しだけ目を細めてそう言うと、杏里は反論に詰まった。
「……それは、家で顔を合わせてるからでしょ」
結局そう返すと、結衣に「それを慣れって言うんだよ」とニヤニヤ笑われた。
飲み会も終盤、林田さんの顔がほんのり赤くなってきた頃。鍋島さんの様子が少しずつ変わり始めた。
急に静かになったわけではない。ただ、返事までの間が少し長くなり、笑う時の肩の力が抜けてきた。
「大丈夫ですか?」
隣の鍋島さんに、杏里は小声で尋ねた。
「大丈夫……だと思っていましたけど、だいぶ自信がなくなってきました」
「……でしょうね」
彼は笑っていたけれど、いつもより目元が柔らかく、どこかぼんやりしている。酒に引っ張られているのが、隣にいる杏里にはよく分かった。
店を出ると、外の空気はすっかり夜らしく冷えていた。
杏里は車を出し、上機嫌な結衣と饒舌な林田さんを順に送った。林田さんは降り際まで「酒が入っても顔が死んでないのは才能」とかなんとか言っていて、結衣が呆れて笑っていた。
二人を降ろすと、車内は急に静まり返った。
助手席には、鍋島さんだけが残っている。彼は窓の外を眺めたまま、反応が鈍くなっていた。
「……鍋島さん?」
「はい」
返ってきた声が、だいぶゆるい。
「家に着いたら、そのまま寝てくださいね」
「はい」
「今日は素直ですね」
「今、あんまり余裕がないので……」
「それは、見れば分かります」
鍋島さんは少しだけ笑い、そのまままた静かになった。
家に着き、エンジンを止める。
「着きましたよ」
「……ありがとうございます」
「歩けますか?」
「歩きます。……気合いで」
「気合いに頼らないでくださいよ」
助手席のドアを開けると、彼は立ち上がったものの足元が危なっかしい。杏里は反射的に腕を伸ばした。
「危なっ!」
「すみません……」
「謝らなくていいですって」
支える手が、近い。
鍋島さんの体温とお酒の匂い、そして夜の冷たい空気が混ざり合って、杏里は変に落ち着かなくなる。
どうにか和室まで連れていき、布団の前に座らせた。彼は大人しく腰を下ろし、ぼんやりとこちらを見上げている。
「お水、持ってきますね」
台所へ急ぎ、水を汲んで戻ると、彼はまだそのままの姿勢で待っていた。
「飲めますか?」
「飲みます」
「言い方にだけ気合いが入ってる……」
鍋島さんは水を飲み干し、ふうっと小さく息をついた。
そして、とろんとした目のまま、杏里をまっすぐに見つめた。
「杏里さん」
「……何ですか」
「やさしいですね」
不意打ちのような言葉に、杏里は心臓が跳ねた。
「……酔ってるからって、変なこと言わないでください」
「変なことじゃ、ないですよ」
「いいから寝てください。そういう時だけ素直なんだから」
杏里は逃げるように布団を広げ、彼に掛けた。鍋島さんは少しだけ笑って、そのまま目を閉じた。眠りに落ちるまで、一瞬だった。
杏里はしばらくその場に立っていたが、やがて小さく息を吐いて部屋を出た。
居間に戻って、こたつに入る。
静かだった。さっきまでの喧騒が嘘のようだが、どこか少しだけ、家の中が温かい気がした。
結衣が笑い、林田さんがふざけ、鍋島さんがそれを拾う。
その光景が、まだこの部屋に残っているような気がした。
ほんの少しだけ、距離が近づいたのかもしれない。
そう思うと、また胸の奥が騒がしくなる。
「……やさしい、って何」
小さく呟いた声は、誰にも届かないまま、夜の静寂に溶けていった。




