第8話:襖の向こうの居候(2)
結衣に事情を説明し終えるまで、思ったより時間がかかった。
「いや、待って。……本当に?」
「だから、本当だってば」
「でも、だって、なべさんが?」
「俺が、です」
鍋島さんがこたつの向こうで静かに頷く。
結衣はまだ処理しきれない顔のまま、杏里と鍋島さんを交互に見た。それから、ふうっと長く息を吐いて、こたつの縁に手をつく。
「……すご」
「感想、それだけなの」
「だってすごいじゃん。あたしの親友の家に、推してる芸人が普通に住んでるんだよ? 職権乱用じゃない?」
「言い方。乱用も何も、あたしにそんな権限ないから」
「しかも、ただ遊びに来たとかじゃなくて、同居?」
「期限付き」
杏里がすぐに訂正する。
「ちゃんと期限付き。一ヶ月くらい」
「でも同居は同居じゃん」
結衣はまだ信じきれない様子で、ゆっくりと居間を見回した。こたつの上の台本、鍋島さんのマグカップ、部屋の隅に置かれた見慣れないバッグ。そういう細かい「生活の痕跡」を追うたびに、顔色がじわじわと変わっていく。
「……本当に、生活してるんだ」
「だからそうだってば」
「いや、頭では分かってるんだけど、何ていうか……」
結衣はこたつの前にどっしりと座り込み、鍋島さんを見据えた。
「なべさんが藍原家のこたつに入ってるの、だいぶ情報量が多い。ちょっとしたコラ画像みたい」
「俺も、そう言われると不思議な気がしてきました」
「なべさんまで不思議がらないでくださいよ!」
声を張る結衣に、鍋島さんが少しだけ笑う。杏里はその向かいで、ようやく一息ついた。
予想通りうるさくはなったけれど、結衣が変に深刻にならないのは、正直助かった。
「で?」
結衣が急に、鋭い視線を杏里に向けた。
「で、って何」
「何日目よ、同居」
「……まだ1週間経ってないくらい」
「え、じゃあ今めちゃくちゃ貴重な初期段階じゃん」
「何その言い方」
「大事でしょ、最初の空気感。こう、お互いの出方を伺ってる感じとか」
「観察対象みたいに言わないで」
鍋島さんが二人のやり取りを聞きながら、ぽつりと口を開く。
「結衣さん、たぶん思っていた以上に元気な方ですね」
「それ、褒めてます?」
「だいぶ、褒めてます」
「やったー!」
結衣は嬉しそうに答え、順応の速さを見せつけた。いや、ただ面白がる速度が異常に早いだけかもしれない。
杏里はこたつの上に、結衣が持ってきた焼き菓子を皿に並べた。
「せっかく持ってきたんだから、食べれば」
「あ、そうだった」
結衣が手を伸ばしかけて、ふと止まる。
「なべさんも食べます?」
「いただいていいなら」
「どうぞどうぞ! あたしのおごりです!」
「じゃあ、遠慮なく」
普通に会話が回っている。それがなんだか奇妙で、でも少しだけおかしかった。
結衣は菓子を一つ口に入れて、もぐもぐしながらまた杏里を見た。
「でもさ」
「なに」
「なんで黙ってたの」
「……言ったら、こうなるから」
「なるよ。当たり前じゃん」
「だからだよ」
「いや、そこまで込みで先に言ってよ」
「面倒だったし、絶対文面じゃ収まらないでしょ」
「それはそうだけど」
結衣は納得したような、していないような顔で頬を膨らませる。
「でもさ、あたしが最後に知らされるの、ちょっと寂しいんだけど」
その一言だけ、少しだけ本音が混じっていた。
杏里は視線を落とし、こたつ布団の端を無意味にいじる。
「……別に、隠そうと思ってたわけじゃないよ」
「じゃあ何」
「まだ何か、自分でもよく分かってなかったから。説明しようとすると余計にややこしくなるし、それで……先延ばしになっただけ」
結衣は少しだけ目を細めた。その顔は、からかう時のものではなく、昔から杏里を見守っている時の、優しい親友の顔だった。
「そっか」
それだけ言って、結衣は無理にそれ以上は追及しなかった。そういうところが、結衣はずるい。
沈黙をやわらげるように、鍋島さんが焼き菓子を手に取った。
「でも、俺もちょっとホッとしました」
「何がですか?」
結衣がすぐさま反応する。
「いつかは知られるだろうな、と思ってたので。その時、どう説明されるのか少しだけ気になっていたんです」
「説明される側なのに?」
「当事者なんですけど、家の主導権は完全に杏里さんなので」
「何それ」
杏里が眉を寄せる。
「間違ってないですよ」
「いや、そうかもしれないけど」
「そこは大事です。勝手に『俺んち感』出したら、たぶんすぐ締め上げられるので」
「また物騒なことを……」
「前にも一回、そういう流れがありましたもんね」
鍋島さんが静かに言うと、結衣の目が輝いた。
「何それ聞きたい!」
「聞かなくていい!」
杏里が即座に遮る。
「気になるじゃん!」
「気にならなくていいの!」
「でも、杏里が誰かを締め上げるってちょっと新鮮だなあ」
「締め上げません。静かに追い出すだけです」
「なべさん、なにそれ面白い。ナイスコンビじゃないですか」
「ちょっと和むかなと思って」
「不穏なんだよなあ……」
結衣が笑いながら言うと、杏里まで少しだけ笑いそうになった。
変な会話だ。けれど、最初に襖を開けた瞬間の絶叫に比べれば、空気はだいぶ穏やかになっていた。
結衣は焼き菓子をもう一つ取り、今度はこたつの中で足を組み替えた。
「うーん」
「なに。嫌な予感しかしないんだけど、その顔」
「失礼だなあ。名案だよ」
「だからそれが怖いんだってば」
結衣はまったく怯まずに、ニカッと笑った。
「今度、四人で軽く飲みに行かない?」
さらっと、爆弾を放り込む。
杏里は数秒、何を言われたのか理解できなかった。
「……は?」
「だから、あたしと杏里となべさんと、あと林田さんも入れて四人」
「なんでそうなるの」
「せっかくこういう事態になったんだし、お祝い同然じゃん」
「お祝いって何。ただの困りごとの助け合いだよ」
「でもさ、今のままだと杏里となべさん、まだちょっとぎこちないでしょ? 外の空気吸いに行った方がいいって」
「ぎこちなくないよ」
「あるよね?」
結衣が鍋島さんに振る。鍋島さんは少し考えてから、正直に答えた。
「まあ、まだ少しは」
「ほら!」
「なんで嬉しそうなの」
杏里はじっと結衣を見た。こういう時の結衣は、もう止まらない。高校の頃からずっと、思いついたら楽しそうな方へ転がっていって、周囲を巻き込んでいく。
「……あたしは別に、行かなくていい」
「なべさんは?」
結衣はもう次へ行っている。
鍋島さんは焼き菓子の包みをきれいに畳みながら言った。
「俺は大丈夫ですよ」
「林田さんも絶対来るよね」
「林田は、飲みって聞いた時点でたぶん二つ返事です」
「ほらー! 決定!」
結衣は完全にその気になっていた。杏里はなおも抵抗する。
「決まってない。誰が決めたの」
「空気が決めたの。でもさ、杏里」
結衣が少しだけ声をやわらげる。
「ずっと家の中だけで顔を合わせるより、一回外で飲んだ方が、お互いの『素』が見えて楽になると思うよ」
その言い方に、杏里は少しだけ言葉を失った。ただ騒ぎたいだけじゃない。結衣なりに、この不自然な同居生活を杏里が少しでも楽に過ごせるようにと考えているのが分かったからだ。
「……一回だけだからね」
結局、折れたのは杏里の方だった。
結衣の顔がぱっと明るくなる。
「よし! じゃあ日程合わせるよ!」
「早いって。まだ明日も仕事だよ」
「こういうのは勢いが命でしょ!」
「命、背負わないでよ」
「じゃあ華?」
「林田さんみたいなこと言わないで」
その瞬間、鍋島さんがふっと笑った。
「確かに、今のは林田が好きそうです」
「でしょ?」
結衣がすぐに食いつく。
「結衣さんと林田、たぶん会話のテンポが近い気がします」
「え、ちょっと嬉しいかも」
「嬉しいんだ……」
杏里が呆れる。
結衣はもうスマホを取り出していた。
「えーと、なべさん。林田さんに聞いてもらってもいいですか?」
「今ですか」
「今です!」
「仕事早いなあ」
「褒めて!」
「そこはわりと本気で褒めてます」
鍋島さんが笑いながらスマホを手に取る。その様子を見ながら、杏里はこたつの中で小さくため息をついた。
どうしてこうなるんだろう。
でも、完全に嫌だとも言い切れない自分がいるのが、自分でも少しだけ面倒だった。
四人で飲み会。正直、気は進まない。
けれど、今より少しだけ、この家の中が風通しのいい場所になるのなら。
それは、ありなのかもしれない。
そんなことを、杏里はほんの少しだけ考えていた。




