第8話:襖の向こうの居候(1)
その日の昼すぎ、結衣からいつものように短いメッセージが届いた。
『今日そっち寄っていい? 差し入れあるよ!』
杏里は買い物袋を下げたまま、玄関先でその画面を見つめた。
来ると思っていなかったわけじゃない。むしろ、そろそろ来そうだとは思っていた。けれど、よりによって今日か、という気持ちの方が強い。
結衣にはまだ何も言っていない。
鍋島さんが同居していることも、家の中に男物の荷物が増えていることも、あの日から生活の温度が少し変わったことも。
言えば絶対にうるさくなる。それはもう、火を見るより明らかだった。
けれど今さら「今日はだめ」と返すのも不自然だ。結衣は元々、気が向けばふらっと来るし、杏里もそれを断ることはほとんどなかった。
しばらく迷ってから、杏里は短く返した。
『いいよ』
送ってすぐ、小さいため息が出る。
「……先に言っておけばよかったかな」
独り言を呟きながら、玄関を開けて家に入る。
居間の方からは、テレビの音が小さく聞こえていた。鍋島さんは今日は夕方からの仕事らしく、まだ家にいる時間だ。
買ってきたものを台所に置いてから、杏里は居間の襖を少しだけ開けた。
「結衣、今日来るので」
そう言うと、こたつで台本らしき紙を見ていた鍋島さんが顔を上げた。
「今日ですか?」
「はい。たぶんもうすぐ」
「なるほど」
彼は少しだけ笑った。
「じゃあ、なるべく静かにしていますね」
「それ、もうあんまり意味ない気がしますけど」
「確かに」
「というか、普通にいてください。隠れる方がややこしいので」
「分かりました。普通にいます」
その「普通」が一番刺激強いんだけどな……とは言わなかった。
冷蔵庫に買い出し品をしまっている途中で、インターホンが鳴った。
早い。
玄関を開けると、結衣がいつもの勢いのまま立っていた。茶髪のロングを揺らして、片手には紙袋。今日も快調そうな笑顔だ。
「お疲れー!」
「お疲れ。早いね」
「はい、これ。近くで見つけた焼き菓子。あんたんちで一緒に食べようと思って」
「気が利くじゃん」
「でしょ!」
受け取ると、バターの甘い匂いがふわっと漂った。杏里は紙袋を抱えたまま、迷いなく上がってくる結衣の後ろ姿を見送る。
「お邪魔しまーす!」
「だから、自分の家みたいに言わないで」
「何回目、その会話」
いつもの調子。それが逆に、これから起きる爆発を思うと落ち着かない。
杏里は仏壇の前へ寄り、焼き菓子を一つ取り出して供えた。
「今日、結衣が持ってきたからね」
おばあちゃん、甘いもの好きだったな……と心の中で呟き、手を合わせる。
その何気ない習慣を終えてから居間へ向かったが、その時にはもう、結衣はさっさと先に行っていた。
「ちょっと、結衣!」
「いいじゃん、いつものこと――」
結衣が勢いよく襖を開けた。
次の瞬間、ぴたりと時が止まった。
廊下の途中で、杏里は立ち止まる。結衣の背中が、彫刻のように固まっている。
襖の向こうには、こたつに入った鍋島さん。家用のラフな格好で、台本を手にしたまま、不思議そうにこちらを見ている。
数秒の、濃密な沈黙。
結衣は無言で、すーっと襖を閉めた。
ぱたん、と乾いた音がする。
そのまま、スローモーションで振り返る。顔が真顔すぎて、逆に怖い。
「……杏里」
「うん」
「今、いた?」
「いたね」
「なべさん……だよね?」
「そうだね」
結衣は何も言わず、もう一度勢いよく襖を開けた。
やっぱり、そこには鍋島さんが座っている。
「こんばんは」
鍋島さんが、極めて平穏な声で言った。
結衣は数秒フリーズしたあと、ようやく肺の底から声を絞り出した。
「なんでええええええええ!?」
絶叫が藍原家の居間にきれいに響き渡る。杏里は思わず額を押さえた。
「だから言ったじゃん」
「何も言われてないんだけど!? なんで!? なんでなべさんがこたつで丸まってるの!?」
「言ったらこうやってうるさくなるからだよ」
「うるさくなるに決まってるじゃん! 事件だよこれ!」
鍋島さんはこたつから少し身を起こして、行儀よく頭を下げた。
「どうも。お邪魔しています」
「いやいやいや、お邪魔してるレベルじゃないでしょ、これ!」
結衣が混乱したまま、杏里を激しく振り返る。
「何!? なんで普通にいるの!?」
「……同居してるから」
「その説明を真っ先にしなさいよ!」
杏里は小さく肩をすくめた。
「だから、言ったらこうなると思ってたからさ」
「なるよ! そりゃなるよ! 推しが親友の家でくつろいでるとか、心臓が持たないわ!」
結衣は両手で頭を押さえた。そのまま、もう一度恐る恐る鍋島さんを見る。鍋島さんは少し申し訳なさそうにしつつ、でもどこか面白がっているようにも見えた。
「びっくりしますよね。すみません」
「しますよ! 腰抜けるかと思いましたよ!」
「ですよね」
「なんでそんなに普通なんですか、なべさん」
「俺もまあまあ普通ではない事態だと思ってますけど、杏里さんの家なので」
もうだめだ。収集がつかない。
けれど、予想していたより少しだけ、杏里の心は軽かった。
結衣の驚き方がいかにも結衣で、鍋島さんの落ち着き方がいかにも鍋島さんで。その絶妙な温度差が、どこか可笑しかったのだ。
結衣は居間の入り口で数秒ためらったあと、ようやくそろそろと畳の上に足を踏み入れた。視線はずっと、鍋島さんをロックオンしたままだ。
「……本当に?」
「本当に何」
「本当に住んでるの?」
「見たまんまだよ」
「ええ……やば……」
「語彙力が死んでるよ」
杏里は手に持っていた菓子をテーブルに置いた。鍋島さんがその紙袋に目を向ける。
「それ、差し入れですか?」
「あ、はい……そうです……どうぞ」
結衣はまだ処理落ちしたような顔で、ぎこちなく頷いた。
杏里は小さく息をつき、こたつの端に腰を下ろす。
ここからしばらく続くであろう尋問を覚悟しながら、ようやく腹をくくった。
親友に、ちゃんと話す時が来たらしい。




