第7話:朝の距離感
同居二日目の朝、杏里はいつもより少し早く目が覚めた。
まだ眠い頭のまま布団の中で目を開けて、最初に思ったのは――この家の中に、自分以外の誰かがいるということだった。
静かな家だ。いつもと同じ静けさなのに、自分ひとりの朝じゃないと分かるだけで、妙に意識がはっきりしてくる。
「……やだな、これ」
小さく呟いて、杏里は布団を抜け出した。
顔を洗い、髪をまとめて、いつものように支度をしようとする。けれど、洗面所に置かれた見慣れない歯ブラシが視界に入った瞬間、また変な心許なさに襲われた。
鍋島さんがいる。
昨日から分かっていたことなのに、朝の明るさの中で突きつけられると、その事実がやけに生々しい生活感を持って迫ってくる。
杏里は小さく息を吐き、制服のワイシャツに袖を通した。
今日は朝から忙しい日だったはずだ。余計なことを考えている暇なんてない。
そう自分に言い聞かせながら居間へ向かうと、台所の方からかすかに物音がした。
足が止まる。
(え、もう起きてるの?)
そっと覗くと、そこに鍋島さんがいた。昨日とは違う、アイロンのしっかりかかったシャツ姿。背中を向けたままトースターの前に立ち、片手にはマグカップ。そこからは湯気が立っていた。
振り向いた鍋島さんと、真正面から目が合う。
「あ、おはようございます」
あまりに普通すぎる挨拶に、杏里は一瞬返事が遅れた。
「……おはようございます」
「起こしませんでした?」
「いや、大丈夫です。自分で起きたので」
「よかった」
鍋島さんはそう言って、また自然にトースターへ視線を戻した。妙な気まずさを感じているのは、たぶん杏里だけだ。
「朝、早いんですね」
「杏里さんもですよね」
「あたしは仕事があるので」
「俺も今日は午前中から動くので」
言いながら、彼は焼き上がったパンを皿に移す。その手つきは、昨日の夜と同じで無駄がない。
「……それ、自分の分ですか?」
気づけば、問いかけていた。鍋島さんが一瞬だけきょとんとする。
「そうですけど。二枚焼けたので、杏里さんの分もありますよ」
「え?」
「あと、コーヒーは苦手でしたっけ?」
「苦手じゃないですけど……」
「じゃあよかった。勝手に淹れちゃいました」
勝手に、の使い方が妙に丁寧で、怒るに怒れない。テーブルの上を見ると、トーストの皿が二枚と、マグカップが並んでいた。
「……なんで」
「なんで、って」
鍋島さんは少しだけ笑う。
「一人分だけ作るのも変だったので。俺だけ食べてるのも、なんだか座りが悪いじゃないですか」
「そんなに気を遣わなくていいですよ」
「気を遣ったっていうか、朝の『流れ』で。ついでですよ」
そう言いながらも、パンの香ばしい匂いが漂ってくる。それにコーヒーの香りが混ざると、空腹がちゃんと現実味を持って訴えかけてきた。
鍋島さんは椅子を引いた。
「食べないなら、俺が二枚いきますけど」
「そういうこと言われると断りづらいんです」
「じゃあ作戦成功ですね」
「え?」
「ちょっと、食べてもらおうかなって思ってたので」
真面目な顔で言うから、杏里は思わず眉を寄せた。でも結局、吸い寄せられるように席に着いてしまう。
「……いただきます」
「はい、どうぞ」
トーストは絶妙な焼き加減で、バターが薄く均一に塗られていた。
「……」
「どうですか?」
「……普通に、美味しいです」
「よかった」
それだけの会話。なのに、妙に落ち着かない。向かいに人がいて、一緒に朝ごはんを食べている。相手は昨日から居候し始めた芸人。何回考えても状況がおかしかった。
「鍋島さん」
「はい」
「こういうの、慣れてるんですか。生活するの」
聞いてから、少し変な言い方だったかなと思う。けれど鍋島さんは気にした様子もなく首を傾げた。
「一応、大人ですし、それなりには」
「いや、そういう意味じゃなくて。人の家に馴染むのが、っていうか」
「……ああ、それですか」
鍋島さんはマグカップを持ちながら、少し考えるように視線を落としたあと、ゆっくりと言った。
「馴染んでいるつもりはないですけど。そう見えるとしたら、それは杏里さんの家が落ち着くからじゃないですか?」
まっすぐ言われ、杏里は言葉を失う。
「……朝からそういうこと、言わないでください」
「どういうことですか?」
「そのままです」
「褒めたつもりだったんですけど」
「分かってます」
「じゃあよかった」
全然よくない。そう言い返したいのに、喉に言葉が詰まる。
結局、逃げるように朝食を終えて立ち上がった。
「じゃあ、あたし先に出ますね」
「はい。いってらっしゃい」
「鍋島さんも」
「いってきます」
家の中で交わす、まだ慣れない挨拶。
その日、仕事は朝から忙しかった。値札の入れ替えに接客、レジ。
午前中は無我夢中で、鍋島さんのことなんて思い出す暇もなかったはずなのに。
休憩室でお弁当の蓋を開けた時、不意に今朝の言葉がよみがえる。
『一人分だけ作るのも変だったので』
「……変なの」
口に出してから、何が変なのか自分でもよく分からなくなる。
優しいのかもしれない。でも、あまりに自然に懐に入ってこられると、自分のペースが狂わされるようで怖い。
午後も忙しさに流されるまま時間が過ぎ、閉店する頃にはすっかり日が落ちていた。
駐車場へ向かいながら、冷えた風に肩をすくめる。
(家に帰れば、鍋島さんがいる)
そう思った瞬間、自分でも分かるくらい、足が少しだけ速くなった。
「……別に、急いでないし」
家に着くと、居間の灯りがついていた。
玄関を開けた瞬間、かすかに漂う出汁の匂い。
「ただいま」
無意識に声が出た。前のような静まり返った暗闇じゃない。
「おかえりなさい」
台所の方から返事が来た。鍋島さんが普通の顔で、お味噌汁を温め直している。
「……何してるんですか」
「昨日の残り、温め直してました。あと、ご飯も炊けてますよ」
「……なんで」
「なんで、って」
鍋島さんは少し首を傾げる。
「杏里さん、帰ってからまた一から作るの、めんどくさいかなと思って」
「また、そういう……」
杏里はコートを脱ぎながら、何とも言えない気持ちで彼を見た。めんどくさいのはその通りだ。でも、先回りされると、やっぱり戸惑う。
「……ありがとうございます。でも、あんまり何でもしないでくださいね」
「どうしてですか?」
「慣れちゃうので」
「慣れてもらった方が、俺としては助かるんですけど」
「そういう問題じゃなくて」
鍋島さんが小さく笑った。
「じゃあ、ほどほどにしておきます」
「そうしてください」
「難しいな、親切の量って」
向かい合って、温かい夕食を食べる。
鍋島さんは食べながら、今日の仕事のことを少しだけ話してくれた。林田さんが「照明が俺に追いついてない」という謎の持論を展開していた話。杏里は思わず吹き出した。
家の中で、こんなふうに気を抜いて笑っている自分。それがまだ少し不思議だ。
昨日よりも、今日の方が少しだけ自然。
まだ落ち着かないし、慣れないけれど。
そのわずかな変化を、杏里はまだうまく言葉にできずにいた。




