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三日月ロケット、居候中  作者: あしゅ太郎


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10/12

第7話:朝の距離感

 同居二日目の朝、杏里はいつもより少し早く目が覚めた。


 まだ眠い頭のまま布団の中で目を開けて、最初に思ったのは――この家の中に、自分以外の誰かがいるということだった。


 静かな家だ。いつもと同じ静けさなのに、自分ひとりの朝じゃないと分かるだけで、妙に意識がはっきりしてくる。


「……やだな、これ」


 小さく呟いて、杏里は布団を抜け出した。


 顔を洗い、髪をまとめて、いつものように支度をしようとする。けれど、洗面所に置かれた見慣れない歯ブラシが視界に入った瞬間、また変な心許なさに襲われた。


 鍋島さんがいる。


 昨日から分かっていたことなのに、朝の明るさの中で突きつけられると、その事実がやけに生々しい生活感を持って迫ってくる。


 杏里は小さく息を吐き、制服のワイシャツに袖を通した。


 今日は朝から忙しい日だったはずだ。余計なことを考えている暇なんてない。


 そう自分に言い聞かせながら居間へ向かうと、台所の方からかすかに物音がした。


 足が止まる。


(え、もう起きてるの?)


 そっと覗くと、そこに鍋島さんがいた。昨日とは違う、アイロンのしっかりかかったシャツ姿。背中を向けたままトースターの前に立ち、片手にはマグカップ。そこからは湯気が立っていた。


 振り向いた鍋島さんと、真正面から目が合う。


「あ、おはようございます」


 あまりに普通すぎる挨拶に、杏里は一瞬返事が遅れた。


「……おはようございます」


「起こしませんでした?」


「いや、大丈夫です。自分で起きたので」


「よかった」


 鍋島さんはそう言って、また自然にトースターへ視線を戻した。妙な気まずさを感じているのは、たぶん杏里だけだ。


「朝、早いんですね」


「杏里さんもですよね」


「あたしは仕事があるので」


「俺も今日は午前中から動くので」


 言いながら、彼は焼き上がったパンを皿に移す。その手つきは、昨日の夜と同じで無駄がない。


「……それ、自分の分ですか?」


 気づけば、問いかけていた。鍋島さんが一瞬だけきょとんとする。


「そうですけど。二枚焼けたので、杏里さんの分もありますよ」


「え?」


「あと、コーヒーは苦手でしたっけ?」


「苦手じゃないですけど……」


「じゃあよかった。勝手に淹れちゃいました」


 勝手に、の使い方が妙に丁寧で、怒るに怒れない。テーブルの上を見ると、トーストの皿が二枚と、マグカップが並んでいた。


「……なんで」


「なんで、って」


 鍋島さんは少しだけ笑う。


「一人分だけ作るのも変だったので。俺だけ食べてるのも、なんだか座りが悪いじゃないですか」


「そんなに気を遣わなくていいですよ」


「気を遣ったっていうか、朝の『流れ』で。ついでですよ」


 そう言いながらも、パンの香ばしい匂いが漂ってくる。それにコーヒーの香りが混ざると、空腹がちゃんと現実味を持って訴えかけてきた。


 鍋島さんは椅子を引いた。


「食べないなら、俺が二枚いきますけど」


「そういうこと言われると断りづらいんです」


「じゃあ作戦成功ですね」


「え?」


「ちょっと、食べてもらおうかなって思ってたので」


 真面目な顔で言うから、杏里は思わず眉を寄せた。でも結局、吸い寄せられるように席に着いてしまう。


「……いただきます」


「はい、どうぞ」


 トーストは絶妙な焼き加減で、バターが薄く均一に塗られていた。


「……」


「どうですか?」


「……普通に、美味しいです」


「よかった」


 それだけの会話。なのに、妙に落ち着かない。向かいに人がいて、一緒に朝ごはんを食べている。相手は昨日から居候し始めた芸人。何回考えても状況がおかしかった。


「鍋島さん」


「はい」


「こういうの、慣れてるんですか。生活するの」


 聞いてから、少し変な言い方だったかなと思う。けれど鍋島さんは気にした様子もなく首を傾げた。


「一応、大人ですし、それなりには」


「いや、そういう意味じゃなくて。人の家に馴染むのが、っていうか」


「……ああ、それですか」


 鍋島さんはマグカップを持ちながら、少し考えるように視線を落としたあと、ゆっくりと言った。


「馴染んでいるつもりはないですけど。そう見えるとしたら、それは杏里さんの家が落ち着くからじゃないですか?」


 まっすぐ言われ、杏里は言葉を失う。


「……朝からそういうこと、言わないでください」


「どういうことですか?」


「そのままです」


「褒めたつもりだったんですけど」


「分かってます」


「じゃあよかった」


 全然よくない。そう言い返したいのに、喉に言葉が詰まる。


 結局、逃げるように朝食を終えて立ち上がった。


「じゃあ、あたし先に出ますね」


「はい。いってらっしゃい」


「鍋島さんも」


「いってきます」


 家の中で交わす、まだ慣れない挨拶。


 その日、仕事は朝から忙しかった。値札の入れ替えに接客、レジ。


 午前中は無我夢中で、鍋島さんのことなんて思い出す暇もなかったはずなのに。


 休憩室でお弁当の蓋を開けた時、不意に今朝の言葉がよみがえる。


『一人分だけ作るのも変だったので』


「……変なの」


 口に出してから、何が変なのか自分でもよく分からなくなる。


 優しいのかもしれない。でも、あまりに自然に懐に入ってこられると、自分のペースが狂わされるようで怖い。


 午後も忙しさに流されるまま時間が過ぎ、閉店する頃にはすっかり日が落ちていた。


 駐車場へ向かいながら、冷えた風に肩をすくめる。


(家に帰れば、鍋島さんがいる)


 そう思った瞬間、自分でも分かるくらい、足が少しだけ速くなった。


「……別に、急いでないし」


 家に着くと、居間の灯りがついていた。


 玄関を開けた瞬間、かすかに漂う出汁の匂い。


「ただいま」


 無意識に声が出た。前のような静まり返った暗闇じゃない。


「おかえりなさい」


 台所の方から返事が来た。鍋島さんが普通の顔で、お味噌汁を温め直している。


「……何してるんですか」


「昨日の残り、温め直してました。あと、ご飯も炊けてますよ」


「……なんで」


「なんで、って」


 鍋島さんは少し首を傾げる。


「杏里さん、帰ってからまた一から作るの、めんどくさいかなと思って」


「また、そういう……」


 杏里はコートを脱ぎながら、何とも言えない気持ちで彼を見た。めんどくさいのはその通りだ。でも、先回りされると、やっぱり戸惑う。


「……ありがとうございます。でも、あんまり何でもしないでくださいね」


「どうしてですか?」


「慣れちゃうので」


「慣れてもらった方が、俺としては助かるんですけど」


「そういう問題じゃなくて」


 鍋島さんが小さく笑った。


「じゃあ、ほどほどにしておきます」


「そうしてください」


「難しいな、親切の量って」


 向かい合って、温かい夕食を食べる。


 鍋島さんは食べながら、今日の仕事のことを少しだけ話してくれた。林田さんが「照明が俺に追いついてない」という謎の持論を展開していた話。杏里は思わず吹き出した。


 家の中で、こんなふうに気を抜いて笑っている自分。それがまだ少し不思議だ。


 昨日よりも、今日の方が少しだけ自然。


 まだ落ち着かないし、慣れないけれど。


 そのわずかな変化を、杏里はまだうまく言葉にできずにいた。



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