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港町の魔法郵便士は、誰かの声で未来をひらく  作者: 銀細工ナギ


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6/20

母が残した、消えない配達印

 旧東水門の仮修理を終えた翌朝、リゼットは郵便局の裏口で、濡れた靴を乾かしていた。


 港町には水の音が戻っていた。市場では桶を洗う音が響き、工房街では蒸気炉が白い息を吐いている。誰もが、昨日の断水が偶然回避されたと思っていた。


 けれど、リゼットの耳には別の音が残っていた。


 水門に挟まっていた銀管。そこに閉じ込められた、途切れ途切れの声。


 ――第一葉を抜け。水が止まれば、町は売れる。


 その声を何度も思い返していると、局長室から呼び出しがあった。


「リゼット、これを受け取れ」


 局長は机の上に、古びた革袋を置いた。封蝋には水路監督局の紋章が押されている。


「私宛てですか?」


「正確には、君の母親宛てだった。倉庫の整理中に見つかった。古い配達記録の束に紛れていたらしい」


 リゼットの指が止まった。


 母の話は、郵便局ではほとんど語られなかった。幼い頃に失踪した、腕のよい魔法郵便士。そう聞かされてきただけだ。どこへ行ったのか、なぜ戻らなかったのか、誰も教えてくれなかった。


 革袋の中には、薄い金属板と、一枚の配達控えが入っていた。


 金属板の端に、消えかけた文字が刻まれている。


 リゼット・アルベールへ。


 息が詰まった。


「なぜ、今まで保管されていたんですか」


「水路監督局から預かったまま、担当者が亡くなったそうだ。君の母親の名を知る者も少なくなった」


 局長は気まずそうに目を逸らした。


「読むなら、今日中にしておけ。古い魔法は、時間が経つほど音を失う」


 リゼットは革袋を抱え、記録室へ急いだ。


 窓を閉め、机の上に金属板を置く。銀笛を近づけると、金属板の中で小さな波が揺れた。


 最初に聞こえたのは、遠い潮騒だった。


 次に、女性の声。


「もしこの声を、リゼットが聞いているなら――」


 胸の奥が強く縮んだ。


 母の声を、リゼットは覚えていなかった。けれど、その響きだけで分かった。自分の声に似た、少し低く、柔らかな声だった。


「あなたがこの記録を聞く頃、私は町を離れているかもしれません。水路記録を守る仕事は、思っていたより危険です。けれど、危険だからといって、誰にも渡してはいけないものを渡すわけにはいきません」


 音声は一度、激しく乱れた。金属板の表面に細い亀裂が走る。


「契約の第一葉が抜かれています。署名も、配達印も、後から作られたものです。私が見つけたことを知っているのは、監督局の一部と、グラウス家の代理人だけ」


 リゼットは息を止めた。


 グラウス。


 昨日、封印箱を持って現れた男の名だ。


「もし私が戻らなければ、誰かが水路を売ろうとしている。町の人々から水を奪い、立ち退かせ、空になった土地を別の者へ渡す計画です。証拠は、私が配達した原本の控えに残しました」


 音がひどく小さくなった。


「リゼット。あなたに謝らなければなりません。私は、あなたを郵便士にするつもりはありませんでした。危険から遠ざけるため、何も教えず、普通の暮らしをさせようとしました。でも、声を聞く力は、隠しても消えません。あなたの耳が誰かを救うなら、それは呪いではなく、あなた自身の技術です」


 リゼットの目から、涙が落ちた。


 母は自分を捨てたのではない。守ろうとして、いなくなった。


 その事実は温かく、同時に残酷だった。守られた年月のすべてが、母の沈黙でできていたからだ。


「最後に、配達印を信じてください。消えない印は、届けた者の手ではなく、受け取った場所に残ります。記録を探すなら、私が最後に訪れた水門から始めなさい」


 そこで声は途切れた。


 リゼットは何度も銀笛を金属板へ当てた。しかし、もう母の声は戻らなかった。


 扉が二度、控えめに叩かれた。


「入ります」


 エドガーだった。手には水門の点検記録がある。


「昨夜の流量は安定している。だが、金属片について確認したい」


 彼はリゼットの顔を見るなり、言葉を止めた。


「何があった」


 リゼットは金属板を彼に差し出した。


「母の声です」


 エドガーは驚きを隠さなかった。彼女の隣に立ち、最後まで黙って聞いた。


 音声が消えたあとも、二人はしばらく動かなかった。


「あなたのお母さんは、水路記録を守っていた郵便士だったのか」


「はい。契約が偽造されたことも知っていた。失踪した原因にも、これが関わっている」


 言葉にすると、胸の中にあった霧が少しだけ形を持った。


「私は母を探します」


「手がかりは水門か」


「最後に訪れた場所が、旧東水門です。あそこに、母が配達した原本の控えが残っているかもしれません」


 エドガーは金属板を見つめた。


「危険が増す」


「分かっています」


「それでも行くのか」


「母が私に残した仕事だからではありません。私自身が、知りたいんです。なぜ母は帰れなかったのか。誰が町を売ろうとしているのか。そして、母が守ろうとした記録を、今度は誰が守るのか」


 エドガーは静かにうなずいた。


「なら、私も行く」


「監督官として?」


「君の協力者として」


 その言葉に、リゼットの胸が熱くなった。


 彼は机の上の配達控えを取り上げ、裏面を灯りに透かした。紙の繊維の間に、薄い青色の印が浮かび上がる。


 水門の形をした、消えない配達印。


「これが、母の言っていた印でしょうか」


「おそらく。通常の配達印なら、魔力は数年で消える」


「でも、これは残っている」


「届け先が記録を必要としている限り、消えない印もある」


 エドガーは紙を返した。


「君の母は、何かを水門へ届けた。そして、その場所に印を残した」


 リゼットは涙を拭い、金属板を革袋へ戻した。


 母の声は、もう聞こえない。


 それでも、残された音は道を示している。


「行きましょう、エドガー」


「ああ」


 二人は記録室を出た。


 扉の向こうでは、配達を待つ手紙が山になっていた。誰かの謝罪、誰かの約束、遠い町から届いた知らせ。その一つひとつにも、届けた者の手が残る。


 リゼットは初めて、自分の仕事が母から受け継いだものだと知った。


 けれど、母の代わりになるつもりはなかった。


 母が残した声を、自分の耳で聞き、自分の足で真相へ運ぶ。


 それが、今のリゼットにできる配達だった。

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