止まるはずの水を、二人でつなぐ
グラウスが去ったあとも、記録室には水の音が残っていた。
地下深くを流れるはずの水が、壁の向こうで何度もつまずいている。ごう、ごう、と太い流れが途切れ、そのたびに建物全体がわずかに震えた。
「旧東水門だ」
エドガーが封印箱を閉じた。
「さっきの音声に混じっていた。水圧が急に上がっている」
「水門が壊れかけているんですか」
「完全に壊れる前に、誰かが流量を絞ったらしい。だが、絞り方が悪い」
彼は壁に掛けられた水路図を外した。何本もの青い線が、港町の地下を縦横に走っている。旧東水門からは、工房街と魚市場へ向かう二本の支流が伸びていた。
「このままなら、夕方には水が止まる」
リゼットは地図を見つめた。
「止まったら?」
「飲み水だけではない。魚市場の冷却槽、染色工房の洗浄水、船の蒸気炉。町の仕事が一斉に止まる」
「修理は?」
「正規の部品が届くのは三日後だ」
エドガーは短く答えたあと、工具箱を持ち上げた。
「だから仮修理をする」
リゼットは銀笛を胸元に戻した。
「私も行きます」
「危険だ」
「水の音を聞けます」
「危険だと言った」
「それでも、行きます」
エドガーはしばらく彼女を見た。灰色の瞳には、反対する言葉と、頼りたいという思いが同時に浮かんでいた。
「……では、私の指示に従え」
「あなたも、私の聞こえたことを無視しないでください」
「約束する」
旧東水門へ続く階段は、湿った石の匂いがした。先日の雨で地下水位が上がっているのか、足元には薄く水が流れている。リゼットは壁に手を触れた。
遠くから、細い音が聞こえた。
金属が擦れる音。弁の軸が、同じ場所で引っかかっている。
「右側の弁です。三回に一度、軸が空回りしています」
エドガーが灯りを掲げた。水門の中央には、錆びた大きな歯車があった。その根元に、黒い金属片が挟まっている。
「これは……」
「銀管の一部です」
リゼットはしゃがみ込み、音を聞いた。金属片の内側には、かすかな声が閉じ込められていた。
――第一葉を抜け。水が止まれば、町は売れる。
背中に冷たいものが走る。
「グラウスの持っていた管は、ここから外れた部品かもしれません」
「誰かが意図的に弁を傷めた」
「水が止まるのを待って、町の混乱を利用するつもりです」
「なら、先に流れを戻す」
エドガーは工具を歯車の隙間に差し込んだ。けれど、錆が固くて動かない。水圧が上がり、足元の流れが膝まで迫ってきた。
「一人では無理です」
「下がれ」
「二人なら動かせます」
「リゼット」
「あなたが軸を押さえて。私が音の途切れる瞬間を伝えます」
彼は何か言いかけたが、やがてうなずいた。
「三つ数えたら押す。音が低くなった瞬間に、右へ回せ」
エドガーが歯車を押さえ、リゼットは銀笛を水門に当てた。
ごう、と流れが鳴る。
高い擦過音が重なる。
「まだです」
歯車が震える。
「今!」
二人が同時に力を込めた。
錆びた軸が、ぎ、と鳴った。歯車がわずかに回り、水の流れが一気に変わる。跳ね上がった水がリゼットの肩を濡らし、彼女は足を滑らせた。
その腕を、エドガーがつかんだ。
「離さないで」
思わず口から出た言葉だった。
「離さない」
彼は迷いなく答えた。
水門の向こうで、閉じかけていた流れが再びつながった。地下の水音が太くなり、壁の震えがゆっくりと静まっていく。
しばらく、二人はその場から動けなかった。
エドガーの手が、まだリゼットの腕を包んでいる。彼の呼吸は荒く、濡れた髪が額に張りついていた。
「……怖かったです」
リゼットは水面を見ながら言った。
「水が?」
「あなたが、手を離すかもしれないことが」
エドガーの指がわずかに強くなる。
「私は、誰かを助ける仕事に向いていない」
「どうしてですか」
「父が水路の異常を知りながら、黙っていた。私はそれを見ていたのに、何も言えなかった。正しいことを言えば、家も職も失うと思った」
彼の声には、いつもの硬さがなかった。
「だから、誰かに頼られるのが怖い。守れなかったときの責任を、また背負うことになる」
リゼットは彼の手の甲に自分の指を重ねた。
「私も、失敗するのが怖いです。聞こえたことを伝えても、間違いだと言われる。誰かを巻き込んで、全部を壊すかもしれない」
「それでも来た」
「あなたがいたから」
言ってから、胸が大きく鳴った。
エドガーはすぐには答えなかった。ただ、手を離さなかった。
「私も、君が来ると思っていた」
「それは、調査員だからですか」
「違う」
水門の奥で、水が静かに流れた。
「君がいないと、聞き落とすものがある。音だけではない。私は、君が見ようとするものまで必要としている」
リゼットは顔を上げた。彼の瞳に映る自分は、濡れて、泥だらけで、それでも逃げずに立っていた。
「それは、信頼ですか」
「信頼より……少し、深い」
遠くで鐘が鳴った。昼を告げる港の鐘だった。
二人はゆっくり立ち上がった。仮の金具を固定し、流量を示す板を取り付ける。完全な修理ではない。だが、少なくとも今夜まで水は止まらない。
階段を上る途中、リゼットはふと振り返った。
「エドガー」
「何だ」
「手を、もう離しても大丈夫です」
彼は自分たちのつないだ手を見た。いつからそうしていたのか、二人とも気づいていなかった。
「……そうだな」
そう言いながら、彼はすぐには離さなかった。
地上へ出ると、港町には水の音が戻っていた。市場の桶に水が満ち、工房の煙突から白い蒸気が上がる。人々はまだ何も知らずに働いている。
リゼットは隣を歩くエドガーを見た。
彼は相変わらず無口で、歩幅も大きい。けれどもう、ただの監督官ではなかった。
怖さを隠さず、弱さを預けてくれた人。
そして自分も、耳だけでなく心を預け始めている人。
水路の流れは、仮の金具ひとつでつながった。
二人の間に生まれたものも、まだ名を持たない。それでも、離れないように手を添え合えば、次の流れへ進める気がした。




