↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
港町の魔法郵便士は、誰かの声で未来をひらく  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/20

止まるはずの水を、二人でつなぐ

 グラウスが去ったあとも、記録室には水の音が残っていた。


 地下深くを流れるはずの水が、壁の向こうで何度もつまずいている。ごう、ごう、と太い流れが途切れ、そのたびに建物全体がわずかに震えた。


「旧東水門だ」


 エドガーが封印箱を閉じた。


「さっきの音声に混じっていた。水圧が急に上がっている」


「水門が壊れかけているんですか」


「完全に壊れる前に、誰かが流量を絞ったらしい。だが、絞り方が悪い」


 彼は壁に掛けられた水路図を外した。何本もの青い線が、港町の地下を縦横に走っている。旧東水門からは、工房街と魚市場へ向かう二本の支流が伸びていた。


「このままなら、夕方には水が止まる」


 リゼットは地図を見つめた。


「止まったら?」


「飲み水だけではない。魚市場の冷却槽、染色工房の洗浄水、船の蒸気炉。町の仕事が一斉に止まる」


「修理は?」


「正規の部品が届くのは三日後だ」


 エドガーは短く答えたあと、工具箱を持ち上げた。


「だから仮修理をする」


 リゼットは銀笛を胸元に戻した。


「私も行きます」


「危険だ」


「水の音を聞けます」


「危険だと言った」


「それでも、行きます」


 エドガーはしばらく彼女を見た。灰色の瞳には、反対する言葉と、頼りたいという思いが同時に浮かんでいた。


「……では、私の指示に従え」


「あなたも、私の聞こえたことを無視しないでください」


「約束する」


 旧東水門へ続く階段は、湿った石の匂いがした。先日の雨で地下水位が上がっているのか、足元には薄く水が流れている。リゼットは壁に手を触れた。


 遠くから、細い音が聞こえた。


 金属が擦れる音。弁の軸が、同じ場所で引っかかっている。


「右側の弁です。三回に一度、軸が空回りしています」


 エドガーが灯りを掲げた。水門の中央には、錆びた大きな歯車があった。その根元に、黒い金属片が挟まっている。


「これは……」


「銀管の一部です」


 リゼットはしゃがみ込み、音を聞いた。金属片の内側には、かすかな声が閉じ込められていた。


 ――第一葉を抜け。水が止まれば、町は売れる。


 背中に冷たいものが走る。


「グラウスの持っていた管は、ここから外れた部品かもしれません」


「誰かが意図的に弁を傷めた」


「水が止まるのを待って、町の混乱を利用するつもりです」


「なら、先に流れを戻す」


 エドガーは工具を歯車の隙間に差し込んだ。けれど、錆が固くて動かない。水圧が上がり、足元の流れが膝まで迫ってきた。


「一人では無理です」


「下がれ」


「二人なら動かせます」


「リゼット」


「あなたが軸を押さえて。私が音の途切れる瞬間を伝えます」


 彼は何か言いかけたが、やがてうなずいた。


「三つ数えたら押す。音が低くなった瞬間に、右へ回せ」


 エドガーが歯車を押さえ、リゼットは銀笛を水門に当てた。


 ごう、と流れが鳴る。


 高い擦過音が重なる。


「まだです」


 歯車が震える。


「今!」


 二人が同時に力を込めた。


 錆びた軸が、ぎ、と鳴った。歯車がわずかに回り、水の流れが一気に変わる。跳ね上がった水がリゼットの肩を濡らし、彼女は足を滑らせた。


 その腕を、エドガーがつかんだ。


「離さないで」


 思わず口から出た言葉だった。


「離さない」


 彼は迷いなく答えた。


 水門の向こうで、閉じかけていた流れが再びつながった。地下の水音が太くなり、壁の震えがゆっくりと静まっていく。


 しばらく、二人はその場から動けなかった。


 エドガーの手が、まだリゼットの腕を包んでいる。彼の呼吸は荒く、濡れた髪が額に張りついていた。


「……怖かったです」


 リゼットは水面を見ながら言った。


「水が?」


「あなたが、手を離すかもしれないことが」


 エドガーの指がわずかに強くなる。


「私は、誰かを助ける仕事に向いていない」


「どうしてですか」


「父が水路の異常を知りながら、黙っていた。私はそれを見ていたのに、何も言えなかった。正しいことを言えば、家も職も失うと思った」


 彼の声には、いつもの硬さがなかった。


「だから、誰かに頼られるのが怖い。守れなかったときの責任を、また背負うことになる」


 リゼットは彼の手の甲に自分の指を重ねた。


「私も、失敗するのが怖いです。聞こえたことを伝えても、間違いだと言われる。誰かを巻き込んで、全部を壊すかもしれない」


「それでも来た」


「あなたがいたから」


 言ってから、胸が大きく鳴った。


 エドガーはすぐには答えなかった。ただ、手を離さなかった。


「私も、君が来ると思っていた」


「それは、調査員だからですか」


「違う」


 水門の奥で、水が静かに流れた。


「君がいないと、聞き落とすものがある。音だけではない。私は、君が見ようとするものまで必要としている」


 リゼットは顔を上げた。彼の瞳に映る自分は、濡れて、泥だらけで、それでも逃げずに立っていた。


「それは、信頼ですか」


「信頼より……少し、深い」


 遠くで鐘が鳴った。昼を告げる港の鐘だった。


 二人はゆっくり立ち上がった。仮の金具を固定し、流量を示す板を取り付ける。完全な修理ではない。だが、少なくとも今夜まで水は止まらない。


 階段を上る途中、リゼットはふと振り返った。


「エドガー」


「何だ」


「手を、もう離しても大丈夫です」


 彼は自分たちのつないだ手を見た。いつからそうしていたのか、二人とも気づいていなかった。


「……そうだな」


 そう言いながら、彼はすぐには離さなかった。


 地上へ出ると、港町には水の音が戻っていた。市場の桶に水が満ち、工房の煙突から白い蒸気が上がる。人々はまだ何も知らずに働いている。


 リゼットは隣を歩くエドガーを見た。


 彼は相変わらず無口で、歩幅も大きい。けれどもう、ただの監督官ではなかった。


 怖さを隠さず、弱さを預けてくれた人。


 そして自分も、耳だけでなく心を預け始めている人。


 水路の流れは、仮の金具ひとつでつながった。


 二人の間に生まれたものも、まだ名を持たない。それでも、離れないように手を添え合えば、次の流れへ進める気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。