偽物だと言われた耳
黒い手袋が落ちていた翌朝、記録室の前には見慣れない男が立っていた。
濃紺の外套に、銀糸でヴァレン家の紋章を刺繍している。年齢は四十ほど。整えられた髭と細い目が、湿った廊下の空気に似合わないほど冷たかった。
「私はヴァレン家の代理人、グラウスと申します」
男は名乗ったが、リゼットには挨拶というより通告に聞こえた。
「昨夜、当家の所有物がこの建物に持ち込まれたとの報告を受けました。古い記録や音響盤も含め、すべて返却していただきたい」
「水路監督所の記録は、ヴァレン家の所有物ではありません」
エドガーが答えると、グラウスは薄く笑った。
「監督官殿。あなたは規則をよくご存じのはずだ。寄進者の財産を勝手に調べる権利など、どこにあるのです?」
「町の水に関わる記録を確認する権利は、町の側にあります」
「町の側、ですか」
グラウスの目がリゼットへ向いた。
「それを決めるのは、まさかこの娘ではないでしょうな」
廊下の奥で、職人たちが息をひそめた。
リゼットは胸元の銀笛を握りしめた。指先が冷たくなる。昨日、初めて向けられた信頼が、たった一晩で崩されようとしていた。
「彼女は臨時調査員です」
エドガーが言った。
「郵便局の配達員に、そんな役目が務まるとは驚きです。聞こえないものまで聞こえると吹聴し、古い紙片を証拠だと騒ぎ立てる。失礼ながら、病か虚言の類では?」
グラウスの声は大きくなかった。だからこそ、その言葉は廊下の全員に届いた。
「偽物の耳で、町の契約を裁くつもりですか」
胸に針を差し込まれたようだった。
幼いころから、リゼットは何度も同じ言葉を聞いてきた。配達先を間違えたときも、封蝋を割ってしまったときも、誰にも聞こえない音を口にしたときも。
偽物だ。
役立たずだ。
そんな耳に価値はない。
頭の中で、過去の声が一斉に蘇った。
「リゼット」
エドガーの声だけが、はっきり聞こえた。
「……はい」
「今、何が聞こえる」
突然の問いに、リゼットは顔を上げた。
グラウスの外套から、わずかな金属音がしている。胸元の留め具ではない。袖の内側、細い銀管がこすれる音だった。さらに、その音には聞き覚えがある。
「音響記録管を持っています」
「証拠は?」
「あなたの右袖から、古い水門の反響音が聞こえます。旧東水門の地下で録られたものです」
グラウスの表情が初めて揺れた。
「妄想だ」
「音は、妄想ではありません」
リゼットは銀笛を抜いた。笛先を彼へ向けると、空気の中に薄青い輪が浮かんだ。
輪の中心から、低い水音が漏れる。
ごう、と水が通り過ぎたあと、誰かの声がかすかに重なった。
――第一葉を抜け。監査の日まで、誰にも渡すな。
記録室の空気が凍った。
職人のひとりが息をのむ。ひげの濃い職人は、グラウスの袖を見つめた。
「そんな管、どこで手に入れた?」
「知らん。仕掛けだろう」
グラウスは袖を押さえ、後ろへ下がった。
「このような茶番で、当家を侮辱するつもりですか。臨時調査員の任命は、直ちに取り消していただく」
廊下の先に、監督所の上役たちが姿を見せた。誰もすぐには口を開かなかった。
リゼットは銀笛を下ろした。手が震えている。音は聞き取れても、その意味を正しく伝えられなければ、また失敗になる。
エドガーが一歩前へ出た。
「任命を取り消す必要はありません」
「監督官殿、これはあなたの部下ではない」
「彼女は私の部下でも、誰かの飾りでもありません。正式に任命された調査員です」
エドガーは廊下にいる全員を見渡した。
「そして私は、リゼットの聞き取りを信頼します」
その言葉は、記録室の壁にぶつかり、何度も反響した。
信頼します。
リゼットの胸の奥で、その音だけが静かに残った。
「彼女が見つけた原本は、すでに監督所の封印箱に保管されています。確認した音声も、立ち会った職人たちが記録しています。疑うなら、彼女だけではなく、ここにいる全員の証言を疑うことになる」
ひげの職人が腕を組んだ。
「俺は聞いた。紙片の声も、袖の管の音もな」
「私もだ」
「俺も」
次々と声が重なった。
グラウスの顔から笑みが消えた。
「後悔しますぞ。ヴァレン家を敵に回せば、この町で仕事などできなくなる」
「脅しですか」
リゼットが尋ねた。
声は思ったより震えなかった。
「私の耳が偽物だというなら、何度でも記録を聞かせます。けれど、水路を私物にするために記録を消すことのほうが、ずっと大きな問題です」
グラウスは返事をせず、外套を翻した。去り際、袖の中の銀管がまた鳴った。
今度は誰もが、その音を聞いた。
扉が閉じると、長い沈黙が落ちた。
「……怖くなかったのか」
ひげの職人が尋ねる。
「怖かったです」
リゼットは正直に答えた。
「でも、聞こえたものを聞こえなかったことにはできません」
エドガーが隣に立った。
「その通りだ」
彼の肩が、ほんの少しだけリゼットの肩に触れた。偶然かもしれない。それでも、彼女は離れなかった。
机の上で、封印箱の中の羊皮紙が淡く光った。
水路の音が、地下からゆっくりと響いてくる。
まだ、何者かが記録を奪おうとしている。けれど今度は、リゼットひとりではなかった。
彼女の耳を偽物だと言う声よりも、信じる者たちの声のほうが、確かに大きくなり始めていた。




