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港町の魔法郵便士は、誰かの声で未来をひらく  作者: 銀細工ナギ


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3/20

古い水門と隠し部屋の記録

 翌朝、リゼットは臨時調査員の任命書を胸元にしまい、水路監督所の記録室へ向かった。


 監督所は港の北側、古い倉庫を改装した建物だった。入口には水路の紋章が掲げられているが、壁の隅には塩が白く浮き、長年の湿気で木の扉は歪んでいる。


「郵便局の子が調査員だって?」


 記録室の前で、ひげの濃い職人が腕を組んでいた。


「音を聞くだけで何が分かるんだ。水門は耳じゃ直せないぞ」


「直すためではなく、記録を確認するために来ました」


 リゼットが任命書を差し出すと、職人は紙を一瞥した。


「肩書きが増えたところで、失敗癖まで消えるわけじゃない」


 その言葉に、胸の奥が小さく縮んだ。けれど、昨日の地下で聞いた声を思い出す。


 水は、誰のものでもない。


 リゼットは黙って記録室の扉を開けた。


 中には、古い契約書や水量表が棚いっぱいに並んでいた。窓は小さく、光は細い。壁には音声記録用の銀管が何本も走り、床下からは遠く水の流れる音が伝わってくる。


 エドガーはすでに来ていた。机の上に昨日の銅板の写しを広げている。


「この記録室で、契約の原本を保管していた」


「原本は?」


「一枚だけ欠けている。旧東水門の起工許可書だ」


「昨日の契約書に、起工許可書を参照した跡がありました」


 リゼットは契約書を机へ置いた。銀笛を近づけると、文字の周囲に淡い光が浮かんだ。


 ――旧東水門は、ヴァレン家の寄進により建設された。


 その一節だけ、音が妙に澄んでいる。反響がない。まるで、狭い箱の中で録音した声を無理に広い記録へ重ねたようだった。


「この文も偽造です」


 エドガーの眉がわずかに動いた。


「ヴァレン家が水門の所有権を主張する根拠は、その起工許可書にある」


「なら、原本を見つければ……」


「主張を崩せる」


 リゼットは記録室を見回した。音は壁や床に残る。書類がなくても、記録を読み上げた場所なら、かすかな反響が残っていることがある。


 彼女はゆっくり歩き、銀笛を棚の間へ向けた。


 右の棚。何もない。


 中央の棚。水路台帳の古い紙が鳴る。


 左の棚へ近づいたとき、笛の先で青い火花が散った。


「ここです」


 棚には、破れた地図と空の帳簿しかなかった。エドガーが一冊ずつ取り出して調べるが、隠し箱も抜け道も見当たらない。


 リゼットは目を閉じた。


 遠くで、水滴が落ちる。


 一滴。


 二滴。


 音が返ってくるまでの時間が、ほんの少し長い。


「この壁の向こうは空洞です」


「分かるのか」


「水音が返るまでに、遅れがあります。壁の厚さだけではありません。奥に部屋がある」


 職人たちが顔を見合わせた。さきほどのひげの職人が鼻で笑う。


「古い建物なら、どこだって音は濁る」


「では、壁を叩いてもいいですか」


 リゼットは返事を待たず、記録石を床へ置いた。石が水滴の音を拾い、壁の向こうから低い振動が返る。


 棚の裏、床から三尺ほどの場所だけ、音が違った。


 エドガーが短剣の柄で石壁を叩く。


 コン、コン。


 ほかの壁よりも軽い音がした。


「下がってくれ」


 彼は壁の継ぎ目に刃を差し込んだ。石がわずかに動く。職人たちも加わり、棚をどかして壁を押すと、隠された石板が内側へ沈んだ。


 現れたのは、人ひとりが通れるほどの暗い入口だった。


 湿った空気が流れ出す。そこには古い蝋燭の匂いと、乾いた紙の匂いが混じっていた。


「隠し部屋……」


 誰かが呟いた。


 エドガーが灯りを掲げ、先に入る。リゼットも続いた。


 部屋は小さかった。壁沿いに木箱が並び、中央には音響盤の壊れた台座がある。天井から吊された銀管は、旧東水門へつながっているらしい。


 木箱の中には、古い水路記録が納められていた。多くは虫に食われ、文字も薄れている。


 リゼットは一番奥の箱から、折れた紙片を見つけた。


 紙の表面には、赤い封蝋の跡がある。日付は二十年前。そして隅に、郵便士の印が押されていた。


「これは……」


 リゼットの指が震えた。


 印の形を、彼女は知っていた。母が使っていた古い郵便鞄にも、同じ三本線の印が刻まれている。


 紙片に銀笛を近づけると、消えかけた音が蘇った。


 ――水門の権利を、一家に渡してはならない。原本は、記録室の隠し部屋に保管する。


 女の声だった。


 昨日、銅板の奥で聞いた声と同じだ。


 リゼットは息を止めた。


「この声を知っているのか」


 エドガーの問いに、すぐには答えられなかった。


「……母かもしれません」


 紙片の裏には、さらに小さな文字があった。


 ――起工許可書の第一葉は、ここに残す。水路を守る者が現れるまで。


 箱の底を探ると、二枚の紙に挟まれた薄い羊皮紙が見つかった。古いが、文字ははっきりしている。そこには、旧東水門を町の共有財産とする署名が並んでいた。


 ヴァレン家の名は、どこにもない。


「原本の一枚です」


 リゼットが言うと、入口にいた職人たちが息をのんだ。


 ひげの職人が、ゆっくり帽子を脱いだ。


「本当に、見つけたのか」


「音が教えてくれました」


「……悪かったな」


 短い謝罪だった。けれど、その声には昨日までの嘲りがなかった。


 エドガーは羊皮紙を受け取り、慎重に封印用の箱へ収めた。


「これで、調査記録の根拠ができた」


「まだ、偽造した人は分かっていません」


「それでも前へ進める」


 隠し部屋を出ると、記録室の外に職人たちが集まっていた。誰もがリゼットを見ている。


 その視線は、もう役立たずを見るものではなかった。


「次は何を調べる?」


 ひげの職人が尋ねた。


 リゼットは、手の中の記録石を見下ろした。


「この紙片に残った音が、どこから録られたものか確認します。それから、旧東水門の地下にある音響盤を直したい」


「直すなら、俺が手を貸す」


「俺もだ」


 次々に声が上がった。


 その響きは、ひとつの水路に集まる細い流れのようだった。


 リゼットはエドガーを見た。彼は小さく頷いた。


 そのとき、廊下の奥で、誰かが足早に立ち去った。


 床には、ヴァレン家の紋章が刻まれた黒い手袋が落ちていた。

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