古い水門と隠し部屋の記録
翌朝、リゼットは臨時調査員の任命書を胸元にしまい、水路監督所の記録室へ向かった。
監督所は港の北側、古い倉庫を改装した建物だった。入口には水路の紋章が掲げられているが、壁の隅には塩が白く浮き、長年の湿気で木の扉は歪んでいる。
「郵便局の子が調査員だって?」
記録室の前で、ひげの濃い職人が腕を組んでいた。
「音を聞くだけで何が分かるんだ。水門は耳じゃ直せないぞ」
「直すためではなく、記録を確認するために来ました」
リゼットが任命書を差し出すと、職人は紙を一瞥した。
「肩書きが増えたところで、失敗癖まで消えるわけじゃない」
その言葉に、胸の奥が小さく縮んだ。けれど、昨日の地下で聞いた声を思い出す。
水は、誰のものでもない。
リゼットは黙って記録室の扉を開けた。
中には、古い契約書や水量表が棚いっぱいに並んでいた。窓は小さく、光は細い。壁には音声記録用の銀管が何本も走り、床下からは遠く水の流れる音が伝わってくる。
エドガーはすでに来ていた。机の上に昨日の銅板の写しを広げている。
「この記録室で、契約の原本を保管していた」
「原本は?」
「一枚だけ欠けている。旧東水門の起工許可書だ」
「昨日の契約書に、起工許可書を参照した跡がありました」
リゼットは契約書を机へ置いた。銀笛を近づけると、文字の周囲に淡い光が浮かんだ。
――旧東水門は、ヴァレン家の寄進により建設された。
その一節だけ、音が妙に澄んでいる。反響がない。まるで、狭い箱の中で録音した声を無理に広い記録へ重ねたようだった。
「この文も偽造です」
エドガーの眉がわずかに動いた。
「ヴァレン家が水門の所有権を主張する根拠は、その起工許可書にある」
「なら、原本を見つければ……」
「主張を崩せる」
リゼットは記録室を見回した。音は壁や床に残る。書類がなくても、記録を読み上げた場所なら、かすかな反響が残っていることがある。
彼女はゆっくり歩き、銀笛を棚の間へ向けた。
右の棚。何もない。
中央の棚。水路台帳の古い紙が鳴る。
左の棚へ近づいたとき、笛の先で青い火花が散った。
「ここです」
棚には、破れた地図と空の帳簿しかなかった。エドガーが一冊ずつ取り出して調べるが、隠し箱も抜け道も見当たらない。
リゼットは目を閉じた。
遠くで、水滴が落ちる。
一滴。
二滴。
音が返ってくるまでの時間が、ほんの少し長い。
「この壁の向こうは空洞です」
「分かるのか」
「水音が返るまでに、遅れがあります。壁の厚さだけではありません。奥に部屋がある」
職人たちが顔を見合わせた。さきほどのひげの職人が鼻で笑う。
「古い建物なら、どこだって音は濁る」
「では、壁を叩いてもいいですか」
リゼットは返事を待たず、記録石を床へ置いた。石が水滴の音を拾い、壁の向こうから低い振動が返る。
棚の裏、床から三尺ほどの場所だけ、音が違った。
エドガーが短剣の柄で石壁を叩く。
コン、コン。
ほかの壁よりも軽い音がした。
「下がってくれ」
彼は壁の継ぎ目に刃を差し込んだ。石がわずかに動く。職人たちも加わり、棚をどかして壁を押すと、隠された石板が内側へ沈んだ。
現れたのは、人ひとりが通れるほどの暗い入口だった。
湿った空気が流れ出す。そこには古い蝋燭の匂いと、乾いた紙の匂いが混じっていた。
「隠し部屋……」
誰かが呟いた。
エドガーが灯りを掲げ、先に入る。リゼットも続いた。
部屋は小さかった。壁沿いに木箱が並び、中央には音響盤の壊れた台座がある。天井から吊された銀管は、旧東水門へつながっているらしい。
木箱の中には、古い水路記録が納められていた。多くは虫に食われ、文字も薄れている。
リゼットは一番奥の箱から、折れた紙片を見つけた。
紙の表面には、赤い封蝋の跡がある。日付は二十年前。そして隅に、郵便士の印が押されていた。
「これは……」
リゼットの指が震えた。
印の形を、彼女は知っていた。母が使っていた古い郵便鞄にも、同じ三本線の印が刻まれている。
紙片に銀笛を近づけると、消えかけた音が蘇った。
――水門の権利を、一家に渡してはならない。原本は、記録室の隠し部屋に保管する。
女の声だった。
昨日、銅板の奥で聞いた声と同じだ。
リゼットは息を止めた。
「この声を知っているのか」
エドガーの問いに、すぐには答えられなかった。
「……母かもしれません」
紙片の裏には、さらに小さな文字があった。
――起工許可書の第一葉は、ここに残す。水路を守る者が現れるまで。
箱の底を探ると、二枚の紙に挟まれた薄い羊皮紙が見つかった。古いが、文字ははっきりしている。そこには、旧東水門を町の共有財産とする署名が並んでいた。
ヴァレン家の名は、どこにもない。
「原本の一枚です」
リゼットが言うと、入口にいた職人たちが息をのんだ。
ひげの職人が、ゆっくり帽子を脱いだ。
「本当に、見つけたのか」
「音が教えてくれました」
「……悪かったな」
短い謝罪だった。けれど、その声には昨日までの嘲りがなかった。
エドガーは羊皮紙を受け取り、慎重に封印用の箱へ収めた。
「これで、調査記録の根拠ができた」
「まだ、偽造した人は分かっていません」
「それでも前へ進める」
隠し部屋を出ると、記録室の外に職人たちが集まっていた。誰もがリゼットを見ている。
その視線は、もう役立たずを見るものではなかった。
「次は何を調べる?」
ひげの職人が尋ねた。
リゼットは、手の中の記録石を見下ろした。
「この紙片に残った音が、どこから録られたものか確認します。それから、旧東水門の地下にある音響盤を直したい」
「直すなら、俺が手を貸す」
「俺もだ」
次々に声が上がった。
その響きは、ひとつの水路に集まる細い流れのようだった。
リゼットはエドガーを見た。彼は小さく頷いた。
そのとき、廊下の奥で、誰かが足早に立ち去った。
床には、ヴァレン家の紋章が刻まれた黒い手袋が落ちていた。




