水門監督官から届いた、奇妙な依頼
翌朝、リゼットは郵便局の裏口で、見慣れない封筒を受け取った。
封蝋には、水路監督所の徽章が押されている。宛名は彼女自身だった。
「水路監督官から、あんた宛て?」
バルド局長が背後から覗き込んだ。
「昨日の男からです」
「なら、さっさと返事を書いて終わらせな。郵便士が水路の調査なんて、聞いたこともない」
リゼットは封筒に触れた。
中から聞こえたのは、紙を擦る音と、低い水の流れだった。そして最後に、エドガーの声がした。
――日没までに、旧東水門へ来てほしい。誰にも知られずに。
声の封じ方は簡素だった。急いで作った記録だ。けれど、その下に別の響きが重なっている。
――来るな。
リゼットは思わず手を離した。
「どうした」
「いえ……何でもありません」
彼女は返事を書いた。行きます、と。それだけだった。
日が傾くころ、リゼットは銀笛と小さな記録石を鞄に入れ、旧東水門へ向かった。町の東端にあるその水門は、十年以上使われていない。新しい水路が丘の下を通るようになってから、石造りの門は苔に覆われ、周囲には立入禁止の札が下がっていた。
エドガーは水門の前で待っていた。
「来てくれて助かる」
「依頼の内容を聞かせてください」
「昨日の契約書に書かれている修繕箇所が、旧東水門の地下にある。ヴァレン家は、そこを開ける許可を求めている」
「でも、使われていない水門ですよね」
「表向きはな」
エドガーは錆びた鉄扉に鍵を差し込んだ。扉が開くと、湿った冷気が二人の頬を撫でた。
階段は地下深くへ続いていた。壁には、かつて水量を測るために刻まれた目盛りが並んでいる。最下段まで降りると、暗闇の奥で水が流れていた。
「旧東水門は、町の水路が最初に作られた場所だ。ここから枝分かれして、港と居住区へ水を送っていた」
「今も水があるなら、完全に止まってはいないんですね」
「止めることはできる」
エドガーが壁の大きな歯車に手をかけた。固まっていた金属が軋み、奥の水音が低くなった。
「ヴァレン家は三日後、この門を閉じるつもりだ。修繕という名目でな」
「水を止めて、町を売る」
「その声を聞いたのか」
「はい」
リゼットは鞄から契約書を取り出した。封蝋には昨夜の亀裂が残っている。
「ここで、記録を再生します」
銀笛を近づけると、淡い青い光が浮かび上がった。男の声が地下に響く。
――旧東水門の閉鎖に伴い、港湾区画への給水を停止する。
続いて別の声が重なった。
――町の水を、渡すな。
リゼットは眉を寄せた。男の声は滑らかだったが、ある一語だけ不自然に沈んでいる。
「止めてください」
エドガーが歯車から手を離した。
「何か分かったか」
「ここです。『港湾区画への給水を停止する』という部分だけ、音の流れが違います」
「違う?」
「声そのものは同じです。でも、音の底にある反響がありません」
リゼットは記録石を床へ置いた。石は水音を拾い、青白く光った。
「この契約の声は、最初は水路監督所の記録室で録音されています。壁が厚いので、少しだけ音がこもっている。でも、この部分だけ、広い場所で録ったように響く」
エドガーは黙って契約書を見つめた。
「後から切り貼りされたのか」
「たぶん。別の場所で録った声を、元の記録に重ねています」
「そんなことができるのか」
「魔法郵便の技術を使えば、難しくありません。ただ、音の継ぎ目は隠せない。普通の人には聞き分けられなくても」
リゼットは水門の奥を見た。そこには、古い刻印があった。三本の銀線が、途中で削り取られている。
「この水門には、契約を記録する装置があったんですね」
「昔の監督官が使っていた音響盤だ。今は壊れているはずだが……」
エドガーが壁を探ると、石の一枚がわずかに動いた。奥から薄い銅板が現れる。表面には、何人もの監督官の署名と、記録日時が刻まれていた。
その中に、昨日の契約書と同じ日付があった。
「契約は昨日作られたものではない」
エドガーの声が沈んだ。
「少なくとも、骨組みはもっと前から存在している」
リゼットは銅板へ耳を近づけた。冷たい金属の奥から、かすかな音がした。
――門を閉じるな。水は、誰のものでもない。
女の声だった。
聞き覚えのない声なのに、胸の奥が痛んだ。なぜか懐かしい。遠い記憶の底で、同じ声に呼ばれたことがあるような気がした。
「リゼット?」
「何でもありません」
彼女は記録石を握りしめた。
「この音も残します。契約書だけでなく、水門そのものに記録された声も必要です」
「正式な調査記録にするには、あなたの身分が必要になる」
「郵便士では足りませんか」
「足りないと言う者がいる」
エドガーは懐から一枚の書類を取り出した。
「だから、臨時調査員の任命申請を出した。水路監督官の権限で、今日付けで受理されている」
書類には、リゼット・アーヴェルの名と、臨時水路記録調査員という肩書きが記されていた。
「私が、調査員……」
「音声記録の検証を担当してほしい。あなたの耳が必要だ」
リゼットは書類を見下ろした。紙の上の名前が、いつもより少しだけ強く見えた。
「私が失敗したら?」
「記録を取り直す」
「また声が逃げたら?」
「逃げた場所を探す」
エドガーはそう言って、任命書の空欄を指した。
「署名してくれ」
リゼットは銀笛を置き、震える指でペンを握った。自分の名前を書き終えたとき、地下の水路が大きく鳴った。
まるで、誰かがそれを聞いていたように。
地上へ戻ると、空はすっかり暗くなっていた。町の灯りが水路に揺れている。
「明日から、記録室を調べる」
エドガーが言った。
「はい。改ざんされた音の元を探します」
二人が歩き出したとき、旧東水門の奥で、鉄の歯車がひとりでに回った。
閉ざされた門の向こうから、三度、短い音が響く。
――急げ。残された時間は、三日ではない。




