役立たずの郵便士が、水路の声を聞いた日
港町リュネールでは、手紙は紙だけでは届かない。
宛名を書いた封筒に、小さな銀笛を押し当てる。すると差出人の声が淡い光となって封じられ、受け取った者が封を切れば、文字と一緒に声まで聞こえるのだ。遠い海の向こうにいる家族の笑い声も、商談の念押しも、亡くなった人の最後の言葉さえ、魔法郵便士は届ける。
少なくとも、リゼットが郵便士になる前までは、そう信じられていた。
「また消えたのかい、リゼット」
郵便局の奥で、局長のバルドが眉をひそめた。
机の上には、配達前の封筒が十二通。うち一通だけ、宛名の文字が薄く霞んでいる。リゼットが銀笛を吹き終えた瞬間、封じられていた声が逃げてしまったのだ。
「消えたんじゃありません。声が、途中でほどけたんです」
「客にとっては同じことだ」
周囲から、押し殺した笑いが起こった。
リゼットは唇を結んだ。声を聞き取る力は、郵便士にとって一番大切な才能だった。封筒に触れれば、誰の声が入っているか、どんな魔法で封じられているかが分かる。彼女にもその力はある。ただし、彼女の耳には、ときどき他人には聞こえない音まで届いた。
水の底の囁き。壁の奥で軋む古い鍵。誰も鳴らしていない鐘。
それらに気を取られるたび、配達は遅れ、封印は失敗した。だから町の人々は、彼女を「役立たずのリゼット」と呼んでいた。
「最後の配達をしてきな。港外れの水路監督所だ」
バルドは一枚の封筒を差し出した。
封蝋には、波間から伸びる三本の銀線。水路を管理する名家、ヴァレン家の印だった。
「契約書ですか?」
「余計なことは聞かない。届けて、受領印をもらってくる。それだけだ」
リゼットは封筒を鞄にしまい、局を出た。
午後のリュネールは潮の匂いに満ちていた。石畳の下を走る水路が、町中へ淡水を運んでいる。魚市場の桶も、染物職人の釜も、丘の上の家々の水瓶も、すべてこの水路に頼っていた。
港外れの監督所へ向かう途中、リゼットは足を止めた。
水路の蓋の隙間から、音がした。
――ひらけ。
小さく、低い声だった。
リゼットは周囲を見回した。通りには誰もいない。荷車の車輪が遠くで鳴り、海鳥が屋根の上で騒いでいる。
――ひらけ。記録を、ひらけ。
声は水の流れに混じっていた。
いつもの幻聴だ、と彼女は自分に言い聞かせた。だが、鞄の中の封筒が震えた。銀の封蝋から、薄い青い光が漏れている。
リゼットは封筒を取り出した。
本来なら、封じられた声は一つだけのはずだった。けれど今、封筒の内側から二つの声が重なって聞こえる。
ひとつは、契約を読み上げる男の声。
もうひとつは、深い水底から響く女の声。
――この契約は、町の水を守るものではない。
リゼットの指が冷たくなった。
――三日後、門を閉じよ。水は止まり、町は売られる。
その瞬間、封蝋に細い亀裂が走った。
「開けてはいけない!」
背後から鋭い声が飛んできた。
振り向くと、黒い外套の男が立っていた。濡れたような黒髪、灰色の目。胸元には水路監督官の徽章が留められている。年齢は二十代半ばほどだろう。表情は硬く、声だけが異様に切迫していた。
「それは監督所へ届けるものだ。勝手に触るな」
「触っただけで、声が聞こえました」
「声?」
男は一歩近づいた。
「あなた、今、水路が何と言ったか聞こえましたか」
「水路は話さない」
「でも、三日後に水が止まると言いました」
男の目がわずかに揺れた。
リゼットは封筒を胸に抱えた。逃げるべきか迷ったが、男の手には剣も杖もなかった。ただ、指先に古い水門の刻印が残っている。
「あなたは誰ですか」
「エドガー・セイン。臨時の水路監督官だ」
エドガーは封筒を見つめた。
「その契約書は、昨日、ヴァレン家から監督所へ送られた。内容は水門の修繕許可だと聞いている」
「聞いている、というのは?」
「まだ受け取っていない。受領記録に、私の署名が必要になる」
リゼットの胸の奥で、先ほどの女の声が再び響いた。
――署名をさせてはならない。
「この封筒、渡せません」
言ってから、彼女は自分でも驚いた。いつもなら、失敗を恐れて誰かの指示に従うだけだった。
エドガーはしばらく黙っていた。やがて、低い声で尋ねた。
「本当に、水路の声を聞いたのか」
「はい。私には聞こえます」
「なら、協力してほしい」
海から風が吹き、二人の間を通り過ぎた。足元の水路が、遠くでごぼりと鳴る。
「私は記録を調べる。あなたは、その契約に封じられた声を聞き取ってくれ。町の水が止まるなら、三日しかない」
役立たずと呼ばれてきた耳が、初めて誰かに必要とされた。
リゼットは封筒を見下ろし、それからエドガーを見た。
「分かりました。ただし、私の聞いたことを勝手に嘘にしないでください」
「しない」
「間違っていたら?」
「そのときは、二人で間違いを正す」
その答えは、思っていたより静かで、まっすぐだった。
リゼットは封筒を開かなかった。代わりに、銀笛を封蝋へ近づける。
青い光が水路の底へ落ち、町の地下で無数の鍵が回る音がした。
そして、どこか遠くで、誰かが笑った。
三日後、町の水は止まる。
その声だけが、はっきりと聞こえた。




