黙っていた父と、語り始めた監督官
旧東水門へ向かう道は、朝の潮で濡れていた。
リゼットは革袋を胸に抱え、隣を歩くエドガーの横顔を見上げた。彼はいつもより口数が少なかった。母の記録を聞いてから、何かを考え続けているようだった。
「エドガー?」
「……君のお母さんは、監督局の一部が偽造を知っていたと言った」
「はい」
「その中に、私の父もいた」
足元の水たまりが、二人の影を歪めた。
エドガーは立ち止まらなかった。濡れた石畳を見つめたまま、低い声で続ける。
「父は、私が水路監督官になる前、同じ職に就いていた。旧東水門の管理責任者だった」
リゼットは何も言わずに歩いた。
「子どもの頃、父は家でほとんど水路の話をしなかった。仕事のことを尋ねても、記録は記録だ、と言うだけだった。私はそれを、疲れているからだと思っていた」
「違ったんですね」
「ああ。父は知っていた。契約の第一葉が抜かれたことも、グラウス家が水路を自分たちの土地として扱おうとしていたことも」
遠くで船の鐘が鳴った。エドガーはその音を聞きながら、苦い笑みを浮かべた。
「父の机の引き出しから、古い配達控えを見つけたことがある。母が亡くなった後の整理で、偶然見つけたんだ。そこには、君のお母さんの名があった」
リゼットの指が革袋の口を強くつかんだ。
「母のことを知っていた?」
「知っていた。君のお母さんが偽造を告発しようとしていたことも、父は知っていたはずだ」
「それなのに、何もしなかったんですか」
責めるつもりはなかった。それでも声は震えた。
エドガーはしばらく黙った。
「何もしなかった。少なくとも、私にはそう見えた」
二人は旧東水門の前に着いた。修理された歯車は朝の光を受け、鈍く輝いている。水は勢いを取り戻していたが、壁の下にはまだ黒い染みが残っていた。
エドガーは水門の脇にある古い管理小屋の扉を開けた。中には壊れた机と、錆びた棚が並んでいる。彼は床板の一枚を持ち上げた。
「父が亡くなったあと、ここを調べた。配達控えは見つかったが、原本はなかった。私は父に聞けなかったことを、ずっと後悔している」
「なぜ聞かなかったんですか」
「怖かった」
その答えは、あまりにも率直だった。
エドガーは壁に手をついた。
「父が間違っていたと認めたら、私が信じてきたものも崩れる気がした。監督官の家に生まれ、父の仕事を継ぐことを誇りにしていた。だから、父が黙っていた理由を考えるより、黙っていたこと自体を見ないふりをした」
リゼットは彼の横顔を見つめた。
「あなたは、今も監督官でいられます」
「君は優しいな」
「違います。私も、母が残した声を聞くのが怖かった。母が私を捨てたのではないと分かった今でさえ、どうして帰ってこなかったのかを知るのが怖いんです」
エドガーが振り返った。
「なら、私たちは同じだ」
「何がですか」
「知りたいのに、知った後の自分が変わるのを恐れている」
小屋の奥で、風に押された窓板が鳴った。
リゼットは床板の下を覗き込んだ。埃の中に、細い青い線が走っている。配達印の魔力だった。
「ここです」
彼女は銀笛を取り出し、青い線の上へ近づけた。
水門の形をした印が淡く光る。すると、床下からかすかな音が響いた。
紙を折る音。鍵を回す音。そして、男の声。
「第一葉を渡せば、町の者は従う。水を止める日取りは、決まっている」
別の声が重なった。
「だが、郵便士が気づいた。あの女を黙らせなければならない」
リゼットの背筋が冷えた。
母が聞いた会話ではない。もっと古い記録だった。けれど、最後に響いた声は、エドガーにも聞き覚えがあったらしい。
彼は目を閉じた。
「父だ」
音声は短く途切れた。続いて、別の記録が再生される。
「私は署名しない。だが、告発もしない。家族を危険にさらせば、すべてを失う」
エドガーは拳を握った。
「父は、拒んだ。けれど、黙った」
「あなたを守るために?」
「そうかもしれない。だが、黙ったことで、君のお母さんを守れなかった」
リゼットは床下から小さな金属筒を取り出した。蓋には、母の配達印が刻まれている。
「ここに何か残っています」
筒の中には、細く巻かれた紙片が入っていた。そこには、父の筆跡と思われる文字が記されていた。
――私は証言しなかった。臆病だった。だが、原本の一部は東水門の下に隠した。いつか、沈黙を終わらせる者が現れることを願う。
エドガーは紙片を読み終えると、長く息を吐いた。
「父は、最後まで黙っていたわけではなかった」
「でも、語るには遅すぎた」
「それでも、残した」
リゼットは彼の手に紙片を戻した。
「あなたが話してください」
「私が?」
「監督官としてではなく、あなた自身の言葉で。父親が何を知り、何を恐れ、何をしなかったのか。全部」
エドガーは紙片を見つめた。
「私が証言すれば、監督局も、父の名も傷つく」
「真実を隠せば、町の人たちが傷つきます」
しばらくして、彼はうなずいた。
「分かった。私は、父の沈黙を守るために監督官になったんじゃない。水路を守るために、この職を選んだ」
その声には、これまで聞いたことのない強さがあった。
「君と一緒に、真相を追う。父の沈黙も、母の失踪も、偽造の企みも、全部明らかにする」
「一人で背負わなくていいですよ」
「ああ。もう、黙って逃げるつもりはない」
二人は水門の下へ続く階段を見つけた。湿った石の向こうから、古い水の音が聞こえている。
リゼットは銀笛をしまい、エドガーと並んで階段を下りた。
母が残した声と、父が隠した告白。
二つの沈黙が、ようやく同じ場所でほどけ始めていた。




