第9話 能力の特訓
放課後の教室で、神尾菜々花が申し訳なさそうに両手を合わせると、西園寺舞が少しだけ不満そうに唇を尖らせた。
「えー、またぁ? 菜々花、最近むっちゃ付き合い悪くない? 新作のクレープ、一緒に食べに行こうって言ってたのに」
「ほんとだよー。それに最近、あの千石君とばっかり話してない?」
飯田梨沙が、からかうような、それでいて探るような視線を向けてくる。後ろでは、桜井くるみが心配そうにおろおろとしていた。
スクールカーストの頂点にいる華やかなグループと、地味で浮いている化学オタク。本来なら交わるはずのない二人が頻繁に言葉を交わしていることは、目ざとい女子たちの間で既に小さな波紋を呼んでいた。
「あはは、違う違う! ほら、この前の委員会の仕事でちょっとトラブルがあってさ。千石くん、ああ見えて結構パソコンとか詳しいから、手伝ってもらってるだけなんだ」
菜々花は完璧な笑顔を貼り付け、その場に合った「正解」の言い訳をスラスラと口にした。
「なーんだ、そういうこと。でも、あんまり変なのと一緒にいると菜々花のブランドが落ちちゃうよ? ほどほどにしときなよね」
「うん、わかってる。明日は絶対一緒に帰ろうね!」
舞たちを見送った後、菜々花は小さく、誰にも聞こえないような溜息をついた。
クラスの中心にいる自分は、常に空気を読み、みんなが求める「明るくて完璧な神尾菜々花」を演じ続けなければならない。少しでも気を抜けば、すぐに同調圧力という見えない波に飲み込まれそうになる。
けれど、秘密を共有した彰との関係は違った。彼とは面倒な駆け引きも、空気を読みすぎる必要もない。異常な能力に戸惑う弱い自分をそのまま見せることができるため、彼と一緒にいる時間は、菜々花にとって奇妙なほど気が休まるひとときになっていた。
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理科準備室に向かうため、菜々花が職員室の前を通りかかると、廊下の隅で彰が立ち止まっているのが見えた。
「あ、千石くん。どうしたの、こんなところで」
「しっ、神尾さん。ちょっとこれを見てよ」
彰に促されて職員室の中をこっそり覗き込むと、そこには学年主任の前に直立不動で立っている鈴木哲也先生の姿があった。
「鈴木先生、何度言ったらわかるんですか。生徒の前ではもっと教師らしく、厳格に振る舞ってください。いつまでもヘラヘラしているから舐められるんですよ」
「は、はい……申し訳ありません」
「大体、あなたは空気を読めなさすぎる。他の教師がどういう方針で指導しているか、もっと周りに同調して足並みを揃えてくれないと困るんですよ。楽しい空間を演出するのも仕事のうちでしょう」
「おっしゃる通りです。次から気をつけますので……」
学年主任の理不尽な小言に対し、普段から温厚で気弱な鈴木先生は、ただひたすらにペコペコと頭を下げ続けていた。その背中はどこか丸まり、ひどく疲弊しているように見えた。
(うわぁ……大人の世界も大変なんだな……)
菜々花は思わず同情の目を向けた。生徒の間だけでなく、教師の間にも息苦しい同調圧力が蔓延している。あの鈴木先生でさえ、無理をして空気を読み、自分を押し殺して「求められる教師像」に擬態しているのだ。
「行こう、神尾さん。見つかると厄介だ」
彰の小声に頷き、二人は足早にその場を後にした。
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「うっ……気持ち悪い……頭が割れそう……」
理科準備室に到着するなり、菜々花は実験用の丸椅子にぐったりと突っ伏した。
彼女の目は現在、異常な動きを見せていた。右目は正面の机を捉えているのに、左目は真上を向き、天井の模様を克明に映し出している。
カメレオンの「左右の目が完全に独立して動く」という三百六十度視野の能力。それが日常のふとした瞬間に暴発してしまうようになっていた。
「無理もないよ。人間の脳は、左右の目から全く違う映像を同時に処理するようにはできていない。情報量が限界を超えて、激しい車酔いのような状態になっているんだ」
彰が冷静に分析しながら、菜々花の背中をさすってやる。
視界がグニャグニャに歪み、天地がひっくり返ったような強烈な目眩と吐き気。菜々花は涙目で両目を強く手で覆った。
「もうヤダ……こんなの、授業中に急になったら絶対にパニックになっちゃうよ……」
弱音を吐く菜々花の前に、スッと小さな銀色の包みが差し出された。
「ほら、これ食べて。彩波大福じゃないけど、糖分をとれば少しは脳の疲れも和らぐはずだ」
顔を上げると、彰が優しい手つきで一口サイズのチョコレートを差し出していた。
「あ……ありがとう……」
菜々花は震える手でチョコを受け取り、口に放り込んだ。濃厚な甘さが舌の上で溶け、疲労しきった脳細胞にじんわりと染み渡っていく。
「大丈夫、必ずコントロールできるようになる。まずは、視界を無理に一つにまとめようとしないで、右目か左目、どちらか一方の映像だけを『メインの視界』として脳に認識させるんだ。もう片方の視界は、あくまで『背景』として流す感覚で」
彰は白衣のポケットからペンライトを取り出し、菜々花の顔の前にかざした。
「俺がこのペンライトを動かすから、右目だけで追ってみて。左目は壁の時計を見たまま、意識だけを右目に集中させるんだ」
「わ、わかった……やってみる……」
菜々花は深呼吸をし、彰の言葉通りに意識を配分してみた。右目で赤い光の軌跡を追い、左目の映像は意識の隅へと追いやる。
最初はすぐにピントがずれて頭痛がぶり返したが、彰の的確な誘導と、菜々花自身の「人気者を演じるために培った、意識を分割して周囲に気を配る感覚」が、奇妙な形でこの能力と噛み合い始めていた。
「……あっ。なんか、少しわかってきたかも」
「いいぞ、その調子だ。焦らなくていい、君のペースでやっていこう」
根気よく付き合ってくれる彰の声は、パニックになりそうな菜々花を不思議と落ち着かせてくれた。
クラスのみんなの前では、こんな無様な姿は絶対に見せられない。完璧でいなければならないというプレッシャーから解放され、能力に振り回される「ただの弱い自分」をさらけ出せるこの空間。
駆け引きも、空気を読む必要もない。
彰の不器用だけれど確かな気遣いに触れながら、菜々花は少しずつ、自分の中の未知の力と向き合うためのペースを掴み始めていた。




