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第10話 放課後の談笑

 数日後。

 2年A組の教室には、教師のチョークが黒板を叩くカツカツという無機質な音だけが響いていた。


「はい、ここの数式は来週のテストに出るぞー。しっかりノート取っておくように」


 気怠げな声とともに、黒板に複雑な方程式が書き込まれていく。周囲の生徒たちが慌てて顔を上げ、黒板と手元のノートを交互に見比べながら必死にペンを走らせる中、菜々花の姿勢はピタリと静止していた。


 背筋を伸ばし、顔を正面に向けたまま、彼女の右手だけが滑らかにノートの上を滑っていく。


(うん、むっちゃ快適……!)


 菜々花は内心でガッツポーズを決めていた。


 彰の的確な助言と二人三脚の特訓の成果もあり、数日でカメレオンの能力に完全に慣れた彼女は、ついに左右の目を完全に独立して動かせるようになっていたのだ。


 現在、彼女の右目は真正面の黒板の文字を正確に捉え、左目は真下の手元のノートにペン先が走る様子を完璧にトレースしている。右目で黒板を見ながら、同時に左目でノートを書くという、常人には不可能な神業をいとも簡単にやってのけていた。


 脳の情報処理を意図的に分割するコツを掴んだおかげで、最初はあんなに苦しめられていた激しい頭痛や車酔いのような吐き気も、今では全く感じない。


(これなら、先生が黒板に向かっている間に、左目だけでこっそりスマホの通知をチェックすることだってできる! カメレオンの能力、使いこなせばむっちゃ便利じゃん!)


 周囲からは「微動だにせず、ものすごい集中力で授業に取り組む完璧な優等生」に見えているだろう。クラスの「人気者」としての完璧な顔を保ちながら、菜々花はひそかに自分の特異体質を謳歌し始めていた。


 +++


 放課後。いつものように理科準備室へ足を運んだ菜々花は、指定席となっている実験用の丸椅子に深く腰を下ろしていた。


「……でさ、カメレオンの皮膚組織の成分を分析していて気づいたんだけど」

「へえ、すごいね。それで?」


「特定のタンパク質が、光の屈折率を変化させる鍵になっていて……って、菜々花さん、どこ見て話してんの?」


 白衣姿の彰が、振り返りざまにドン引きしたような声を上げた。


 ふと顔を上げた彰の視線の先で、菜々花は丸椅子に座りながら、右目で真正面にいる彰の顔を見つめ、左目だけで膝の上のスマホ画面をスクロールさせていたのだ。

 完全に左右の目が別々の方向を向いているその顔は、いくら美少女の菜々花といえども、かなり不気味なホラー映像である。


「え? ああ、ごめんごめん。舞たちからメッセージが来てて、急いで返信しなきゃいけなくてさ」


 悪びれる様子もなく、菜々花は左目だけで器用にフリック入力をこなしていく。


「いや、器用すぎでしょ。右目で俺を見つつ、左目でスマホを見るって……いくら能力に慣れたからって、日常使いするのはどうかと思うよ。ホラー映画のクリーチャーみたいになってるからね!?」


「ひどい! 乙女を捕まえてクリーチャーだなんて。でも、こっちの方が効率がいいのよ、彰くん」


 スマホをブレザーのポケットにしまい、左右の目の焦点を正面でピタリと合わせながら、菜々花はニッと笑った。


「…………え?」


 その瞬間、彰の動きがピタリと止まった。

「あ、あれ? 今、俺のこと……」


「ふふっ。気づくの遅いよ。ここで気づいたんだけど、彰くんだって、今、私のこと自然に『菜々花さん』って下の名前で呼んでたじゃん」


 菜々花に指摘され、彰はハッと息を呑んだ。


「あっ……! ご、ごめん! ずっと頭の中で神尾さんの能力を分析したりしてたら、いつの間にか下の名前で呼ぶのが思考のベースに定着しちゃってて……! い、嫌だったよね、馴れ馴れしくして本当にごめん!」


 顔を真っ赤にして両手を振り回し、慌てふためく彰を見て、菜々花はクスクスと笑い声を漏らした。


「全然嫌じゃないよ。むしろ、ずっと『神尾さん』って苗字で呼ばれる方が、壁があるみたいで寂しかったし」


 菜々花は丸椅子から立ち上がり、少しだけ背の低い彰の顔を覗き込むようにして微笑んだ。


「秘密を共有してる大事なパートナーなんだから、これからはお互い、下の名前で呼び合おうよ。ね、彰くん」


 彼女の屈託のない笑顔と、その口から発せられた自分の名前に、彰の心臓は先ほどから早鐘のように鳴りっぱなしだった。

 クラス中から憧れられている高嶺の花が、自分にだけ心を許し、特別な距離感で接してくれている。その事実が、彰の胸を甘く満たしていく。

 しかし、同時に持ち前の合理的な理性が働き、彰はゴホンと一つ咳払いをして表情を引き締めた。


「……わ、わかった。でも、周りの人にばれると大変なことになるから、その呼び方やさっきの目の使い方は俺の前だけにしてよ」


 彰が真剣なトーンで釘を刺すと、菜々花は不思議そうに小首を傾げた。


「急に俺みたいな浮いてるオタクと下の名前で呼び合ってたら、クラスの連中が怪しんで色々と探ってくるだろ? それに、授業中や友達の前でうっかり両目を別々に動かしたりしたら、それこそ秘密機関に連行されて、今度こそ一生モルモット行きだ」


「うっ……確かに……」


 FBIとモルモットという言葉に、菜々花はブルッと肩を震わせた。


「わかった。絶対気を付ける。でも、彰くんの前では、少しくらい能力を日常使いしてもいいでしょ? せっかく便利なんだし」

「限度はあるけどね。……まあ、俺はもう驚かないからいいけどさ」


 彰はそう言って、少しだけ照れくさそうに笑った。


「ありがとう、彰くん」


 理科準備室の窓から差し込む夕日が、二人の影を長く伸ばしている。


 誰に対しても完璧な「人気者」を演じ、空気を読まなければならない息苦しい日常の中で、彰と過ごすこの放課後の時間だけが、菜々花にとって唯一、肩の力を抜いて素の自分でいられる居場所になっていた。


 互いに名前で呼び合うようになった二人の距離は、この奇妙な能力と秘密を通じて、確かな温もりを伴いながら着実に縮まり始めていた。

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