第8話 秘密の共有
「……変な想像とか、してないでしょうね」
「してないってば! これは実験だって何度言えば……っ」
ファサッ、と脱ぎ捨てられた服が床に落ちる音がした。
わずかな沈黙が落ちた後、ためらうような菜々花の気配があった。そして、微かなゴムの弾く音と、柔らかい生地が肌を滑り落ちる小さな音が彰の耳に届く。
菜々花が、身に着けていた最後の下着を脱いだ音だった。
「えっ……」
菜々花の口から、掠れた声が漏れた。
鏡の中には、誰もいなかった。いや、正確には「後ろ姿の彰」だけが映し出されており、そこに立っているはずの菜々花の姿は完全に消失していたのだ。自分の手を見下ろしても、足元を見ても、そこにあるのは透き通った空間だけだった。
「成功だよ……完全に透明人間になれた」
最初は、その非日常的な現象に胸が高鳴った。しかし、鏡に映る『何もない空間』を見つめているうちに、菜々花の足元からゾワゾワとした名状しがたい恐怖が這い上がってきた。
(私が、いない……)
それは、学校生活で常に抱えていた得体の知れない不安と酷似していた。
空気を読み合い、周囲に同調しなければスクールカーストから転落してしまう息苦しい教室。そこで菜々花は、みんなが期待する「明るくて決断力のある人気者」の役割を無意識に演じ、周囲の空気に自分を同化させてきた。それは精神的な『擬態』に他ならなかった。
(周りの空気に合わせて、自分の本当の気持ちを隠して……そうやって完全に同化しちゃったら。本当の『神尾菜々花』は、この世界から消えちゃうんじゃないのか……?)
自分がいなくなった世界を想像した瞬間、急激な恐怖と孤独感が菜々花の胸を締め付けた。
「いや……っ!」
心が激しく動揺したことで、擬態を維持するための集中力がプツンと途切れる。
波紋が広がるように空間が揺らぎ、菜々花の皮膚が本来の健康的な肌色を急速に取り戻していった。透明化が解けたのだ。
「神尾さん!? どうかしたの、いきなり大声出して……ッ!?」
菜々花の悲鳴に近い声を聞いた彰が、心配のあまり誓いを破って振り返ってしまった。
バチリと、二人の視線が交差する。
そこには、擬態が解け、完全に裸の姿を晒した菜々花がへたり込んでいた。
「…………あ」
「…………え」
一秒間の、永遠にも似た沈黙。
「きゃあああああああああああっ!!!」
「うわあああああああああああっ!!!」
理科準備室に、二人の絶叫が同時に響き渡った。
菜々花は咄嗟に脱ぎ捨てたブラウスで体を隠し、顔を真っ赤にしてパニックに陥る。彰も「ち、違うんだ!悲鳴が聞こえたから心配で!」と両手で目を覆いながら、転がるように机の影へ逃げ出していった。
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「……本当に、ごめんなさい。俺、君のことが心配で……」
「もういいよ……わざとじゃないのはわかってるから……」
数分後。
慌てて服を着直した菜々花は、実験用の丸椅子に座り、まだ少し顔を赤らめながら俯いていた。
その目の前では、彰が床に正座し、深々と土下座のような姿勢で平謝りしている。
「でも、やっぱり凄いよ神尾さん! 擬態能力は衣服には適用されないこと、そして精神的な動揺によって解除されてしまうことが完璧に証明された!」
「まだ言うか」
菜々花がジロリと睨むと、彰は「すみません」と再び頭を床に擦り付けた。
しかし、菜々花の心の中には、怒りよりも不思議な安堵感が広がっていた。
突然カメレオンのような怪物じみた能力を手に入れ、あんなパニックになりそうな異常な状況が起きたにもかかわらず、彰は菜々花を気味悪がることもなく、ただ純粋な化学的な好奇心を持って真剣に検証に付き合ってくれている。
クラスの『人気者』という表面上のフィルターを通さず、一人の人間として偏見を持たずに接してくれる彰のフラットな優しさに、菜々花は深い安心感を抱き始めていた。
「……ねえ、千石君」
「はい、なんでしょうか」
「私、これからどうなっちゃうのかな。こんな変な能力、お父さんやお母さんに言った方がいいのかな……病院、行った方がいい?」
菜々花が不安げに尋ねると、正座していた彰はスッと顔を上げ、かつてないほど真剣な表情を見せた。
「それはどうだろう。大人にうかつに言ってはいけない気がする」
「え?」
「もしこんな人間離れした能力が世間にバレたら、どうなると思う? 確実にFBIや国家の秘密研究所のエージェントが飛んできて、神尾さんは黒塗りの車で連れ去られる。そして白い窓のない部屋に閉じ込められて、毎日毎日解剖や実験のモルモットにされるんだ。それにコオロギを主食にされるかもな。普通の学生生活なんて、二度と送れなくなるよ」
オタク特有の偏った知識とB級映画の知識を交えながらも、彰は本気で菜々花の身を案じて力説した。
「FBI……解剖……毎日モルモット……」
菜々花の脳裏に、冷たい手術台に縛り付けられ、怪しい科学者たちに囲まれる自分の姿が鮮明に浮かび上がった。
「そ、それはむっちゃ困る!! 絶対ヤダ!!」
菜々花は顔を青ざめさせ、激しく首を横に振った。大人に相談して得られるかもしれない安心感よりも、秘密機関に捕まって解剖されるリスクの方が遥かに高いと、素直な菜々花は完全に信じ込んでしまったのだ。
「だから、この能力のことは俺たちだけの秘密にしよう。神尾さんの体のことは、俺が科学の知識を総動員して必ずサポートするから」
彰の真っ直ぐな瞳に、菜々花は強く頷いた。
「わかった。絶対に二人だけの秘密にしてね、千石君」
夕日に染まる理科準備室で、二人は小指を絡めて固く約束を交わした。
菜々花は心細さが消え去り、ホッとしたように柔らかく微笑みかけた。その無防備で純粋な笑顔を至近距離で浴びた彰の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
(神尾さんが、俺だけを頼りにしてくれている……)
クラス中から憧れられている華やかな彼女が、今、自分という地味なオタクにだけ秘密を打ち明け、庇護を求めている。その事実は、彰の胸の奥底に甘い優越感と、「彼女を守らなければ」という男の子らしい強い保護欲を芽生えさせていた。
それは、二人の関係が単なるクラスメイトから、決定的に特別なものへと変化した瞬間だった。




