第7話 擬態能力
「……どうして私なの……」
「えっ?」
「どうして私が、こんな目に遭わなきゃいけないの……? 私はただ、友達とフラペチーノ飲んだり、可愛い雑貨を見たり、大好物の大福を食べたり……そういう普通の毎日が送りたいだけなのに。舌が伸びたり、目が別々に動いたりなんて、むっちゃ気持ち悪いじゃん……」
菜々花は俯き、非日常的な能力を与えられたことに嫌がる反応を見せた。
クラスの『人気者』として、常にみんなの期待に応える可愛くて完璧な女子高生であり続けなければならないというプレッシャー。それに加えて、人間離れした怪物のような能力を背負わされてしまったことへの戸惑いと恐怖が、彼女の心に暗い影を落としていた。
彰はハッとして、菜々花の肩からそっと手を離した。
「……ごめん。俺、自分の好奇心ばかり優先して、神尾さんの気持ちを全然考えてなかった。女の子だもんね、自分の体が変になっちゃうの、怖いよね」
普段なら空気を読まずにオタク知識を語り続ける彰だが、菜々花に対してはフラットな優しさと気遣いを見せた。
「ううん……千石君が謝ることじゃないよ。ただ、ちょっと混乱してるだけで……」
菜々花が弱々しく笑うと、彰は優しく頷いた。
+++
「……能力のことは、ゆっくり受け入れていけばいいよ。でも、最後に一つだけ。カメレオンの最も代表的な能力が発現しているかだけ、確認しておきたいんだ」
「最も代表的な能力……?」
「『擬態』だよ。朝、洗面所の壁と同化しかけたって言っていたよね。あの感覚を、もう一度思い出してみてくれないか?」
彰の言葉に、菜々花は今朝の出来事を思い返した。雷のフラッシュバックに驚いた瞬間、自分の手のひらや頬の色が、淡いグリーンのストライプ柄の壁紙にスーッと溶け込むように同化していったあの感覚。
「……わかった。やってみる」
菜々花は丸椅子から立ち上がり、理科準備室の白い壁の前に立った。
「壁の前に立って、自分がその壁の一部になるようなイメージを強く念じてみて」
「壁の一部になる……空気に溶け込むイメージ……」
菜々花は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
クラスの空気を読み、周囲の期待に自分を合わせて同化していくのは、彼女にとってある意味で日常茶飯事だった。あるべき自分を消し去り、その場に求められる色に染まること。精神的な擬態を、肉体的なイメージへと変換していく。
(私は、壁。誰にも見えない、ただの背景――)
菜々花が頭の中で強く念じると、擬態能力が発動した。
彼女の皮膚の表面を、波紋のような微弱な電流が駆け巡った。細胞レベルで色素が変化し、周囲の光の反射率と同調していく。
「うわぁっ……!」
一部始終を見ていた彰の口から、感嘆とも驚愕ともつかない声が漏れた。
菜々花が恐る恐る目を開け、自分の両手を見下ろす。
「えっ……嘘……」
そこにあるはずの自分の手のひらが、完全に透け、背後にある白い壁の模様をそのまま映し出していたのだ。まるで透明人間のようだった。
「成功だ……! 完璧なカモフラージュ、完全なる透明人間だよ!」
彰が大興奮で叫ぶが、その声はどこか戸惑いを含んでいた。
「ただ、一つだけ問題がある」
「問題?」
菜々花が首を傾げると、彰は少しバツが悪そうに頬を掻いた。
「神尾さんの肉体は完全に壁と同化しているんだけど……着ている服までは擬態できないみたいなんだ。だから今、俺の目からは……神尾さんの学生服だけが宙に浮いているように見えている」
「えっ!?」
菜々花は慌てて視線を下ろした。
確かに、自分の肌である手首から先や首から上は完全に透明になっているが、県立彩波高等学校の指定であるブレザーとチェックスカートは、そのままの色と形で空中に存在していた。首から上がない制服だけがフワフワと動いている様は、なんともシュールで不気味な光景だった。
「む、むっちゃ恥ずかしいんだけど! 制服を着た透明人間が歩いてるみたいで、変な感じ!」
菜々花が透明な手で制服のスカートを押さえながら言うと、彰は真剣な表情のまま顎に手を当てた。
「肉体の細胞が変化している以上、無機物である衣服にまで影響が及ばないのは当然の理屈だ。……ということはだ」
彰は化学オタクとしての純粋な好奇心から、一切の邪念を感じさせない真面目なトーンで、一つの提案を口にした。
「服を脱いだら完全にわからなくなるね」
「……………………は?」
「どうだろう、神尾さん。擬態能力の完全性を証明するために、一度服を脱いでみないか?」
理科準備室に、沈黙が降りた。
菜々花は透明な顔をしていたが血液が頭に上るのが分かった。そしてそのまま宙に浮いた制服の袖を振り回して叫んだ。
「むっちゃ変態ぃぃぃぃっ!!」
「違う! これは純粋な化学的な提案であって、決してやましい気持ちじゃないんだ! 頼む、科学の発展のために!」
「絶対ヤダ! 千石君のバカぁぁぁ!」
夕日に染まる理科準備室の中で、宙に浮いた制服が暴れ回り、白衣を着たオタク少年が拝み倒すという、なんとも奇妙でコミカルな光景が繰り広げられていた。
+++
「……絶対に、こっち見ないでよ。見たら、舌で両目突っつくからね」
その物騒な警告に、彰は慌ててくるりと背を向けた。
菜々花は、後ろに立つ彰の様子をカメレオンアイで覗き見て、背中を向けようとしている彼に念を押しながら、渋々といった様子でブラウスのボタンに手をかけた。
服を脱げば完全に透明になれるのではないかという彰の提案。最初は「むっちゃ変態!」と全否定した菜々花だったが、実のところ、彼女自身も自分の体に宿った能力の限界に興味を惹かれていたのだ。
彰が完全に後ろを向いたのを確認すると、菜々花は透明な姿のまま鏡の前で小さく息を吐いた。今の自分は誰の目にも見えず、目の前の鏡にすら映っていない。頭では分かっているのに、全身がカッと熱くなるような羞恥心はどうしても抑えきれなかった。
「……そのまま、絶対に動かないでよ」
「わ、わかってる。ちゃんと後ろ向いてるから」
菜々花は誰にも見えない頬を真っ赤に染めながら、震える手でゆっくりと服に手をかけた。
カサリ、と衣擦れの音が静かな室内に響く。
彰はごくりと固唾を呑んだ。振り返ることは許されない。視覚が塞がれている分、聴覚が異常なほど研ぎ澄まされていく。彰の全神経は、背後から聞こえてくる布の擦れる音と、所在なげに紡がれる菜々花の言葉だけに集中していた。




