第6話 環境適応
理科準備室の空気は、先ほどまでの穏やかな放課後のそれから、異様な熱を帯びたものへと変貌していた。
「お願いだ神尾さん! 少しだけでいい、少しだけでいいから口腔内の構造をこの目で見せてくれ!」
「絶対ヤダってば! 乙女の口の中をメジャーで測ろうとするなんて、むっちゃデリカシーないよ!」
目を血走らせて迫り来る彰に対し、菜々花は口元を両手で固く覆い隠しながら、部屋の隅へとジリジリと後退していた。
五メートル先にある机の上の大福を、自身の口から射出された『長い舌』で捕獲し、あまつさえ食べてしまったという信じがたい現実。その事実は、化学と生物学をこよなく愛する彰のオタク魂に猛烈な火をつけていた。
「デリカシーの問題じゃないんだ! 質量保存の法則を無視したあの舌の伸縮メカニズムを解明することは、全人類の科学史を揺るがす大発見なんだぞ!ノーベル賞も夢じゃない!」
「ノーベル賞なんていらないもん! 私はただの女子高生でいたいの!」
菜々花の悲痛な叫び声に、彰はハッと我に返った。
怯えたように肩をすくめるクラスの人気者を前にして、自分が興奮のあまり常軌を逸した行動に出ていることにようやく気づいたのだ。
「あ……ご、ごめん。俺、ちょっとテンションが上がりすぎちゃって……。嫌だったよね、本当にごめん」
彰が申し訳なさそうにメジャーを白衣のポケットにしまい、深々と頭を下げると、菜々花もホッと息を吐き出して両手を下ろした。
「わかってくれればいいよ。……でも、本当にびっくりした。私、どうなっちゃったんだろう」
菜々花は自身の口元を指先でそっと触れた。
今は全く普段と変わらない感触だ。しかし、先ほど大福を捕らえた瞬間の、あのゴムのように伸びる感覚と弾力は、まぎれもなく自分自身の体の一部として機能していた。
「雷に打たれたショックで、細胞レベルの変異が起きたとしか考えられない。それも、ただの変異じゃない。あの時、神尾さんの手のひらにいたキョロ太の……カメレオンのDNA情報が、強力な電磁波とプラズマの影響で神尾さんの体組織に融合してしまったんだ」
彰は顎に手を当て、ブツブツと仮説を組み立てていく。
「もしそうだとすれば、発現している能力は『長い舌』だけじゃないはずだ。カメレオンの他の能力も備わっているのではないか、検証してみよう」
「他の能力って……?」
「神尾さん、ちょっとそこに座って」
彰は素早い手つきで実験用の丸椅子を用意し、菜々花を座らせた。
「まずは『環境適応』の能力だ。カメレオンは周囲の温度や湿度に合わせて、ある程度体の状態を変化させることができる。昨日、あれだけの落雷を至近距離で受けたにもかかわらず、神尾さんが奇跡の無傷だった理由……。それは、超高熱のプラズマに対して、神尾さんの皮膚組織が一瞬で適応し、熱を遮断したからじゃないかと俺は推測している」
「熱を遮断……? そんなことできるわけないじゃん」
「それを今から確かめるんだ」
彰は実験台の上に二つの耐熱ガラス製ビーカーを用意した。
片方のビーカーには、理科準備室の冷蔵庫から出してきた大量の氷と水を入れる。
もう片方のビーカーは三脚の上に置き、アルコールランプに火を点けて下から炙り始めた。やがて、水はボコボコと音を立てて沸騰し、白い湯気を勢いよく立ち昇らせる。
「熱湯と氷水だ。神尾さん、この二つのビーカーに、両手を同時に入れてみてくれないか?」
「ええっ!? 熱湯って、むっちゃ熱いよ!? 火傷しちゃう!」
「大丈夫。もし熱かったらすぐに手を引けばいい。でも、俺の仮説が正しければ、神尾さんの皮膚は瞬時にその極端な温度に適応するはずだ。信じて、少しだけやってみて」
真剣な眼差しで見つめてくる彰に、菜々花はゴクリと生唾を飲み込んだ。
普段なら絶対に断るような危険な実験だ。しかし、先ほど五メートル先の彩波大福を舌で絡め取ったという非日常の体験が、菜々花の中の常識のタガを外しつつあった。
「……もし火傷したら、一生恨むからね」
「責任は持つよ。さあ、ゆっくりと」
菜々花は恐る恐る立ち上がり、右手を氷水の入ったビーカーへ、左手を沸騰する熱湯の入ったビーカーの上へと伸ばした。
(絶対熱い、絶対熱い……!)
目を固く閉じ、覚悟を決めて両手の指先を同時に水面へと沈める。
「……あれ?」
数秒が経過しても、予想していた激痛は走らなかった。
菜々花が恐る恐る目を開けると、自分の右腕は氷の浮いた冷水の中に、左腕はボコボコと沸き立つ熱湯の中に、手首のあたりまでしっかりと浸かっていた。
「痛くない……。熱くも冷たくもない。ただの常温の水に手を入れてるみたい……」
「やっぱりだ! 皮膚の表面温度と神経細胞が、外部の極端な温度変化に瞬時に同調して感覚をシャットアウトしているんだ! すごい、本当に環境適応能力が発現している!」
彰は目を輝かせながら、菜々花の両手とビーカーを交互に観察した。
菜々花が両手をビーカーから引き抜くと、赤く腫れ上がることも、凍傷になることもなく、いつも通りの健康的な肌色のままだった。
「むっちゃ不思議……。お湯の中に入れてたのに、全然平気だなんて」
「雷の直撃から無傷で生還できたのも、この能力のおかげで間違いないね。さて、次はこれだ」
彰は菜々花を再び丸椅子に座らせると、自分は彼女の背後にぐるりと回り込んだ。
「次は『360度視野』の検証だ。先ほど舌を伸ばす瞬間、神尾さんの左右の目の動きが完全に独立していたのを俺は見た。カメレオン特有の、左右の目を別々に動かして周囲の情報を処理する能力だ」
「あ……うん。大福を見た時、なんか勝手に左目が動いて、後ろの壁時計とか標本とかが見えた気がする」
「その感覚をもう一度引き出してみてほしい。俺は今、神尾さんの真後ろに立っている。そのまま振り向かずに、俺が指を何本立てているか当ててみて」
「振り向かずに……?」
菜々花は正面の黒板を見つめたまま、意識を左目だけに集中させてみた。
(後ろを見る、後ろを見る……)
すると、再び視界がグニャリと歪む感覚が訪れた。右目は正面の黒板の文字を捉えているのに、左目だけがギョロリと独自の動きを見せ、自分の真後ろの景色を視界の端に映し出し始めたのだ。人間の脳の処理能力を一時的に超えるため、またしても強烈な目眩と酔いが襲ってくる。
「うっ……気持ち悪い……。でも、見える……。千石君、ピースしてる。指、二本」
「正解だ!じゃあ次は?」
「……パー。五本。次は……三本。むっちゃはっきり見える」
菜々花が次々と正解を言い当てると、彰は背後で歓喜の声を上げた。
「完璧だ! 360度視野、長い舌、そして環境適応! 人間の姿をしたまま、カメレオンの能力を見事に使いこなせている! 神尾さん、これはとんでもないことだよ!」
彰は興奮のあまり、丸椅子に座る菜々花の両肩をガシッと掴んだ。
「君はもう、ただの女子高生じゃない!スーパーヒーローの誕生だ!」
目をキラキラと輝かせて無邪気に喜ぶ彰。
しかし、その言葉を聞いた菜々花の表情は、決して明るいものではなかった。




