第5話 伸びる舌
「……わかった。そこまで言うなら、検証してみよう。科学の基本は、仮説と実験だからね」
彰は半笑いになりながらも、菜々花の奇妙な自信に持ち前の化学的な好奇心を刺激され、実験を手伝うことにした。
「でも、箱ごと食べるわけにはいかないだろう? 準備するから、神尾さんはその位置から動かないで」
彰は五メートル離れた実験用机まで歩いていくと、置かれていた小箱を手に取った。丁寧な手つきで和風の包装紙を外すと、中から地元名物である『彩波大福』が姿を現した。
薄く透き通ったもち生地の中に、鮮やかな緑色をした抹茶餡がたっぷりと包み込まれており、見た目にも非常に美しい和菓子だった。
「よし。これを、この綺麗なシャーレの上に置いて……と」
彰は理科準備室らしく、滅菌済みの大きなガラスシャーレを皿代わりにして、大福をぽつんと乗せた。
「準備完了だ。距離はピッタリ五メートル。さあ、どうやって取るつもりだい?」
彰が腕を組み、少し意地悪そうに微笑みながら菜々花を見る。
菜々花は何も答えず、五メートル先の大福を真っ直ぐに見据えた。
大きく深呼吸をしたその瞬間――菜々花の視界が、不意にグニャリと歪んだ。
(えっ……?)
右目は机の上の大福をはっきりと捉えているのに、左目が自分の意志に反して勝手に動き出し、部屋の隅にある骨格標本や壁掛け時計、さらには背後の扉の木目までもを鮮明に映し出したのだ。人間の脳の処理能力を超えた情報量に、一瞬、車酔いにも似た強烈な目眩が菜々花を襲う。
(くっ……気持ち悪っ……)
しかし、菜々花が「あの大福を食べる」という強い意志を持って神経を口元に集中させた途端、バラバラに動いていた両目がカチリと音を立てるように正面で交差した。
ピントが合った瞬間、世界から一切の音が消え去った。
ただ視力が上がったのではない。カメレオン特有の捕食前の極限の集中状態。五メートル先にある大福までの『正確な距離』、室内を流れるエアコンの『微かな風向』、そして自身の口から飛び出す舌が描くべき『放物線の軌道』が、まるでコンピューターが弾き出したような精密な数値となって、菜々花の脳内に直接叩き込まれていく。
(届く……! あの大福は、私のもの!)
菜々花は小さく口を開いた。
次の瞬間。
――ヒュバッ!!
空気を切り裂くような鋭い音が理科準備室に響き渡った。
菜々花の口から、ピンク色の滑らかな舌が弾丸のようなスピードで射出されたのだ。舌は重力すら無視したように一直線に五メートルの空間を駆け抜け、シャーレの上の大福にピタリと吸い付いた。
そして、ゴム紐が限界まで縮むような凄まじい反発力とともに、大福は一瞬のうちに菜々花の口の中へと引き戻された。
――バッフォッ!!
「…………………………………………え?」
目の前で起きた出来事に、彰は完全にフリーズしていた。
シャーレの上にあったはずの抹茶色の彩波大福は、瞬きをする間もなく忽然と姿を消している。
視線をゆっくりと菜々花の方へ戻すと、彼女は口をモゴモゴと動かしながら、目を真ん丸に見開いて硬直していた。
静まり返った理科準備室に、菜々花がもち生地を咀嚼する微かな音だけが響いている。
(う、嘘だろ……。本当に舌を五メートルも伸ばして……。いや、そんなこと物理的にも生物学的にも絶対にあり得ない! しかし現実に……!)
彰の脳内で、今まで積み上げてきた科学的常識がガラガラと音を立てて崩れ去っていく。パニックに陥りそうになる彰だったが、目の前にいる菜々花の様子がおかしいことに気づいた。
菜々花は口元を手で押さえ、ワナワナと肩を震わせている。
(しまった! 自分の体に起きた異常すぎる現象に、神尾さんもパニックを起こしているんだ! どうしよう、とりあえず落ち着かせて……)
彰が慌てて声をかけようとした瞬間、菜々花がゴクンと大福を飲み込み、弾かれたように顔を上げた。
その瞳は、恐怖ではなく、信じられないほどの感動に満ち溢れていた。
「な、なんて美味しい食べ物なの!? 彩波大福、恐るべし!?」
菜々花は頬をピンク色に染め、大興奮で叫んだ。
「驚くとこ、そこじゃないだろ!!」
彰は渾身の力でツッコミを入れた。
自分の能力への驚きよりも、まずは食い気が勝ってしまった菜々花のズレた反応に、彰は思わずずっこけそうになった。
「いや、だって本当にむっちゃ美味しいんだよ! お餅はとろけるみたいだし、中の抹茶餡が絶妙な甘さで……。ああっ、もう一個食べたい!」
「だから、問題はそこじゃない! 神尾さん、今、自分の舌が五メートルも伸びたんだぞ!? 自覚あるのか!?」
「う、うん。あるよ? なんかビューンって伸びて、ペタってくっついた」
「効果音で済ませるな! 質量保存の法則はどうなってる!? あの長さと伸縮性を生み出す筋肉細胞が、人間の口腔内のどこに収納されているっていうんだ!」
科学オタクとしての本性に完全に火がついた彰は、白衣のポケットから勢いよく金属製のメジャーを取り出すと、目を血走らせながら菜々花に詰め寄った。
「頼む神尾さん! 口を開けて中を見せてくれ! 舌下腺の構造と筋肉の収納メカニズムを今すぐこの目で確かめないと、俺の科学者としての矜持が崩壊してしまう!」
「きゃっ! ちょ、ちょっと近寄らないでよ! 乙女の口の中を覗き込もうとするなんて、むっちゃ変態!」
「変態じゃない、検証だ! 頼む、少しだけだから!」
「絶対ヤダ!!」
菜々花は真っ赤になって口元を両手で隠し、ジリジリと後ずさりする。
しかし、彰の目はかつてないほどに爛々と輝いていた。クラスの中心にいる人気者の女子高生と、教室の隅にいる地味な化学オタク。本来なら交わるはずのなかった二人の日常が、この理科準備室の中で、決定的に『非日常』へと塗り替えられた瞬間だった。




