第4話 理科準備室
理科準備室には、アルコールランプの芯や古い紙、そして微かに漂う薬品の入り混じった独特の匂いが立ち込めていた。
窓の外では夕日が沈みかけており、オレンジ色の光が室内を斜めに切り裂くように差し込んでいる。先ほど鈴木先生が部屋を出て行き、室内には菜々花と彰の二人だけが残されていた。
「キョロ太君、むっちゃ大人しいね。昨日はあんなに学校中を逃げ回ってたのに」
菜々花はガラスケースに顔を近づけ、中にいる小さな緑色の生き物を興味津々で見つめた。
ケースの中の木の枝に器用に掴まっているカメレオンのキョロ太は、菜々花の言葉に反応するように、クリクリとした目をキョロリと動かした。
昨日の午後、あの大音響とともに落雷の直撃を受けた記憶は、菜々花の中に確かな恐怖として刻まれている。今朝も洗面所の鏡の前でフラッシュバックを起こしたばかりだ。しかし、こうしてキョロ太ののんびりとした愛嬌のある顔を見ていると、なぜか強張っていた心がスッと解け、深い安心感に包まれるのを感じた。
「カメレオンは本来、すごく神経質で臆病な生き物なんだ。でも、この環境に慣れてるというか……神尾さんのことが怖くないみたいだね」
彰は少し誇らしげに言いながら、ピンセットと小さなプラケースを取り出した。
「ちょうど餌の時間なんだ。食べる瞬間、見てみる?」
「見る見る! むっちゃ見たい!」
菜々花が目を輝かせると、彰はピンセットで生きたコオロギをつまみ出し、ケースの中へとそっと差し入れた。
「よく見てて。カメレオンの目は、左右が完全に独立して動くんだ。右目で獲物を探しつつ、左目で天敵がいないか周囲を警戒できる。いわゆる三百六十度視野ってやつだね」
彰の解説の通り、キョロ太の右目はピンセットの先のコオロギをじっと見据えていたが、左目はまったく別の方向――天井の方をぐるぐると見回していた。
「うわぁ、本当だ。目が別々に動いてる……なんだか不思議」
「そして、獲物との距離を正確に測る時だけ、両目を正面に向けるんだ。ほら」
キョロ太の左目がギョロリと動き、右目と同じようにコオロギにピタリと焦点を合わせた。
その瞬間だった。
――シュバッ!
空気を切るような微かな音とともに、キョロ太の口から体長と同じくらい長い舌が弾丸のように飛び出した。
先端がコオロギに吸い付くように命中したかと思うと、ゴム紐が縮むような尋常ではないスピードで口の中へ引き戻される。一瞬の出来事だった。キョロ太は何事もなかったかのように、口をもぐもぐと動かしている。
「……すごっ。早すぎて見えなかった」
「すごいだろ? 舌の筋肉にエネルギーを溜め込んで、一気に解放するんだ。あのスピードと正確性は、まさに自然界の生み出した芸術的なメカニズムだよ」
興奮気味に語る彰の横顔を見ながら、菜々花は曖昧に頷いた。
いや、見えなかったというのは嘘だ。
ほんのわずかな一瞬、菜々花の視界の中で時間が引き延ばされたような感覚があった。キョロ太が両目で獲物を捉えた瞬間、菜々花の目にも『対象までの距離』と『必要な筋肉の伸縮率』が、直感的な数値として脳内に浮かび上がった気がしたのだ。
(何、今の……。私にも、できるかも……?)
今朝の洗面所での出来事が脳裏をよぎる。壁紙に同化しかけた自分の手。そして今、キョロ太の舌の動きを見て感じた奇妙な既視感と、確信に近い自信。
「……神尾さん? どうかした?」
「えっ? あ、ううん、なんでもない! むっちゃかっこいいなって思って!」
菜々花が慌てて誤魔化すと、彰は少し照れたように頭を掻いた。
「あ、そうだ。神尾さん、昨日は本当にありがとう。嫌がらずにキョロ太探しを手伝ってくれたこと、すごく嬉しかったから……あれ、お礼にと思って」
彰が指差したのは、菜々花たちが立っている場所から五メートルほど離れた、部屋の中央にある実験用の大きな机だった。
そこには、和風の包装紙に包まれた小さな箱が一つ、ポツンと置かれていた。箱の表面には、達筆な筆文字で『彩波大福』と書かれたロゴが印刷されている。
「えっ! 彩波大福!? もしかして、わざわざ買ってきてくれたの?」
「神尾さん、甘いものが好きだって教室で話してるのを前に聞いたことがあったから……。大福、嫌いじゃなかったかな?」
「嫌いなわけないじゃん! これ、私ずっと憧れてて、高価だから実はまだ一度も食べたことなかったんだよね」
「えっ、そうだったの? 地元の名物なのに?」
「うん。昨日、お父さんが仕事帰りに買ってくるって約束してたんだけど、私が雷に打たれて病院に運ばれちゃったからお預けになっちゃって。だから、むっちゃ嬉しい! ありがとう、千石君!」
菜々花が満面の笑みを向けると、彰は耳まで真っ赤にして「よかった」と呟いた。
「それじゃあ、取ってくるよ」
彰が机の方へ歩き出そうとした瞬間、菜々花はとっさに彼の手首を掴んで引き止めた。
「待って」
「え?」
「……私、ここから動かないで、あの大福を取れる気がする」
菜々花の口から出た突拍子もない言葉に、彰は目を丸くした。
「動かないで? どうやって? ここからあの机までは五メートルはあるよ。マジックハンドでも使うつもり?」
「ううん。……舌で」
「は?」
「キョロ太君みたいに、舌を伸ばしてキャッチできる気がするの。……ううん、絶対にできる」
冗談を言っているのかと思った彰だが、菜々花の表情は真剣そのものだった。
しかし、人間の口腔内の構造上、舌が五メートルも伸びるなど生物学的にあり得ない。化学や生物を愛する彰にとって、それは絶対に覆らない常識だった。
「……神尾さん、雷のショックでまだ少し混乱してるんじゃないかな」
彰は半笑いになりながら、優しく諭すように言った。
「絶対に無理だよ。人間の舌の筋肉は、そんな風にはできていないんだから」
「無理じゃないもん! 私、昨日の雷のあとから、なんだか体が変なんだよね。朝も鏡の前で壁と同化しそうになったし!」
「壁と同化? ますますカメレオンじゃないか」
クスクスと笑う彰を見て、菜々花は少しムキになった。
「本当だもん! ねえ千石君、実験に付き合ってよ! もし私が舌であの大福を取れたら、私の言うこと信じてくれる?」
菜々花の真っ直ぐな瞳に見つめられ、彰は少しタジタジになりながらも、持ち前の『化学的な好奇心』をくすぐられるのを感じた。




