第3話 教室の喧騒
教室の引き戸を開けると、朝の喧騒が一瞬ピタリと止んだ。
「あ、菜々花!」
いち早く気づいた舞が駆け寄ってくる。それに続くように、くるみと梨沙も小走りで集まってきた。
「菜々花、本当に大丈夫だったの!? 雷に打たれたってメッセージ見て、もう心臓止まるかと思ったんだから!」
「心配かけてごめんね! スマホは黒焦げになっちゃって、今日お父さんに新しいのを買ってもらうんだけど、この通り、私自身はむっちゃ元気だから!」
菜々花が両手を広げて笑顔を見せると、舞たちはホッと胸を撫で下ろした。
「よかったぁ……。もう、菜々花がいないと私たちどうしていいかわかんなかったよ。昨日も全然楽しくなかったし。ね、そう思うでしょ?」
舞は無自覚なまま、隣のくるみたちに同意を求めた。カーストから落ちることを恐れているくるみも、コクコクと必死に頷く。
その言葉の裏にある「私たちを引っ張ってくれる、明るい神尾菜々花」を強烈に求められている空気を肌で感じ、菜々花の胸の奥がキュッと締め付けられた。
(私がいなくても、楽しいことはいっぱいあるはずなのに……)
期待される役割を演じなければならないというプレッシャー。一瞬だけ息苦しさを覚えたが、菜々花はすぐにそれを心の奥底に押し込め、誰からも期待される完璧な「人気者」の顔に切り替えた。
「むっちゃ心配かけてごめん! 今日のお昼、購買の新作パン奢るから許して!」
菜々花の明るい声に、周りの空気がパッと華やぐ。これでいい。空気を読み合い、同調する。この空気を壊さないことこそが、この学校での正解なのだから。
「あの、神尾さん……」
輪の中心で笑い合っていた菜々花に、おずおずと声をかける者がいた。クラスの中心グループに自ら近づくなど普段の彼ならあり得ないことだが、千石彰の表情は真剣だった。
「千石君! 昨日は本当にありがとう。救急車、呼んでくれたんでしょ?」
菜々花がグループを抜け出して向き直ると、彰は少し居心地悪そうに目を伏せた。
「いや、俺は当然のことをしただけで……。それより、キョロ太も無事だったんだ。神尾さんが落とさないように、最後まで庇ってくれていたおかげだよ。その、色々と……ありがとう」
不器用ながらも誠実な彰の言葉に、菜々花はパッと顔をほころばせた。周囲の空気に擬態した人気者の仮面を通さない、素の笑顔だった。
「キョロ太君、無事だったんだ! よかったぁ。私の方こそ、本当にありがとうね」
+++
放課後。
日直の仕事を終えて帰路につこうとしていた菜々花は、理科準備室の前で扉の鍵を開けようとしている彰とばったり出くわした。
「あ、千石君。部活?」
「や、やあ。これからキョロ太の様子を見ようと思って」
「キョロ太君って、ここで飼ってるの? ……ねえ、もう一度見せてもらっていい?」
昨晩思い出した不思議な感触を確かめたくて、菜々花は少し身を乗り出した。
「あ、ああ。いいよ」
彰に招き入れられた理科準備室は、様々な薬品や実験器具が所狭しと並んでおり、独特の薬品の匂いが漂っていた。
部屋の奥では、一人の男性教師がパソコンに向かって作業をしていた。彰が自由に実験できるこの環境を提供してくれている、科学部顧問の鈴木哲也だった。
普段から他の教師にペコペコしている温厚で気弱そうな鈴木先生は、入ってきた菜々花を見て優しく目を細めた。
「話を聞いたよ、神尾さん。雷に打たれて生還した少女とカメレオン君。いやぁ、中身が入れ替わらなくてよかったね。あははっ」
「もう、先生ったら。そんな漫画みたいなことあるわけないじゃないですか」
菜々花が笑って返すと、鈴木先生は「それもそうだね。じゃあ、僕はこれから職員会議があるからこれで」と、冗談交じりに笑いながら部屋を出て行った。
+++
理科準備室を出た鈴木は、丸めた背中で廊下をとぼとぼと歩いていた。
「あ、鈴木先生!」
背後から、年配の先輩教師がドタドタと足音を立てて近づいてきた。
「これから職員会議だろう。悪いんだけどさ、この追加資料、急いで全員分コピーしてホチキス留めしておいてくれないか? 若手が気ぃ利かせて動いてくれないとさぁ。もっと空気を読んでくれよ」
鈴木の担当業務ではない雑務の押し付けだった。しかし、鈴木は慣れた様子ですぐさま腰を低くし、ペコペコと何度も頭を下げる。
「あ、はい! すみません、気が利かなくて。すぐにやっておきますので!」
「頼むよ、ほんと。パパッとやってくれよ」
先輩教師は偉そうに鈴木の肩を叩いてから、職員室の方へと歩き去っていった。
「はい、失礼いたします……」
鈴木は相手の背中が見えなくなるまで、愛想の良い笑みを浮かべて見送っていた。
しかし、角を曲がってその姿が完全に見えなくなった瞬間。
鈴木の顔から、温度がスッと消え失せた。
「……チッ」
誰もいない廊下に、鋭い舌打ちが響く。
先ほどの温厚で気弱な顔は見る影もない。薄暗い廊下に立つ鈴木の瞳は、泥のように濁り、周囲へ同調することを理不尽に強要してくるこの学校――ひいては社会への、どす黒い憎悪と復讐心で冷たく燃え上がっていた。
彼の手の中で、押し付けられた資料がグシャリと音を立てて歪んだ。




