第20話 空中スイング
夜の彩波市。中心部に位置する商業エリアは、煌びやかなネオンサインやビルの看板が夜空を彩り、交通量の多い大きな道路には絶え間なく車のヘッドライトが行き交っていた。
その大通りを見下ろす歩道橋の上で、菜々花は特製スーツの擬態機能をオンにし、完全に透明化した状態で夜のパトロールを行っていた。
――ブォォォンッ!
突如、けたたましい排気音を鳴らす黒いバイクが、歩道すれすれを猛スピードで走り抜けていった。
直後、「あああっ!」という悲痛な悲鳴が夜の街に響き渡る。
菜々花がカメレオンの優れた視力で歩道の下を見下ろすと、そこには見知らぬ小柄なおばあちゃんが、アスファルトの上に無惨に転倒している姿があった。
「私のバッグが……! 泥棒! 誰か捕まえてください!」
おばあちゃんは擦りむいた膝を押さえながら、遠ざかるバイクのテールランプに向かって涙ながらに叫んでいた。
「年金の振込日だったのに……あれがないと、今月の生活費が……!」
その震える声と絶望に満ちた表情を目の当たりにした瞬間、菜々花の胸の奥で、冷たい怒りの炎がゴウッと燃え上がった。
自分や誰かの大切な日常を、身勝手な理由で理不尽に奪い去っていく悪意。被害者が泣き崩れる姿を直に見たことで、ただの犯罪ではなく「絶対に逃がしてはいけない」というヒーローとしての強い使命感が菜々花の全身を駆け巡る。
「彰くん! 歩道橋の下でひったくり事件発生! 犯人は黒いバイクで、大通りを南に向かって逃走中!」
『了解した! 上空のドローンで対象を捕捉したよ。すごいスピードだ、菜々花さんの足で地上から追いかけるのは不可能に近い!』
インカムから響く彰の声には、焦りが滲んでいた。
菜々花は透明な姿のまま歩道橋の階段を駆け下り、大通りを走るバイクを追って全力でアスファルトを蹴ったが、人間離れした脚力をもってしても、フルスロットルで逃走するバイクの機動力にはみるみるうちに引き離されていく。
「くっ……このままじゃ逃げられちゃう!」
『待って、菜々花さん。一つだけ追いつく方法がある。……君の「長い舌」を、移動手段として使うんだ』
「えっ?」
『この商業エリアなら、高いビルや街灯、看板がいくらでも並んでいるだろう? そこに舌を伸ばして巻き付け、振り子の要領で空中をスイングしながら高速移動するんだ!』
彰の無茶苦茶な提案に、菜々花は一瞬だけ目を丸くした。しかし、躊躇している暇はない。遠くで泣いているおばあちゃんの顔が脳裏をよぎる。
「……わかった、やってみる!」
菜々花は走りながら顔を上げ、カメレオンの左右独立した視界を駆使して、前方にある十五メートルほど先の巨大なビルの看板にピタリと焦点を合わせた。
口を大きく開き、舌の筋肉に莫大なエネルギーを溜め込む。
――ヒュバッ!!
空気を切り裂く鋭い音と共に、ピンク色の滑らかな舌が弾丸のように射出された。
真っ直ぐに伸びた舌は、狙い通りビルの鉄製看板にガッチリと巻き付く。その瞬間、菜々花は地面から足を離し、ターザンのように宙へと舞い上がった。
遠心力が全身にかかり、夜風が耳元を激しく吹き抜ける。地上を走るよりも遥かに速いスピードで、透明な菜々花の体はビルの谷間を縫うように空中をスイングした。
「すごい! むっちゃ速いし、飛んでるみたいで気持ちい――」
スタイリッシュな空中アクションに歓喜の声を上げようとした菜々花だったが、次の瞬間、彼女の顔面が凄まじい苦悶に歪んだ。
巻き付けた舌を引き戻した瞬間、看板の表面に付着していた排気ガスの汚れと、赤サビの強烈な風味が、菜々花の味蕾細胞を容赦なく直撃したのだ。
「おえぇぇっ!? 鉄の味がする! 看板の味がしてむっちゃ不味い!!」
『我慢して菜々花さん! 次の街灯に急いで!』
「ううう……最悪! 事件が片付いたら、彩波大福で口直しさせてよ!」
『わ、わかった! 俺が買って用意しておいてあげるから、今は追跡に集中して!』
事件解決のご褒美を固く約束させながら、菜々花は涙目で次々と街灯や看板に舌を伸ばし、夜の空中を高速で飛び交っていく。
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一方その頃、大通りの歩道を歩いていた飯田梨沙は、手元のスマートフォンを操作しながら不満げに唇を尖らせていた。
好奇心旺盛で、SNSのトレンドや街の噂話が大好きなクラスのムードメーカーである彼女は、友人たちとの遊びの帰り道だった。
「もう、今日のモール、全然イケメンいなかったし。なんか面白いことないかなー」
梨沙がため息をつきながら夜空を見上げた、その時だった。
ヒュンッ、と頭上を強烈な風が吹き抜け、ビルの看板がガタガタと不自然に揺れた。
「え……?」
梨沙が目を凝らすと、街灯の光に照らされた空間を一瞬だけ、緑色の奇妙な影がターザンのように飛び移っていくのが見えた。特製スーツの擬態機能は完璧だが、高速で空中を移動しているため、光の屈折が追いつかずに緑色の輪郭が僅かに空中に浮かび上がってしまっていたのだ。
「嘘……今のって、最近ネットで噂になってる『緑のヒーロー』!?」
ミーハーな情報屋の血が騒ぎ、梨沙は瞬時にスマートフォンのカメラを起動し、動画撮影ボタンをタップした。
「ヤバイヤバイヤバイ! これ絶対バズるやつじゃん!」
画面の中には、ビルの間を異常な速さで移動する緑の影が、ブレながらも確かに記録されていた。
梨沙は興奮のあまりその場で飛び跳ね、息つく暇もなくSNSアプリを開いて動画をアップロードした。
『【速報】彩波市で噂の緑のヒーロー、ガチでいた!!! ビルの間を飛んでるんだけど!?』
送信ボタンが押された瞬間から、その投稿は凄まじい勢いで拡散され始め、菜々花の知らぬところで、巨大な火種となっていくのであった。




