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第17話 舌射の代償

 気絶した泥棒の腕を引き寄せ、菜々花は持参していたロープと結束バンドで手際よく縛り上げた。


『よし、警察への匿名通報、完了したよ。菜々花さん、近所の人が起きてくる前にそこを離脱して!』


 インカムから聞こえる彰の声に頷き、菜々花は再び特製スーツの擬態機能をオンにした。感情が落ち着いたことで暴走は収まり、彼女の体は再び夜の闇に完全に溶け込んだ。

 現場を後にした菜々花は、誰にも見られることなく、無人の路地裏や建物の陰を軽やかな足取りで駆け抜けていく。


 口の中には、泥棒の顔面を舐めてしまった時の最悪な味がまだ微かに残っており、思い出すだけで鳥肌が立った。しかし、夜風に吹かれながら走る彼女の胸の内には、これまで味わったことのない不思議な高揚感が広がっていた。


(私が、あの泥棒を捕まえたんだ……)


 雷に打たれて人間離れした能力を手に入れた時は、ただ気味が悪くて恐ろしいだけだった。しかし今、その異常な力を使って、誰かの大切な思い出や平穏な日常を守ることができたのだ。


 他人のために自分の意志で力を使うことの誇らしさ。圧倒的な善行の気持ちよさに、菜々花は確かな目覚めを感じていた。

 クラスの「人気者」という仮面を被って周囲に同調している時とは違う、本当の自分としての確かな足取りがそこにあった。


 +++


 菜々花たちが立ち去ってから数分後、けたたましいサイレンの音と共に一台のパトカーが現場に到着した。

 降り立ったのは、よれよれのトレンチコートを着込んだベテラン刑事、堂島剛だった。彼は正義感が強く泥臭い捜査を好む昔気質の刑事である。


「……こいつは、一体どういう状況だ?」


 懐中電灯で現場を照らした堂島は、深く眉間に皺を寄せた。そこには、窓ガラスを割って侵入したはずのプロの空き巣犯が、手足を器用にロープで縛り上げられ、白目を剥いて気絶している姿があった。

 通報者は匿名。泥棒は抵抗した痕跡すらなく、完全に無力化されている。


「一体誰が、こんな真似を……?」


 堂島は訝しみながら泥棒に近づき、ふと、気絶した男の顔面に付着している奇妙な液体に気付いた。


「なんだ、この粘液は……? 唾液か?」


 鑑識に回すため、堂島は持っていたスポイトで慎重にその未知の粘液を採取した。さらに、騒ぎを聞きつけて起きてきた近隣住民や、目を覚ました直後の泥棒の錯乱した証言は、長年現場を踏んできた堂島をさらに混乱させた。


『天井に、真っ赤に光る透明な化け物が張り付いていたんだ!』

「真っ赤に光る透明な化け物、だと……?」


 最近のハイテク犯罪にはついていけない堂島だが、この不可解な事件の裏に「得体の知れない何か」が介入していることだけは刑事の勘で悟った。

 警察のメンツにかけて、この正体不明の存在を突き止める。堂島は警察手帳に『赤い発光体』『異常な粘液』と書き殴り、鋭い眼光を夜の闇へと向けた。


 +++


 そして、翌日の昼休み。

 県立彩波高等学校の2年A組の教室では、いつものように西園寺舞を中心とした女子グループが机を囲んでいた。


「ねえねえ、今日の朝のニュース見た!? 昨日この辺りで連続空き巣やってた泥棒が、捕まったらしいよ!」


 ミーハーな情報屋である飯田梨沙が、身を乗り出して興奮気味に語り始めた。


「見た見た! でもさ、捕まえたの警察じゃないって噂だよね。ネットの掲示板だと、真っ赤に光る透明なお化けが泥棒を縛り上げたって……」


 流行に敏感でクラスの空気を作り出す舞も、スマホの画面を見せながら同意する。


「えー、嘘でしょ? むっちゃ怖くない、それ」


 その会話の輪の中心で、菜々花は頬を引きつらせながら曖昧な笑顔を浮かべていた。


(真っ赤に光る透明なお化けって……それ、完全に昨日の私じゃん!)


 自分が怒りで感情的になり、スーツの擬態を暴走させてしまったせいで、とんでもない都市伝説が生まれようとしている。


「ね、菜々花もそう思うでしょ? 赤いお化けなんて気持ち悪いよね!」


 舞から無自覚に同意を求められ、菜々花はビクッと肩を揺らした。


「あ、あははは! そ、そうだね! むっちゃ怖いし、気味悪いよねー!」


 菜々花は冷や汗をかきながら必死に話を合わせ、同調圧力に屈して完璧な笑顔の仮面に擬態した。

 スクールカースト上位の「人気者」としての顔と、夜の街を駆ける「正義のヒーロー」としての裏の顔。

 この日を境に、世間を騒がせる謎の存在に対する熱狂と、菜々花の二重生活の綱渡りが、本格的に幕を開けるのだった。


+++


 放課後。理科準備室には、激しい水音が響き渡っていた。


「うがい薬、もう一杯ちょうだい! ああもう、全然おっさん泥棒の味が消えない!」


 洗面台にかじりつき、涙目で何度もうがいを繰り返す菜々花。その傍らで、千石彰は白衣姿のまま、手元のタブレットに何やら熱心にデータを打ち込んでいた。


「カメレオンの舌の筋肉は優秀だけど、対象を捕獲する際の『舌射ぜっしゃを攻撃に使う』という本能的な動作まで完全にトレースしてしまうみたいだね。これは俺の化学的な計算でも盲点だったよ」


「分析してる場合じゃないよ! むっちゃ最悪だったんだから! 私、もう二度と直接攻撃なんてしないからね!」


 顔を真っ赤にして抗議する菜々花に対し、彰はオタク特有の真面目なトーンで返す。


「そうも言っていられないよ。あの驚異的な舌射は、君の最大の武器になる。次からは、舌先の硬化のタイミングと、直撃直前の軌道コントロールの特訓が必要だね。さあ、口を開けて、もう少し舌下腺の筋肉の収縮率を見せて……」


「だーかーら! 乙女の口の中を覗き込もうとしないでってば!」


 菜々花は真っ赤になって彰の肩をポカポカと叩いた。秘密を共有する二人の間には、いつの間にかこんなコミカルな掛け合いが、気を許せる日常として馴染み始めていた。

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