第16話 怒りの色
夜の闇の中、菜々花はアスファルトを力強く蹴り出し、風を切って走っていた。
その姿は誰の目にも見えない。彰が開発した特製スーツの擬態機能によって周囲の景色に完全に同化し、夜の住宅街を駆け抜ける透明な疾風と化していた。
『菜々花さん、そのまま直進だ。あと五十メートルでターゲットの家に到着する』
耳元のインカムから聞こえる彰の声は、いつものオタク特有の早口ではなく、ナビゲーターとしての冷静さを保っていた。上空に展開しているドローンからの映像と、菜々花の足の裏が捉えた「振動」の情報を照らし合わせ、最短ルートを的確に指示してくる。
「了解。……見えた、あの家だね」
菜々花は角を曲がり、目的の一軒家の前でピタリと足を止めた。
外観はごく普通の二階建て住宅だが、通りに面した門扉ではなく、死角になりやすい裏庭へと回り込む。すると、彰の言った通り、勝手口の横にある窓ガラスが乱暴に打ち破られていた。
『赤外線センサーの反応は、一階の奥の部屋に一つ。間違いなくさっきの泥棒だ。菜々花さん、準備はいい?』
「うん。任せて」
菜々花は深く息を吸い込むと、カメレオンの能力を全身に行き渡らせた。
足音を一切立てず、割れた窓枠に手をかける。そこから床に降り立つのではなく、彼女はそのまま壁を這い上がり、音もなく天井へと張り付いた。
人間離れした強力な吸着力と筋力。天井に手足をついて逆さまにぶら下がった状態でも、特製スーツの擬態は完璧に機能している。まるで重力を無視した幽霊のように、菜々花は天井を這って奥の部屋へと向かっていった。
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一階のリビングでは、黒っぽい服に身を包んだ男が、懐中電灯を口に咥えながらせわしなく動き回っていた。
「チッ、現金はどこだ……」
男の足元には、引き出しから無造作に引っ張り出された書類や衣類が散乱している。それだけではない。住人が大切に飾っていたであろう写真立ては床に叩き落とされ、ガラスが粉々に砕けていた。家族の笑顔が収められたアルバムも、泥ついた靴で踏みにじられている。
その光景を天井から見下ろした瞬間、菜々花の胸の奥で、ドクンと嫌な音が鳴った。
(昨日の夜……私の家も、あんな風に……)
乱暴に扱われている他人の思い出の品々が、昨夜荒らされた自分たちのリビングの惨状と重なり合う。もしあの時、自分が能力を使って捕まえていれば、この家の人たちがこんな悲しい思いをすることはなかったのだ。
「……っ!」
理不尽に他人の日常を壊し、平然と金目の物を探す泥棒のふてぶてしい態度に、菜々花の中で激しい怒りの炎が燃え上がった。
『――約束してほしい。犯人を前にしても、決して感情的になるな』
理科準備室での彰の忠告が脳裏をよぎったが、沸点に達した感情の波は、もう誰にも止められなかった。
菜々花の心が激しく揺れ動いたその瞬間、彼女の細胞を覆っていたカメレオンの擬態機能が暴走を始めた。
チカッ、チカチカッ!
透明だったはずの菜々花の輪郭が空中に浮かび上がり、次の瞬間、特製スーツごと彼女の全身が「警告」を意味する鮮やかな赤色へと発光し始めたのだ。
「えっ……!?」
自らの体が闇夜の提灯のように赤く光り出したことに気づき、菜々花はハッと我に返った。しかし、時すでに遅し。
天井から漏れ出す異常な赤い光に気付き、泥棒が懐中電灯を向けた。
「な、なんだぁっ!?」
光の先で天井に逆さまに張り付いている、全身が赤く発光した女のシルエット。
泥棒は前夜に遭遇した「粉まみれの化け物」の記憶を呼び覚まされたのか、白目を剥いて悲鳴を上げた。
「ひぃぃぃっ!! また出たァァッ!!」
「あっ、待って!」
奇襲するはずが、自らの怒りで正体を明かしてしまった菜々花。泥棒は懐中電灯を放り投げ、転がるようにして裏口へと逃げ出した。
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バタンッ、と裏口のドアが乱暴に開け放たれ、泥棒が外へと飛び出していく。
「しまっ……逃げられる!」
菜々花は天井から床へと軽やかに着地すると、赤く発光した状態のまま、すぐさま泥棒の後を追って夜の庭へと飛び出した。
しかし、命の危険を感じて火事場の馬鹿力を発揮している泥棒の足は、想像以上に速い。このままでは路地裏に紛れ込まれて見失ってしまう。
『菜々花さん! そのまま真っ直ぐ追って! 俺が動きを止める!』
インカムから響く彰の頼もしい声。
その直後、上空で待機していたドローンが、猛禽類のような鋭いモーター音を立てて急降下してきた。
「うおっ!?」
泥棒の目の前に立ちはだかったドローンが、搭載された超高輝度のLEDライトを最大出力で点滅させる。強烈なフラッシュの連続攻撃に、泥棒は「目がぁっ!」と顔を覆い、たまらず足を止めた。
「ナイス、彰くん!」
ドローンによる完璧なかく乱。泥棒が怯んだその一瞬の隙を、菜々花は見逃さなかった。
対象までの距離、約七メートル。
(逃がさない……っ!)
菜々花はカメレオンの左右独立した視界を正面でピタリと交差させ、泥棒の頭部に明確なロックオンを定めた。
大きく口を開き、口腔内に格納された長い舌の筋肉に莫大なエネルギーを集中させる。単に伸ばすだけではない。標的を確実に仕留めるため、舌の先端の筋肉を極限まで硬化させるのだ。
ヒュバッーー!!
空気を切り裂く鋭い音と共に、ピンク色の滑らかな舌が弾丸のようなスピードで射出された。
七メートルの空間を一直線に駆け抜けた硬質な舌先は、逃げようとしていた泥棒の後頭部、いや、振り向いた顔面に容赦なく激突した。
「ぐはぁっ!?」
ハンマーで殴られたような衝撃に、泥棒の体は宙に浮き、そのままアスファルトに無様な音を立てて転倒した。
「やった!命中――」
歓喜の声を上げようとした菜々花だったが、ゴムのように縮んで口の中へ戻ってきた舌を収納した瞬間、彼女の顔色が赤色から真っ青へと変わった。
先ほど、顔面に直撃した舌先。それが泥棒の脂ぎった額や、汗まみれの頬の表面を、勢い余ってベロリと舐め回してしまっていたのだ。
「んっ!? ……おえぇぇぇっ! む、むっちゃまずいっ!!」
おっさんの汗と皮脂が混ざり合った、この世の終わりみたいな酸っぱい味が、菜々花の味覚を容赦なく蹂躙する。
菜々花は涙目になりながら、道端でえずき、激しく舌を出してバタバタと悶え苦しんだ。
『み、見事な一撃だ! でも菜々花さん、味の感想はいいから、早くそいつを捕まえて!』
「うううっ……最悪……口の中でドブ川の味がするぅ……」
インカム越しの彰の的確かつ非情なツッコミに、菜々花は半泣きになりながらも首を振った。
気絶して白目を剥いている泥棒に近づき、持参していた結束バンドとロープで、手足を後ろ手にしてしっかりと縛り上げる。
「もう……絶対、直接攻撃には使わないんだから……」
口の中に残る最悪の余韻に苦しみながらも、菜々花は初めて自分の手で悪を倒し、街の平和を一つ守り抜いたのだった。




