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第一標本「可愛げ」ーどんな黒も白に見えるー  作者: 本咲 サクラ


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6/11

No.6 検査

 月曜日、会社で、わたしは立花に謝ろうとした。


 けれど、できなかった。

 彼は、いつもどおりに見えた。いつもどおり遅刻してきて、いつもどおり上司に怒られて、いつもどおり「すいませーん」と笑っていた。

 ただ、わたしには、もう話しかけてこなかった。


 それは、当然のことだった。わたしが、突き放したのだから。わたしが、構うのをやめろと言ったのだから。彼は、わたしの言うとおりにしただけだ。


 なのに、わたしは、彼が話しかけてこないことに、ひどく傷ついていた。


 自分勝手だ、と思った。突き放しておいて、傷ついている。構うなと言っておいて、構ってほしがっている。

 わたしは、自分のことが、どんどん嫌いになっていった。母に「可愛げがない」と言われたのは、本当はこういうことだったのかもしれない、とすら思った。

 わたしは、人を傷つけて、それで自分が傷ついて、誰のことも幸せにしない、めんどくさいだけの人間なのだ。


 わたしは、思いきって、カウンセリングに行くことにした。


 ずっと、自分には必要ないと思っていた。

 だって、殴られたわけじゃない。ご飯を抜かれたわけじゃない。

 けれど、立花を傷つけてしまった自分を、わたしは持て余していた。このままでは、わたしは、これからもずっと、近づいてくる人を傷つけて、遠ざけて、一人で生きていくことになる。それが、たまらなく怖かった。


 カウンセラーは、五十代くらいの、穏やかな雰囲気の女性だった。

 わたしは、何から話せばいいのかわからなかった。

 立花のこと、母のこと、ランドセルのこと、満点のテストのこと。

 話しながら、わたしは何度も「でも、これくらいのことで」と言った。殴られたわけじゃないし、ご飯を抜かれたわけじゃないし、世の中にはもっと大変な人がいるし。


 カウンセラーは、わたしの話を、長いあいだ黙って聞いていた。それから、こう言った。

 「あなたは、ご自分の話をするたびに、最後に必ず、ご自分の痛みを取り下げますね」


 わたしは、はっとした。


 「『これくらいのことで』『もっと大変な人がいる』。それは、誰かに教わった言い方ですか?」


 わたしは、答えられなかった。

 けれど、思い当たることは、あった。

 子どものころ、わたしが何かを訴えると、母はいつもこう言った。

 「そんなこと言って。世の中には、もっとかわいそうな子がいるんだよ。あんたは恵まれてるほうなんだから、文句言わないの」


 わたしは、自分の痛みを訴えることを、わがままだと教えこまれてきた。

 だから、痛い、と感じるたびに、わたしは反射的に、その痛みに蓋をした。これくらいのことで、と。


 「痛みは、誰かと比べて、大きいとか小さいとか決めるものではありません」とカウンセラーは言った。 「あなたは、痛い、と言っていいんです。誰とも比べずに」


 わたしは、その日、声を立てずに泣いた。

 けれど、もう、泣くことを恥ずかしいとは思わなかった。

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