No.4 接触
立花という同期がいた。
デザイン部にいて、いつも締め切りを守らず、机は紙コップとお菓子の袋で散らかっていて、上司に怒られても「すいませーん」と笑っている、わたしとは正反対の男だった。報告書はいつも誤字だらけで、校正のついでに何度か直してやったことがある。
最初は、苦手だった。
ああいう種類の人間が、わたしは昔から苦手だった。何も考えていないように見えて、なぜか人に好かれる。場を明るくして、いつの間にか輪の中心にいる。遥がそうだった。母が「愛嬌がある」と言ったのは、ああいう人間のことだ。わたしには一生手に入らないもの。だから、立花のことも、ただの「うるさい同期」としか思っていなかった。
その立花が、なぜかわたしに構うようになった。
昼休みに同じテーブルに座ってくる。帰りの方向が同じだからと、駅まで一緒に歩こうとする。週末に展示会の招待券が余ったからと、誘ってくる。わたしは、そのたびに身構えた。
この人は、何が目的なんだろう。
それが、わたしの最初の反応だった。
理由もなく、わたしに近づいてくる人間がいるはずがない。何か裏があるはずだ。仕事を押しつけたいのか。わたしの校正能力を当てにしているのか。それとも、わたしを笑い者にして、誰かと面白がっているのか。
子どものころ、わたしに優しくしてくる大人がたまにいた。親戚とか、近所の人とか。「いい子ね」と頭を撫でてくれる人。
けれど、その優しさは、いつも長続きしなかった。
撫でていた手は、すぐに遥のほうへ伸びた。「あら、妹ちゃんのほうが可愛いわねえ」と。
わたしは、優しさというものを、信じないことで自分を守ってきた。信じなければ、裏切られても傷つかない。
だから、立花が優しくすればするほど、わたしは警戒した。
それでも、わたしは少しずつ、立花と話すようになっていた。
はっきり言えば、わたしは彼に惹かれ始めていた。それを認めるのが、怖かった。
惹かれてしまえば、失うのが怖くなる。失うのが怖くなれば、わたしはまた、相手の顔色をうかがう人間に戻ってしまう。家のなかでそうしていたように。
ある残業の夜、わたしは大きなミスをした。
校正で見落としがあって、客先に納品したパンフレットの料金表が、三千円のところを三百円と印刷されていた。気づいたときには千部刷り終わっていた。
現場は騒然となり、上司に呼ばれ、客先への謝罪の段取りが話し合われた。
わたしのミスだった。わたしの、間違いだった。
間違いを見つけることだけが取り柄のわたしが、間違いを見落とした。
それは、わたしにとって、存在そのものを否定されるような出来事だった。
頭の芯が冷たくなって、母の声が鳴り始めた。
やっぱりあんたはだめね。可愛げもないし、気も利かないし、何の役にも立たない。手がかからないどころか、迷惑ばっかりかけて。
その夜、残業でひとり残った給湯室で、わたしは蛇口の水を流しながら、声を立てずに泣いた。
立花が入ってきたのは、そのときだった。
「あ、ごめん」
わたしは慌てて顔を背けた。
彼は出ていくと思った。
けれど、彼はマグカップを洗いながら、こっちを見ないまま言った。
「今日のあれ、印刷部の確認も二回スルーしてるんだよ。校正だけのミスじゃない。たまたま最後に判子押す欄が、あんたの名前だっただけ」
わたしは、何も言えなかった。それは慰めではなく、ただの事実だった。
「ミスした日にさ、いちばん腹立つのは、自分を責めてる自分なんだよね。ミスはもう終わったこと。あとは直すだけ。なのに自分を責めるのだけは、いつまでもやってられるからさ」
彼はマグカップを拭いて、「お疲れ」と片手をあげて出ていった。
わたしは、しばらく動けなかった。
彼の言葉は、わたしのなかの何かに、たしかに触れた。
けれど――それと同時に、わたしのなかで、別の声が立ち上がっていた。
なんで、この人は、こんなに優しいんだろう。
その優しさが、怖かった。




