No.2 環境
父は、いなかったわけではない。
むしろ、家には毎日帰ってきた。地方銀行に勤めていて、酒も飲まず、ギャンブルもせず、家にお金を入れる、いわゆる真面目な人だった。
だから余計に、外から見れば、わたしの家は何の問題もない普通の家庭だった。
ただ、父は、家のことに関心がなかった。
関心がない、というのが、いちばん近い。
父はリビングのソファに座って新聞を読み、夕飯を食べ、風呂に入り、寝た。
母が遥を可愛がり、わたしを軽んじるのを、父は見て見ぬふりをした。いや、見てすらいなかったのかもしれない。父にとって、家のなかのことは「女の領分」で、自分が口を出すことではなかった。
一度だけ、わたしは父に助けを求めようとしたことがある。中学二年のときだ。
母とひどい言い合いになって――言い合いといっても、わたしが一方的に責められていただけだが――わたしは泣きながら、新聞を読んでいる父のところへ行った。
「お父さん」
父は新聞から目を上げなかった。
「お母さんに、何か言ってよ」
父は、しばらく黙っていた。それから、ページをめくりながら、こう言った。
「お母さんを困らせるな」
それだけだった。
わたしが何に泣いているのかも聞かず、何があったのかも聞かず、父はただ、母を困らせるな、と言った。わたしが家の平穏を乱す側の人間なのだ、と。
あの瞬間、わたしのなかで、何かが静かに崩れた。この家に、わたしの味方はいない。
母はわたしを軽んじ、父はわたしに無関心で、遥は――遥は、ただ可愛がられて、何も知らない顔をして、母の隣に座っていた。
わたしは、その日から、家のなかで自分の感情を出すのをやめた。
泣かない。怒らない。欲しがらない。期待しない。波風を立てない。母の機嫌を、絶えず観察する。
今この言葉を言ったら不機嫌になる。今は黙っているべきだ。今お茶を出せば少しは見直されるかもしれない。今笑えば、場の空気が和らぐかもしれない。
わたしは、家のなかの空気を、呼吸をするみたいに読み続けた。
そうしているうちに、わたしは「気が利く、手のかからない子」になった。
母は、わたしのことを「あの子は何も手がかからないから」と、まるで誇るように人に話した。
手がかからない、というのは、放っておかれていた、ということなのに。




