アイアンモンキー
ロナンと握手してヌルヌルがついたままの手のひらを見た。
(この辺りに水なんてない。……いや、あるとすれば……)
俺の視線は、パーティ用の荷物を詰め込んだ大きなリュックを背負って立っているエリックへと移った。
俺は嫌々ながらため息をついた。
重い気持ちのまま、俺はぬるついた手のひらをそばの木の幹に押し当て、一度だけ拭った。
手の動きに沿って、濡れた跡が樹皮の上に残った。
俺たちは森を進み続けた。乾いた葉が足音の下でカサカサと鳴っていた。
頭上の木々の隙間から差し込む陽光が、金色の光となって地面に散らばり、葉がゆっくりと舞い落ちていた。
前では、リンがエリックの隣を歩いていた。
俺の隣で、キャシーは魔法使いの帽子をかぶり、先端にクリスタルがあしらわれた白銀の杖を背中にやや斜めに括り付けて、静かに歩いていた。
後ろではロナンが震えながら、両手で肘をこすっていた。
俺は前を歩くリンの背中をじっと見ていた。
彼女の腰の後ろには、長い短剣が二本、交差するように差されていた。
森の道のリズムに合わせるように、その身は軽やかでしなやかに揺れている。
長い黒髪が、一歩ごとにやわらかく揺れた。
ふと、昨夜エリックと交わした会話が脳裏に蘇る。
「勝率が五割を切ると、あいつはすぐ一人で逃げようとするんだ」そう言ってエリックは、後頭部をかきながら小さく苦笑した。
「だから、置いていかれないようにいつも叫んでるんだ。正直、逃げ足ならパーティーでリンが一番速い。」 と、まだ照れながら付け加えた。
「あっ!」キャシーは何かを思い出したように、顔の近くに指を当てた。
俺とエリックは彼女の方を見た。
「その時も、依頼中に多くに囲まれた時、リンは逃げようとしていましたよ」キャシーはそう言った。
彼女は左手を上げて右肘を触りながら、目を閉じた。
困ったような表情で首を少し傾げ、あの時のリンの反応を見事に真似した。
「みんなで死ぬくらいなら……せめて私だけでも生き残る。ごめんなさい……」
彼女はそう言って、その時の様子を大げさに再現した後、ゆっくりと目を開けて俺の方をちらりと見た。明らかに俺の反応をうかがっている。
「へえ……リンはそんなこと言ってたのか」俺は小さく言った。
下を向いて、口を押さえながら静かに笑った。
◆◆◆
俺はずっとリンの背中を見ていた。昨夜の会話はだんだん頭から消えていく。
目を細めて、鋭い目で彼女を見た。
(勝てないと判断すれば、すぐ仲間を捨てる。
しかも、自分が悪く見えないように言い訳まで用意している。
罪悪感もない……おおお〜……この女……)
俺は目を細めたまま、じっと見据えていた。
やがて、口元の端からわずかに舌を動かし、ゆっくりと反対側へとなぞる。
まるで何かを味わうかのように。
(…傑作)
——リンは突然、体の芯を貫かれたような冷気に襲われ、びくりと震えた。
反射的に、小さく可愛らしい悲鳴を漏らす。
両腕を抱きしめるようにして、その冷たさを振り払おうとしたが、顔は強張り、不安がはっきりと浮かんでいた。
彼女は顔は動かさないまま、視線だけを左へと滑らせた。
その視線は、後ろを歩く俺へと向けられていた。
『 なにこの感じ…?体中舐められてるみたい…
…あいつ、私のこと何考えてんの? 』
「エリック」後ろからロナンが声をかけた。
「なんだ?」エリックは歩みを止めずに答える。
「昨日、どうやってロックホーンを倒したんだ?」ロナンは尋ねた。
「――っ!?」 キャシーはその質問に、目に見えて驚いた様子を見せた。
「ロナンもその場にいましたよね?どうして忘れたの?」と彼女は尋ねる。
「ごめんね。ロックホーンの攻撃を避けてるときに、死んだふりして……そのまま本当に寝ちゃった」ロナンは悪びれもなく答えた。
その返答を聞いて、俺はゆっくりとうなずくことしかできなかった。どこか誇らしさすら感じながら。
「たぶん、リンの攻撃を受けたあと、限界を超えて……そのまま爆発したんだろ。あははは」エリックはそう言った。
「大げさだよ、エリック」とリンは言った。
「ノイトラマ、体はまだ痛いですか?」 とキャシーが、心配そうな顔で俺の方を見ながら聞いた。
エリックも振り返って俺を見た。
「俺も気になる。ROCK HORNの直撃を受けたのに、どうしてそんなに平気だ?かすり傷一つ、骨折すらないなんて」
エリックは疑いの色を帯びた声で尋ねた。
「あるいは。あんた、本当は『Sランク』のハンターなんじゃないのか」 リンは小さく鼻で笑った。
『なんちゃって。ミニバニーごときに負けたくせに』 《 MINI BUNNY 》
リンの言葉を聞いて、全員の表情が驚きに変わった。俺以外は。
「……本当にお前はSランクハンターなのか?!」 エリック
(なんて言えばいい……こうなると知っていれば、せめて自分の骨の一本や二本、へし折っておくべきだったな。)
俺は無表情のまま考えていた。
「ノイトラマがSランクなはずがない!」とロナンが叫んだ。
皆、驚いて固まった。足を止め、ロナンをじっと見つめた。
「ノイトラマのマナオーラは僕とほとんど同じだ。攻撃力も防御力も僕とあんまり変わらない。」ロナンが言った。
「……」
誰も何も言わず、空気が静かになった。
「次の狩りで証明する。ロックホーンの攻撃を受けても、ぼくは平気だ」ロナンが言った。
エリックは右手で顔を隠した。もう見ていられない様子だった。
「いや…やめてくれ。頼む…お前自身のためだ」エリックは恥ずかしそうに言った。
「お前の言う通りだ、ロン……」俺は少し目を潤ませながら言った。
「なんでそんな、悲しいもの見てるみたいな顔してるんだ……やめてくれ」
ロナンは気まずそうに言った。
俺たちはまた歩き出した。
突然リンが止まり、右肘を上げて全員に止まれと合図した。
「あっ……!」止まったリンの後頭部に俺の頭がぶつかり、彼女が少し前に倒れそうになった。
リンはすぐに後頭部を押さえて顔をしかめた。
「ごめん、なぜ急に止まったんだ?」俺は額を押さえて聞いた。
リンはまだ少し前かがみのまま、こちらを振り向いた。
その目は痛みではなく、恥ずかしさで潤んでいる。
「魔物に囲まれてるのよ、このバカ!」彼女は声を荒げた。
「囲まれてる?」俺は言葉を返した。
(マナオラの波導で伝わるね。あらゆる方角から、何かが急速に接近している。
……ヴェドラの森じゃ、普段なら一顧だにしない羽虫に過ぎないのだが。
え?!囲まれてる?)
俺の表情が真剣になった。
(このパーティーで楽しむなら、すぐに慣れる必要がある!)
リンは俺を見つめた。
【 MANA VISION 】
彼女の視線の先、俺の頭上に数字が浮かんでいた。3700。それは青い炎のように揺れている。
『ほんとだ。こいつのマナオーラ、ロナンとほとんど同じだ。
ミニバニーに負けたと決めつけていたのは早計だったか?
それともミニバニーに囲ま れていた? いや……今はそんなことどうでもいい。
まずはパーティーの命を守る』
エリックは背負っていたパーティー用の荷物袋を十メートルほど遠くへ投げ捨てた。
すぐに鉄の兜をかぶり、背中から銀の盾と剣を抜いた。
そして静かに一歩前へ出た。
左手に盾、右手に剣を構え、いつでも対応できる姿勢を取る。
「リン、数は?」
エリックはそう問いかけたまま、他の者たちが緊張した沈黙の中で立ち尽くす中、淡々と前へ進み続けた。俺以外は。
ぶつかって前かがみになっていたリンは、ゆっくり立ち直る。目を閉じて集中した。
「五……七……」
リンはゆっくりと目を開いた。
「十一だ」
——バキッ! バキッ! バキッ!
黒い鉄の足が木の枝に乗る音が森に響いた。枝が何本も重みでパキパキ折れた。
サルの魔物は、大人と同じくらいの大きさだ。
一匹ずつ、逃げ場をなくすように四方から囲んできた。
黒い鉄の手が木の幹をギチギチと握りしめ、木がバリバリ割れる音が響いた。
「キキッ!キキッ!キキッ!キキッ!」
頭上から、鋭く怒りを含んだ猿のような鳴き声が響き渡り、鉄の猿たちがこちらを睨みつけていた。
「そ、そいつらは……アイアンモンキーだ!《 IRON MONKEY》」ロナンはわずかに声を震わせながら叫んだ。
魔物たちは濃い深紅の毛に覆われていた。
朝日を受けて、手首と手のひら、そして足の金属が冷たく光り、危険な雰囲気を漂わせていた。
さらに、その猿の体は鉄に覆われておらず、濃い赤色の毛に包まれていた。
「あまりにも多すぎます…」 とキャシーが不安そうに呟き、杖をより強く握りしめた。
俺は一匹ずつ魔物を観察した。青い炎が見える。魔物たちの頭上には、1000〜1200の数字が浮かんでいた。
(一体一なら大したことはない……だが、この数はさすがにこのパーティーじゃきついな。
いいだろう、俺の『弱者』の奥義を披露してやろう)
俺はマモノたちの動きを注意深く観察しながら考え続けていた。
「慌てるな!全員、陣形を取れ!」
エリックの鋭い叫びが、数メートル先で背中を向けて立つ彼から響いた。
(陣形…)
耳にはまだ鉄猿たちの叫び声が響いていた。《 IRON MONKEY 》
木々の葉は彼らの荒々しい動きに巻き込まれ、無秩序に舞い落ちていく。
朝の風が吹き抜け、俺の髪を軽く揺らした。
俺は真剣な表情で前方を見据える。
(陣形ってなに?)




