暗殺者の不安
同じ夜、 カノン・アークのスキャンダルの後。
シルヴァは首都『ATLANZ』の門近くにある建物の上に直立していた。
その目は眼下の通りを静かに見つめている。
この高さからなら、建物と建物の隙間、あらゆる隅々までも見渡せる。
門を行き交う人々の姿は、すでにまばらになっていた。
残っているのはほんの一握り。おそらく帰りの遅い商人か、任務から戻ってきたばかりのハンターたちだろう。
「遅かったみたいだな…
あいつ、どんな依頼を受けたんだ……
さっきフィナに会って、直接聞けばよかったな。 」
シルヴァは小さく呟いた。
彼女は深く息を吐いた。
手には、すでに形を失った金色の封筒が握られている。
その封筒を、虚ろな目でしばらく見つめた。
「…まあいい、まずは依頼を終わらせよう……か」
シルヴァが立ち去ろうとしたその時、下の方から甲高い悲鳴が夜を切り裂いた。
「泥棒だ! 捕まえろ! バッグを盗まれた!」
遠くで、顔を隠した男が細い道を全力で走ってくる。数少ない露店の間をすり抜けながら。
静かだった街が急に騒がしくなった。急いだ足音と、人々の怒鳴り声が聞こえ始める。
シルヴァは振り向かない。視線はまだ封筒に落ちたまま。
表情は変わらないが、 耳は建物の壁に反射した音から、泥棒の正確な位置を捉えていた。
ゆっくりと指先が腰へと動く。
彼女は鉛筆ほどの大きさの黒い針を引き抜いた。両端が鋭く、殺傷能力を持つ。
視線を金色の封筒から外すことなく、手首を弾く。
シュン―……
その武器は月明かりに光る稲妻みたいな速さで空を切り、遠くへ飛んでいった。
針は狭い路地へと入り込み、建物の間に張り巡らされた鉄の隙間をすり抜けていく。
ドンッ! 金属製のゴミ箱を貫き、その中身が空中へと弾け飛んだ。
だが、針は止まらない。そして――
ザクッ!
「アアアァァァッ!!」
その針は泥棒の脚を正確に貫き、彼を石床に強く倒れさせた。
男は苦痛にうめきながら、瞬時に動かなくなった足を押さえた。
衛兵たちがすぐに、その無力な男を取り囲んだ。
「…………」
シルヴァは静かに門から離れて歩き出した。
数歩進んだところで、不意に足を止める。
「もしも、NOITRAMAがロックホーンに殺されていたら……
それとも、鉄猿に囲まれていたら……?」
彼女の手は反射的に口を覆った。
普段は冷静なその顔が、黒い仮面の下で青ざめていく。
悪しき影が頭の中を埋め尽くし始める。
黒髪の青年の姿が、無力に倒れ込み、凶暴な魔物たちに囲まれていた。
「助けなきゃ!」
足元がふらつき、 次の瞬間には膝が急に力を失って、その場に崩れ落ちた。
「くそ……あいつが今どこにいるのかも分からねえ……」
左手で顔の横を押さえた。
呼吸が乱れ始める。
「落ち着け……落ち着け……」
深く息を吸い込んだ。
「私はただ、楽しみを減らしたくないだけ……それだけだ。
依頼が終わったら……あいつを探す。
そして、助ける」
ゆっくりと、シルヴァは立ち上がった。
体はまっすぐに戻り、視線も研ぎ澄まされる。
「依頼が先だ。感情は後。」
ヒュッ――。
一瞬で、その場から姿が消えた。足元には、わずかに砂埃が舞い上がる。
◆◆◆
豪華な貴族の屋敷の正面門の前で、二人の衛兵がキラキラ光る槍をクロスさせて警戒していた。
木の陰の暗がりから、シルヴァが衛兵たちに向かって歩き出した。
一歩ずつ闇から現れて、月明かりが彼女を照らし出した。
「止まれ! 誰だ?!」
シルヴァは答えない。
ただ、ゴミのようにくしゃくしゃになった金色の封筒を、兵士の一人に投げつけた。
兵士はそれを受け取って、不思議そうに封筒の中を確認した。
バスモントの紋章が手紙にあった。
「失礼しました。」
兵士の声が急に低くなった。
「どうぞお入りください。ロジャー様がお待ちです。」《 ROGER 》
黒いきれいなスーツを着た中年の執事が、ロジャー・バスモントを迎えに近づいた。
「ロジャー様、あの方は到着されました」
「通してくれ、モリス。」 《 MORRIS 》
シルヴァの前で、巨大で豪華な屋敷の扉が開いた。年の近い若い少女が嬉しそうにシルヴァの手を掴む。
その少女はリリー。貴族ロジャー・バス・モントの娘だ。《 LILY 》
シルヴァは豪華なソファに深く腰を下ろし、リリーの父、ロジャーと真っ向から向き合った。
二人の間には、重厚な木製のテーブルが静かに横たわり、部屋の沈黙を際立たせていた。
「ついにリリーを鍛えてくれる気になったのか?」ロジャー
「気が変わった…だが、三日しか付き合わない」 シルヴァが答えた。
「はははは。」
ロジャーは真剣な表情になった。
「もうすぐリリーがクリムゾンアカデミーのアサシンクラスの適性試験を受ける。
どう思う?合格できるか?」
シルヴァは視線を横にずらし、隣に座るリリーへ向けた。
その少女は、期待に満ちた瞳で彼を見つめている。
「できる。私はすぐに訓練を始めたい
今夜、リリーを東の森に連れていく。構わないか? 」
ロジャーは一つ頷いて同意した。
しかし、彼は数名の護衛に合図を送り、準備をさせた。
彼らはリリーを目的地まで送り届け、その後モリスが三日后に迎えに行く。
訓練の邪魔はしないという取り決めだった。
ロジャーとモリスが彼らの見送りを終えると、ロジャーは長いため息をついた。
「リリーがSランクハンターになれれば、 この家の未来も少しは良くなるんだがな…」
『ATLANZ』王国では 、貴族の血筋が人の価値を決めるわけではない。
物を言うのは力だ。
Sランクハンターのような頂点に立つ者こそが、本当に尊敬され、恐れられている。
この法は理由もなく生まれたわけではない。
300年前に起きたある暗い出来事をきっかけに、歴代の王と女王が代々その掟を定めてきた。
今もなお、その掟は現在のアトランツ女王、フェリシア・アストレアによって守り続けられている。 《 FELICIA ASTREA 》
300年前…その日、王国は一瞬で崩壊した。
前触れもなく、警告もなく。
民は虐殺され、王アトランツも一時間も経たずに討たれた。
すべて、たった一人の手によって。
原因は戦争ではない。権力争いでもない。
その理由は単純だ。単純すぎて、受け入れがたいほどに。
ただ…退屈。
たった一人の女王による……退屈。
ヴィオナ・エスティア《 VIONA ESTIA 》。ヴェドラ王国を支配する女王…闇魔道士。
その退屈さは、彼女の心に穴を穿っていた。今や“女王”は、ヴェドラの森で眠る、ただの空虚に過ぎない。
「わたしを殺せるなら……殺して…」
それが女王からの最後のメッセージだった。
だが……誰にも彼女を殺すことはできなかった。
殺すどころか、かつて栄えていた王国は今や荒れ果て、凶暴な魔物たちが互いに殺し合う森と化していた。
その森は今、「ヴェドラの森」と呼ばれている。
だからこそ、アトランツの祖王はハンターのランク制度による戦力強化を最優先とした。第二の悲劇を防ぐために――
……女王ヴィオナ・エスティアの覚醒を。
ヴェドラの女王の復活による混乱を防ぐため、その真実はアトランツ王家にのみ知らされていた。
伝えたのは、ヴェドラ王国の一人の英雄 ―《 CARLOS ZIGURD》。
崩壊が王国アトランツのすべての命を飲み込もうとしていたその瞬間、狂気に堕ちた女王を止めたのが彼だった。
一方で、一般の人々にとってこの話は、ただの寝物語に過ぎない。
◆◆◆
揺れる馬車の中で、シルヴァはソファに座り、リリーと向かい合っていた。
ランタンの光が車内を照らし、互いの顔をはっきりと浮かび上がらせる。
「なぜ私と同じ格好しているの?」シルヴァはリリーの服を上から下まで眺めた。
リリーはすぐに俯き、頬を赤らめる。
膝の上で指を絡め、落ち着かない様子だった。
「だ、大丈夫です……」
リリーの服装は全身黒で、黒いマスクまで着けている。シルヴァのものとよく似ていた。
ただし、リリーの刀は腰に差してあり、シルヴァのものは背中に収められている。
髪も違う。黒い波打つ髪は貴族の娘らしく、シルヴァのように真っ直ぐ下ろした髪とは対照的だった。
リリーがシルヴァに憧れているのは明らかだった。
そして、自分もそうなりたいと思っている。
そして今、シルヴァとリリーは、俺がゴブリンを探している東の森へ向かっている。




