ロイ・エスカプリオ【ROY ESCAPRIO】
夜。
一台の豪華な馬車がゆっくりと進み……そして、そびえ立つ華麗な貴族の屋敷の門前で静かに止まった。
門の向こうでは、白い制服を綺麗に着こなした何十人ものメイドたちが整然と列をなしている。
彼女たちは背筋を伸ばし、主人の帰りを迎える準備を整えていた。
若いメイドの一人が馬車の扉を開け、恭しく頭を下げる。
ロナンが豪華な馬車から降り立った。
それと同時に、目の前の巨大な正門がゆっくりと開いていく。
門の左右に並んでいたメイドたちが、一斉に頭を下げて彼を迎えた。
「お待ちしておりました、ロイ・エスカプリオ様」
メイドたちの声が美しく重なる。
開かれた門の前で、ロナンは足を止め、満天の星空をしばし見上げた。
『アイアンモンキーにやられた後、エリックは今たぶん教会で治療を受けているだろう……可哀想だな』
ロナンは、エリックがアイアンモンキーに抵抗する術もなく叩きのめされた姿を一瞬、思い浮かべた。
《『みんなが僕を見ているよ〜……見てる見てる…』》
ロナンはまっすぐ前を見据え、余裕の笑みを浮かべながら、悠然と門の中へと歩みを進めた。
『外から見るエリックはいつも強く、そして毅然としている。だが今、その内側では、体を襲う激しい痛みに耐えているだろう。
彼もポコたちと大して変わらない、ただのCランクハンターにすぎない。』
ロナンが一歩踏み出すたびに、体は粘液のように溶け始め、地面へと滴り落ちながら熱い蒸気を上げていた。
「あの時、俺は彼を助けようとした……」
耳の後ろの膜が融解していく。
溶けゆく粘液の奥から、紅いクリスタルのイヤリングがゆっくりとその姿を現し、遮るもののなくなった耳元でゆらりと揺れた。
頭を覆っていた縮れ毛も、根元からドロドロと溶け始めていく。
偽りの髪はついに剥がれ落ちて地面へ転がり、その下から、淡い水色の美しい地毛が露わになった。
「まさか彼が俺の魔法の炎を踏みつけるとは思わなかったんだ」
粘液が溶ければ溶けるほど、ロナンの体はその形を変えていく。
これまで周囲に見せていた肥満体の姿は、すべて偽装に過ぎなかったのだ。
現れたのは、引き締まった、無駄のないプロポーション。
先ほどまで着ていた服が、今ではすっかりぶかぶかになっている。
正面から見たその容姿は、淡い水色の髪に、どこか虚ろな、しかし人を惹きつける冷徹な眼差しを宿した美青年だった。
顔の上には、まだかすかに粘液の湯気が揺らめいている。
「俺はまだ、弱い者の考え方には慣れない……」
この姿こそが、彼——ロイ・エスカプリオ。《 ROY ESCAPRIO 》
広大な貴族の屋敷の中庭、その中央には壮麗な噴水がそびえ立っていた。
噴水の中心に鎮座するのは、短い杖を劇的に掲げ、まるで天才魔術師としての栄光を誇示するかのようなポーズをとった、彼自身の彫像だ。
……その彫像の足元、台座となる天然石には、こう刻まれていた。
Roy Escaprio
_________________
The Art of Magic
「もし彼を失えば、俺の芸術を楽しむ者を一人失うことになる。それだけは、ごめんだ。」
ロイは歩みを進め、そして足を止めた……。ゆっくりと顔を上げ、その彫像を見上げる。
彫像の顔には、自信に満ちあふれた笑みが浮かんでいた。
「俺が芸術家なら……弱い者に合わせるのに早く慣れなければならない」
像の浮かべるその笑みの向こう側で、ロイの脳裏に、かつての記憶が、静かに蘇り始めていた。
◇
青い気品ある貴族の服を完璧に着こなし、片方の耳には紅いクリスタルのイヤリングが怪しく輝いている。
その姿からは、圧倒的な威厳と、揺るぎない自信が満ちあふれていた。
広々とした大広間の中、ロイは大勢の群衆の前に立っていた。
そこには、彼の解説を一言も聞き漏らすまいと、名だたる魔術師、貴族、そしてハンターたちが集結している。
ロイは今、自らが創り出した魔法の成果を世に発表しているところだった。
彼の背後にある巨大な黒板には、彼が独自に編み出したオリジナルの魔術式がびっしりと書き込まれている。
ロイは黒板を指さし、堂々とした声で言い放った。
「これは『スリップ』の魔法だ!アサシン?もう終わりだ!唯一の強みである『魔法使いに近づく力』は完全に消える!」
目の当たりにした観衆は、ただただ驚嘆するしかなかった。
「本当に革命的だ……」
「天才だ……君は本当に天才だ」
「歴史を目撃しているとは思わなかった……」
◇
……場面は変わり、昼下がりの広大な草原。
キャンバスの前に座るロイは、機嫌よさそうに鼻歌を口ずさみながら、その時の高揚した感情を表現するように、絵筆で鮮やかな黄色の抽象画を描いていた。
「今日は褒められた日だな……」
_____
ロイは決して腕のいい画家ではない。
彼の絵は雑で、まるで子どもの落書きのように見える。
だが、それが彼なりに感情をキャンバスへぶつけるやり方だった。
キャンバスには、色とりどりの絵の具が無数に飛び散っている。
_____
翌日。
ロイは再び、新たな魔術の成果を発表していた。その手には、白い缶が握られている。
「これが、髪の色を変化させる魔法が付与された液体だ。これからはアサシンに潜入を頼る必要はない。
これを使えば、誰でも正体を隠して侵入できる!」
目の前の観衆は、またしても驚嘆の声を上げた。
「素晴らしい!!!」
「あんた天才だな、本当に天才だ!」
◇
……キャンバスの上に、絵筆でオレンジ色の抽象的な線が描き殴られていく。
『今日も褒められた日だな』
◇
また、その翌日。
ロイは大勢の群衆を前に、三度目となる魔術発表を行っていた。彼が指さしているのは、トイレの絵が描かれた黒板だ。
「この魔法は、アサシンがトイレを覗くことさえできなくするものだ……これで……」
ロイが最後まで言い切る前に、観衆は早くも熱狂的な歓声を上げる。
「すごい……傑作だ」
「反エロ魔法か、これは絶対に売れるぞ!」
歓声に包まれる中、ロイは奇妙な違和感を覚え、怪訝そうに人々を見つめた。
「また褒められてる……?」
ぽつりと漏らした声には、戸惑いが混じっていた。
……キャンバスへ、赤色の不規則な一本の線が、絵筆によってまっすぐ引き裂くように刻まれる。
◇
そして、その翌日。彼はまたしても新たな魔術を発表していた。
「これが……!」
彼が言葉を紡ぎ始めた瞬間、遮るようにして、人々は一斉に賞賛を浴びせかけた。
「素晴らしい!公共のトイレを作り出すほどの発想だ!」
「あなたは天才だ!これなら増税されても誰も文句を言わないだろう!」
「……また褒められている」
……絵筆がキャンバスをなぞり、暗い赤色の、乱れた直線が一本だけ残される。ただ横へと、一振りされただけの拒絶の跡だった。
翌日。
「これが……」
ロイの声は平坦で、虚ろな目のまま手はだらりと板を指している。
「すごい……! これこそが最高傑作ですよ!」
◇
……ロイは、うつろな目でキャンバスを見つめていた。
「……また褒められていた……」
絵筆が走る。そこに残されたのは、以前よりもさらに濁った、暗黒に近い濃赤色の太く乱れた直線だった。
◇
その翌日。
「これが……」
消え入りそうな声で、ロイは呟く。
「あなたは本当にとんでもない天才だ!」
「一目見ただけで分かりましたよ!」
◇
夜。
広大な草原。
うつろな瞳のまま、ロイは静かにキャンバスを見つめ続けていた。
その目の下には色濃い隈が刻まれており。、彼がもう長い間、まともな眠りにつけていないことを物語っている。
彼らの浴びせてきた賞賛の言葉が、泥のように混ざり合い、今も頭の中で不快に響き渡っていた。
《『すごい!』『素晴らしい!』『あなたは天才だ……』 》
……ロイの手は定規を握り、それをキャンバスへと強く押しつける。
『……また褒められていた……』
……やがて、黒いインクを含んだ筆先で、細く歪んだ直線を引く。
まっすぐなはずの線はわずかに乱れ、ところどころでインクが滲み、
まるで涙のようにキャンバスの上を伝い落ちていった。
「批判もない。侮辱もない。反論もない……」
ロイは、キャンバスにある哀れな線をじっと見ていた。
「今の俺には……これしかない。 他に色はない。」
キャンバスの前で、ロイは座っていた椅子からゆっくりと腰を上げた。
見渡す限りの広大な草原。
風が吹き、草とロイの服や髪を揺らした。
彼は夜空を見上げる。
「俺は……本当に芸術家だったのだろうか……」
指先から力が抜け、黒いインクに染まった筆が、地面へと力なく落ちていった。
◆◆◆◆◆◆
ある日の昼下がり、研究成果の発表を終えた後、ロイは豪華な建物の二階のテラスに一人で立っていた。
彼の背後では、まだパーティーや歓談が続いていた。
彼に向けられた賞賛の声が、少しずつ遠ざかりながらも、室内から響き続けている。
ロイは片手で頬杖をつき、お腹ほどの高さの柵に肘を預けて、ただじっと下を見つめていた。
そこへ、ロイの筆頭メイドが傍らに歩み寄ってきた。
紫色の髪を一つに結んだ、引き締まった体躯の26歳の女性。黒い衣服を端正に着こなした彼女の名は、イザベル。
彼女はロイを見つめた。
「ロイ様、さっきの魔法すごかったよ。私はアサシンだけど、標的に印をつけたものなら自由に呼び出せるんだ。
この魔法の名前、なんていうの?」
ロイは黙ったままだ。
すると、イザベルはロイの横で手をひらひらと振った。
「もしもし……ロイ様、おい〜」
眼下を見下ろすと、4人の貴族の子供たちが話をしながら歩いているのが見えた。男の子が3人と、女の子が1人。
そのうちの男の子の1人が、足をもつれさせて転んでしまい……そして泣き出した。
「ハハハ!弱いな!」
男の子の1人がそれを見て、大声を上げてあざ笑う。
「何がそんなにおかしいの? あなたが同じ立場でも笑えるの?」
……女の子の1人が、笑った男の子を厳しく叱りつけた。
「大丈夫? ほら、立って」
もう1人の男の子が、転んだ子に手を差し伸べて助け起こす。
それを見たロイの目が、何かに気づいたように大きく見開かれた。
「そうか!弱さがあったからこそ、あれほど多くの色が生まれたのか」
ロイの脳裏に、あざ笑った子供の姿が、白と薄い黒だけで描かれたキャンバスのように浮かぶ……。
……そして、紫のインクをたっぷりと含んだ筆が、荒々しく引かれた。
その不規則な一太刀は、キャンバスの上に激しいインクのしぶきを撒き散らす。
「紫!」
ロイは次に、叱りつけた女の子の姿をキャンバスの絵のように思い浮かべ、そして……。
……赤いインクを含んだ筆が、荒々しく引かれた。その残した軌跡はひどく乱れている。
「赤!」
ロイは最後に、助け起こした男の子の姿をキャンバスの絵のように思い浮かべ、そして……。
……青いインクを含んだ筆が、荒々しく引かれた。
「青!」
時間がゆっくりと流れるように感じた。
キャンバスの前で、色とりどりのインクが宙に浮かび、ロイの身体を囲むようにして旋回していた。
右手に絵筆を握った彼は、椅子に腰掛けたまま、自らの作品をじっと見つめている。
その顔には狂気的な笑みが大きく広がっており、見開かれた両の瞳は、鋭くギラギラとした光を放っていた。
『素晴らしい芸術だ……その傑作が欲しい!』
◇
豪華な室内。大きな鏡の前で、ロイはロナンの姿へと変装し、自身の姿を映し出していた。
「ロイ様、それはさすがに……」
イザベルが呆れたように声を漏らす。
ロイはロナンの偽装された顔の肉厚な頬を、人差し指でぐっと押し込んだ。ぷにぷにと、いかにも肉々しい弾力がいびつに跳ね返る。
「安心しろ、ただの水魔法だ」
イザベルは、完全にロナンへと成り果てたロイの姿を、心底ゴミを見るかのような冷ややかな視線で見つめた。
『あぁ〜……その視線……』
ロイの脳裏のキャンバスに、荒々しく、しかし鮮烈なピンク色のインクが叩きつけられる。
『恥ずかしい〜』
◇
——アトランツの街で、ロイがロナンというハンターに変装していたとき、ギルドの中でポコと出会った。
「よ!デブ!俺はポコ、パーティー『THE ANGEL WING』のリーダーだ!一緒に来ようぜ!」
その後……。
ロナンは崖っぷちで今にも奈落へと落ちそうになりながら、両手だけで辛うじて崖の縁にしがみついていた。
「助けてよ!」
ポコはロナンの片手を掴みながら、小馬鹿にしたようなニヤニヤ顔を浮かべる。
「助けてほしいのか?どうしようかな……どうしようかな〜……ふふっ」
「ひぃっ……」
ロナンは恐怖に身を震わせた。
……その瞬間、キャンバスにどす黒い漆黒のインクが荒く塗り潰される。
『黒!』
◇
そして、後日のこと……。
ギルドのテーブル席で、エリック、キャシー、リンの3人が、まるで誰かを待ち侘びているかのように退屈そうに座り込んでいるのを、ロナンは見つけた。
「僕はロナン。Cランクの魔導師だ。君たちが新しい仲間を探していると聞いたが、僕も参加できるかな?」
『新たな観客が到着した!!!』
エリックは鋭い視線をロナンに向けながら、心の中でそう呟いた。
『これが新しい従者でしょうか?可愛いですね』
キャシーは愛用の魔術杖を愛おしそうに撫でながら、品定めするように考えた。
『ようやく……私の新しいおもちゃが一つ増えた』
リンは、口元を片手で隠しながら、妖艶に、そして大きく唇を歪めて笑った。
◇
彼らが依頼を進め、森の中を歩いていた時のこと。ロナンはパーティーの大きなバッグを持っている。
ぱちん! ……後ろから、リンがロナンの片方のお尻を思いきり叩き、ロナンは驚いて飛び上がった。
「早く歩け、デブ!」と、リンは楽しそうに言った。
前を歩いていたエリックが振り返り、リンを見つめる。
「デブじゃなくて、ロナンの名前だ。リン」
「はいはい」リンは手をひらひらと振りながら、素っ気なく返事をした。
キャシーがロナンを見つめる。
「ぶたそっくりですね」そう言って、彼女は微笑んだ。
◇
夜。
広大な草原の上で、ロイはキャンバスの前に座っていた。
その手に握られた絵筆は迷うことなく動き、荒々しく、しかし生命力に満ちた動きで縦横無尽にキャンバスを駆けていく。
彼は黒い絵の具を荒々しく塗りつける。
「絶望!」
彼は赤い絵の具を荒々しく走らせ、黒い色の上に重ねていく。
「怒り!」
彼は青い絵の具を荒々しく走らせ、他の色と衝突させる。
「優しさ!」
彼はさらに、紫の絵の具を塗りつける。
「侮辱!」
彼はピンクの絵の具を走らせる。
「恥!」
ロイはゆっくりと、キャンバスの傍らに筆とインクを置いた……。
……そして、深く息を吐き出しながら、救われたような晴れやかな気持ちで立ち上がる。
両腕をゆっくりと広げ、手のひらを天へと向けた。彼は月を見上げる。
「これが今の俺の感情だ……まさに真の芸術」
そこにある絵は、まるで子供がなぐり描きしたようなただの絵の具の塊であり、キャンバスの上には色とりどりのインクが激しく飛び散っていた。
◆◆◆
今。
ロイの記憶が徐々に消え、意識が戻った。
微笑んでいる彫像を見つめた後、ロイは自分の豪邸の中へと歩み入った。
「ふっ…芸術家の道に限界など存在しない。」
◆◆◆《番外編 》◆◆◆
豪華な部屋の中、ロイは服の裏側に手を差し入れた。
そして余裕のある仕草で、少し息苦しさを感じていた首元の襟を緩め、わずかに着崩した。
ロイは、気品ある青い貴族の服を完璧に着こなした、水色の髪の男だ。
ただ首元の襟だけが少し開かれており、どこか気だるげで、それでいて野性味のある印象を与えている。
彼の右耳には、存在感を放つ紅いクリスタルのイヤリングがぶら下がっていた。
上の階の豪華な廊下をロイが歩いていると、間もなく、筆頭メイドが微かな残像を一瞬だけ残して忽然と姿を現した……
……彼女はすでに、ロイの隣を並んで歩いている。
その筆頭メイドは、長い紫色の髪を一つに結んだ若い女性で、端正な黒い制服を身にまとっていた。
腰には刀を帯びている。
名前:イザベル(26)《 ISABEL 》
ランク:A+ アサシン
筆頭メイド:エスカプリオ家
「おかえり、ロイ様。貴族とか王国からの招待状、まだどんどん来てるよ。
全部、遊びに行ってる間に返事待ちのまま。どうする?」
「すべて捨てろ。」
イザベルはため息をついた。
「やっぱりね〜、その答えだと思っていましたよ。 」
歩きながら、ロイは自邸の庭の景色を見下ろしていた。上階から。
数十人のメイドたちが忙しく働いているのが見える。
庭の手入れをし、通路を掃除し、屋敷のさまざまな用事をこなしていた。
「イザベル、昔男の使用人も雇うように言ったよな?どうしてここには一人もいないんだ?」
「まあね、まだ結婚してないでしょ?
ご両親が残したルールで、結婚するまではここの使用人は全員女性って決まってるの。
それで、あなたのちょっとした“よこしまな欲望”を刺激して、
早く相手を見つけて結婚させようっていう狙いみたいのです」
イザベルが気軽に言った。
「またその話かよ……何回聞かされたと思ってるんだ。
いい加減うんざりする。俺はもう当主なんだぞ。」
ロイは苛立っていた
「いや、実はこの案、女王様も支持してるの……まるで……」
「早く天才の子どもをたくさん作ってください、天才さん…ってことだろ?」
ロイはイザベルを横目で見ながら言った。
イザベルは顔をそむけ、反射的に口元を押さえた。
「ぷっ……ふふふ……そ、そうですね」
笑いをこらえきれず、肩が小刻みに震えている。
ロイはため息をついた。
そしてイザベルへと視線を向ける。
【 MANA VISION 】
彼の目には、イザベルの頭上で揺らめく青い炎が見えていた。
笑いを必死にこらえているその上に、数字は36,000と浮かんでいる。
「お前は相変わらずだな、イザベル。」
「ごめん、ごめん、ロイ様……」
イザベルは笑いを堪えきれずに浮かんだ涙を拭った。
落ち着こうと必死だったが、それでも肩はまだ小さく震えていた。
「……でしたら、アクセリアのレイナ・フロスト様などいかがでしょう。
Sランクなのに美人で有名だし。
あなた様とは……結構お似合いだと思うけど?」
「昔、一度だけ彼女に会ったんだ。
目を見た瞬間に分かった。理由は分からないが……どこかキャシーに似ている。
簡単に言えば、毒の花みたいな奴だ。
周りの人間を、いつでも切り捨てられる歩くゴミくらいにしか思ってない。
綺麗な花ほど、触れた時の代償が大きい。」
ロイとイザベルは階段を降りていた。
「……」
「なるほどね……噂じゃ、レイナにプロポーズした貴族がたくさんいてさ、数週間後には必ず死んだって
知らせが届くらしい。
もし二人が毒花みたいなものなら、どうしてあなたはキャシーと友達なんですか?」
ロイは前庭を歩いていた。
「言いたいのは、性格は似ていても、レイナとキャシーは違うってことだ。
レイナは一瞬でお前を殺せる。でもキャシーは、お前を傷つけるのに3年かかる。
キャシーだけじゃない。リンもエリックも、俺の芸術を楽しむ者だ。
たとえ弱くても、俺は彼らを失ってはいけないんだ。よく覚えておけ。」
「わかりました、ちゃんと覚えておきます。」
イザベルは可愛らしく、額の近くで手のひらを添えて礼をした。
ロイは歩みを止めた。
「ところで、俺がいない間に何か問題はあったか?」ロイは言った。
「一週間前にね、うちの輸送キャラバンが、ある貴族の屋敷へ配達中に魔物に襲われたんだ」
イザベルは真剣な表情でロイを見つめた。
「調査の結果、犯人はレッドウルフの群れだった。
奴らはその近くにあった村の住民も皆殺しにしている」
ロイの顔は平然としたままだ。
(なるほど、そういうことか)
ロイは馬車に向かって歩みを進め、その隣をイザベルが従う。
一人のメイドが彼らを迎え、敬意を込めて馬車の扉を開けた。
『レッドウルフ一体のマナオーラは約一万七千……イザベル一人なら同時に四〜七体が限界だろう。
それ以上は厳しいはずだ。だからこそ……』
走り出した馬車の中、ロイとイザベルは向かい合って座っていた。
「王国から、ロイ様にSランクハンターとの合同作戦に参加してほしいって依頼が来たの。
調査したら、そのレッドウルフの群れ、五十体以上いるって分かったんだ」
窓の外を見つめながら、ロイは窓際に頬杖をついて呟いた。
『…やはり、思った通りだな』
「ねえ、ロイ様、これからどこへ行くんですか?」
「犬狩りだ」
「えっ!?」
イザベルは目を見開いて驚いた。
_____________
森の中、馬車が進み、そして止まった。
ロイとイザベルは馬車を降り、しばらく森の中を歩き進んで、広大な草原へと出た。
イザベルはロイの右隣を歩いている。
二人は、森の高く切り立った崖の縁で足を止めた。
眼下には、深い森がどこまでも広大に広がっている。
「見ろ、イザベル。レッドウルフは一週間前に襲撃してきた。
なら今頃はもう巣に戻っているはずだ」
ロイは眼下の森を見つめた。
「この辺りにはレッドウルフの生息地が多い」
「さすが天才様ですね。」
イザベルは微笑みながら拍手した。
ロイの右手が、胸元の近くへとゆっくりと持ち上げられ、手のひらが上を向く。
「SOUL MARK…ZOOM EYE」
彼の手に、小さな望遠鏡が現れた。
ロイはそれを片方の目に当て、望遠鏡の視界で広大な森を捜索し始める。
……そして、動きを止めた。
『あれか?』
望遠鏡の視界の先には、何十匹もの毛並みの赤い狼たちが、まるで夜の闇に広がる火の海のように森の中で眠りについていた。
イザベルがロイをちらりと盗み見る。
「ズームアイなんて使わなくても、魔物たちの位置くらい分かりますよ…わ…た…し…は」
ロイは不機嫌そうな表情を浮かべた。
「相変わらず、アサシンみたいな目してやがる」
ロイは遠く離れたレッドウルフたちの方角を見つめる。
「下がってろ、イザベル」
「はい」
イザベルは数歩、後ろへと下がった……。
……イザベルはロイをじっと見つめる。
『まさか……こんな遠距離まで攻撃できる魔法を持ってるのか!?
それはもはや天才レベルじゃない。……もうイカれている。』
額に冷や汗が流れる。
ロイはゆっくりと右手を前方へと掲げた。
「SOUL WEAPON」
瞬時に、金色の紋様が刻まれた黒い短い杖が彼の手に現れ……ロイはそれをしっかりと握りしめた。
ロイは、その魔法の杖をイザベルの方へと向けた。
【 BARRIER 】
一瞬、イザベルの身体が青い光に包まれる。イザベルとロイの視線が静かに交錯した。
「ん?」イザベルが不思議そうに首をかしげる。
ロイは穏やかな瞳で微笑んだ……。
……それを見て、イザベルも微笑みを返す。
「…音楽の伴奏、必要ですね」と、イザベルが呟いた。
イザベルの左手がゆっくりと横へ持ち上がり、その手のひらに展開された魔術式が青く輝く。
【SOUL MARK……VIOLIN 】《 バイオリン》
刹那、イザベルの手の中にバイオリンが現れた。
ロイはその後、まっすぐレッドウルフの方へと視線を向けた。
「VIRUS……頼む」
「…ベートーヴェンですね」
「あぁ」
ロイは深く、深く息を吐き出す……。
【 AURA ZONE 】
彼らの周囲の空気が一瞬にして揺らぎ、草波を静かに揺らした。
ロイとイザベルの髪も、風に吹かれて柔らかくなびく。
彼はゆっくりと目を閉じた。
魔術杖を握る右手が、静かに持ち上がる。
《その魔術杖は、親指と人差し指でエレガントに挟むように持たれていた。 》
それと同時に、左手で自らの胸を強く押さえる。
イザベルの手によって、名曲『VIRUS』のバイオリンの旋律が奏でられた。
『思い出せ……絶望を、屈辱を、今までお前が抑え込んできたすべての感情を……。
怒りの芸術を……!』
……そして、ロイは息を吐き出した。
その吐息からは、熱い蒸気と火花が吹き荒れていた。
ロイは左手でさらに強く胸をかきむしった。
「暑い……! この心の炎が止まらない」
ロイの呼吸が、激しい湯気を吐き出し続ける。
ロイの足元から炎が燃え広がり、周囲の草地を広範囲にわたって焼き尽くしていく。
その瞬間、ロイがイザベルに施した魔術障壁が一瞬だけ青くきらめき、熱気と激しい炎から彼女の身を守った。
ロイは魔術杖を上方へと振り、円を描くように大きく旋回させた。
「燃え尽きろ……この屈辱よ!」
ロイの頭上に、小さな火球が出現する。
その炎はゆっくりと、しかし確実に巨大化しながら激しく回転し始めた。
「燃え尽きろ……この絶望よ!」
草地を焼き尽くす炎は、さらに速度を上げ、どこまでも広大に燃え広がっていく。
「燃え尽きろ……この恥よ!」
ロイの衣服と髪が、じわじわと小さな炎に包まれ始めた。だが、ロイ自身は熱さを感じていない。
まるで彼自身が、この炎の根源であるかのように。
彼の頭上には、猛烈な速度で回転する巨大な火球が浮遊し、周囲一帯を圧倒的な熱量で包み込んでいた。
それでもなお、イザベルは静かにバイオリンを奏で続けている。
彼女を護るバリアはすべての熱を遮断しており、二人の姿はまるで、燃え盛る業火の海の中心に佇んでいるかのようだった。
ロイの目がカッと見開かれ、暗闇の中、ロイの脳裏に、赤色のインクに浸された絵筆の姿が浮かび上がる。
__________
その瞬間……ロイは魔術杖の先端を、右から左へとエレガントに自らの首元に滑らせた……。
……それと同時に、彼の頭は左から右へと、流れるように動く。
杖の先端が肌と擦れ合った瞬間、小さな火花がパチパチと弾けた。
次いで、マッチに火を灯すかのように、その先端から炎が勢いよく燃え上がり始めた。
__________
暗闇の中、ロイの脳裏で、絵筆がゆっくりと落ちてキャンバスに触れ、そして赤色を描き出していく。
その瞬間、ロイには、目の前の光景すべてがまるでキャンバスであるかのように見えた。
「この想いのすべてを描け……怒りよ!」
ロイは遥か彼方にいるレッドウルフに向けて、魔術杖を突き出した。
【 METEORA 】
巨大な火球がさらに速度を上げて回転し、次の瞬間、凄まじい速さでレッドウルフへと向かって射出された。
火球はその軌道上にある森を焼き尽くし、すべてを呑み込む炎の痕跡を残しながら突き進む。
そして、ついに……。
——大爆発が巻き起こり、数十メートルもの高さの巨大な炎が天へと燃え上がり、爆風が全方位へと吹き荒れた。
その爆発と同時に……。
後方からの視点。ロイは両腕を左右へと大きく広げた。手のひらは上へと向けられている。
魔術杖はまっすぐ天を指していた。
周囲の草地を焼いていた炎はすでに消え失せ、宙を漂う小さな残り火だけが残されている。
「これが俺の芸術だ」
……イザベルがバイオリンの手を止めた。
「今笑ってもういいんですか?」
「やめろ!」
◇
見渡す限りの広大な草原、その中央に一枚のキャンバスが佇んでいる。
近づいて見ると、そのキャンバスには、互いに手を繋ぎ合う5人の姿が描かれていた。男の子が3人と、女の子が2人。
まるで子供の落書きのようなタッチで、一人一人がそれぞれ異なる色で塗られている。
絵の頭上には、彼らの名前が刻まれていた。
黒いインク。中央の人物:ロナン(Ronan)
青いインク。ロナンの右側:エリック(Erick)
赤いインク。エリックの右側:リン(Rin)
黄色いインク。ロナンの左側:ノイトラマ(Noitrama)
紫のインク。ノイトラマの左側:キャシー(Cassey)
そして、絵の右下の隅には、一人の名が書き添えられていた。
ロイ・エスカプリオ(Roy Escaprio)




