レイナ・フロスト 【 REINA FROST 】
朝。
賑やかな通りの中、小さな子どもたちが笑いながら走り回っている。
通りの両脇には、果物や焼きたてのパン、ささやかな小物を売る屋台や店が立ち並んでいた。
食べ物の香りと、あちこちで交わされる値段交渉の声が、空気を満たしている。
その喧騒の中で、キャシーは魔法帽をかぶらず、両手をだらりと下げたまま、気だるげな足取りで歩いていた。
白銀色の魔法の杖は、背中に固定されている。
「はぁ……。
退屈ですね……。
ノイトラマもまだ目覚めていませんし。
エリックもどこで何をしているのやら……。
昨日はあの猿にボコボコにされていましたし。
もう少しヒールをかけておくべきでしたかな。
まあ……今更ですね」
彼女は深く息を吐いた。
足を止め、暗い路地へと視線を向ける。そこでは、小さな光が内側からちらちらと瞬いていた。
「……はあ?」
キャシーの顔には苛立ちが浮かんでいる。
彼女は背筋を伸ばしたまま、人混みから離れ、その暗い路地へと足を踏み入れる。
すると間もなく、忍びのような影が一閃し、彼女の前に現れる。
その出現と同時に、周囲の埃がゆっくりと舞い上がる。
シノビは、禿頭で、素朴な顔立ちの男だ。
「何かご用でしょうか?」
キャシーは冷ややかな視線を向けた。
「失礼いたします、レイナ様。お父様より手紙を預かってまいりました。どうぞご確認ください。」
キャシーはその手紙を読みながら、父アレックスの姿を思い浮かべていた。
口ひげをたくわえ、黒い貴族風の整ったシャツを着た父が、きらびやかな空間で舞うように踊っている姿を。
《 レイナへ。
もう家に戻ってきなさい。
お父様のためにも、ランクCのパーティーとの冒険はもう終わりにしなさい。
お前は貴族の娘であり、そしてランクSのハンターでもある。
毎日わずかな報酬のために命を懸けて戦う者たちとは、もともと立つ場所が違うのだ。
それから、一つ良い知らせがある。
近々、ジュリアス王子殿下がお前に直接結婚を申し込むために、この街を訪れるそうだ。
これはお前一人の問題ではない。
我々の家にとっても、これ以上ない栄光だ。
だからこそ、早く戻ってきてほしい。
そんな旅はもう終わりにして、魔物狩りはそれで生計を立てる者たちに任せなさい。
お前の未来は、そんな狩猟の場にはない。もっと高い場所にあるのだ。
断りは絶対に許さない!
なんちゃって……てへ。
早く戻ってくれ、お願いだから!
—— 父より》
同時に、ユリウス王子の微笑む顔も脳裏に浮かんだ。
完璧な容姿をした金髪の青年だ。
キャシーに手紙を渡した忍びの男は、今は寒そうにしている。
両腕を抱え込み、擦り合わせて体を温めていた。
「レイナお嬢様……」
忍びの男は体を震わせた。吐く息は、冷たい空気の中で白く曇る。
キャシーが手にしていた手紙はすでに凍りつき、彼女が立っていた狭い路地全体も氷の層に覆われていた。
キャシーは冷たい眼差しでその忍びを見つめる。
「これが私の答えです。」
彼女は、凍りついた手紙を氷の床へと落とした。手紙は木っ端微塵に砕け散る。
振り返ることもなく、キャシーは忍びを残して歩き出した。
辺りは再び静寂に包まれる。聞こえるのは、寒さに震える忍びの、弱々しい吐息の音だけだった。
少し歩みを進めたところで、キャシーは背を向けたまま告げた。
「そのまま伝えてください」
「マジで……?」
忍びは寒さに震えながら、ぽつりと呟いた。
キャシーがその場を去った後。
トーストの屋台の前で、キャシーは指を一本立てて、温かいパンを一つ注文した。
「パン、一つください」
店主の男は、炭火の上でトーストをうちわで仰いでいる。
「はいよ」と、店主が応じた。
それと同時に、彼女の思考は無意識のうちに、レイナだった頃の過去の記憶へと引き戻されていた。
_________
レイナ――それが、キャシーの本当の正体。
白銀の髪に、淡い氷河の如き青い瞳。それはまるで、氷の姫君のようだった。
沈んでいた記憶が、少しずつ、水面に浮かび上がるように蘇っていく。
アクセリアの街にある、厳かな大広間。
そこには、彼女を取り囲む貴族たちの姿があった。
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「レイナ、君は本当に美しい……私と踊ってくれないか?」
「君の美しさは満月のようだ。私と結婚してくれ」
「レイナ……僕を選んでくれ」
「その目……その髪……本当に美しい……」
声が重なり合っていく。
増えていく。
狂っていく。
やがてそれは言葉の形を失い、ただの雑音となって彼女の頭を埋め尽くした。
「レイナ……俺と一緒に……」
「お前は……今夜は……?」
「君の美しさは……」
「綺麗だ……」
「レイナ……」
「僕を選んでくれ……」
「レイナ……」
「綺麗だ……」
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声が一つに溶けていく。まるで、忘れ去られることを拒む過去からの囁きのように。
押し寄せる過剰な賛美と関心に、レイナは次第に嫌気が差し、その瞳からゆっくりと光が失われて、虚無へと変わっていった。
夜、彼女は貴族の広大な庭園の中を静かに歩いていた。
周囲には、彼女の太ももの高さまである色鮮やかな花々が咲き誇り、月光と、庭園を舞う蛍の淡い輝きに照らされている。
花々の中を歩きながら、彼女は通りすがる花びらにそっと指先を触れさせた。
夜の静寂の中に、穏やかな空気が満ちていく。
「踊り、笑顔、美しさ、愛……
貴方たちは皆同じ。ただ私を、自分たちの望む方へ引き込みたいだけ」
彼女の足元から、白い血管が広がるように、凍てつく氷がゆっくりと地面を這い始めた。
氷はさらに広がり、花の茎を伝って登っていく。
彼女が歩き続けながら指で花びらに触れると、その花びらは一枚ずつゆっくりと凍りつき、月の光の下で輝く氷の結晶へと変わっていった。
「私の心の中に何があるかも知らないくせに……。
それでも私を欲しがる。この髪を、この肌を、この美しさを」
レイナは一瞬立ち止まった。
夜の風が庭をやさしく吹き抜け、花びらと蛍が舞い上がり、レイナの悲しげな表情を照らしていた。
「それは……愛ではありません」
彼女は再び歩き出した。
上空から見下ろすと、レイナが歩んだ庭園の足跡と花々は、徐々に輝く氷の結晶の絨毯へと変貌していた。
その上を、蛍と花びらがなおも舞い踊り、冷徹な輝きの中でワルツを踊っているかのようだった。
「神聖さもなく……貴方たちの顔は皆同じ。腐った花のように、ゴミです」
前方から映し出される彼女の全身が、時折、蛍の光に照らされる。
氷は今もなお、彼女の周囲を侵食するように這い続けていた。彼女の指先が、また花に触れる。
「本当に私を愛するというのなら……私のすべてを受け入れなければならない」
この美しさだけではなく……」
彼女の手のひらが花を撫でる。その瞬間、花は瞬く間に凍りついた。
「私の心の奥に沈んだ闇も……」
レイナは優雅にくるくると回り、両手をしなやかに振った。
彼女の周囲の花々は、急速に凍りついていく。
「すべてを飲み込む吹雪も……貴方たちを皆、殺してしまう嵐も」
後ろから見ると、レイナは庭園の出口を通り抜けていた。
その傍らには、弓を引き絞る羽の生えた幼子の像—— キューピッドの像が、すでに氷に閉ざされていた。
その弓の先端は、ハートの形をしている。
「それでこそ……神聖な愛」
氷漬けになった像の目の端から、一筋の水滴がゆっくりと流れ落ちた。まるで、その石像が涙を流しているかのように。
◆◆◆◆◆◆
夜。貴族フロスト家の豪華な庭園で、レイナは一人、紅茶を楽しみながら座っていた。
その後ろには、長い髪をきっちりと結んだ老執事が立っている。右手は背中に回されており、その手にはワインの瓶が隠されていた。
彼の名はブライアン。《 BRIAN 》
フロスト家の執事長であり、元A+ランクのハンターだった。
やがて、アレックスが慌てた様子で彼女のもとへ駆け寄ってきた。
「レイナ……いい知らせがあるぞ……」
息を切らしながら、レイナの父であるアレックスが言った。
ブライアンは険しい表情で彼を一瞥する。
「ユリウス王子がお前と婚約したいそうだ! これは我が一族にとって最大のチャンスだぞ。
今や皇室も我らの名に注目し始めているのだ!」
アレックスは一呼吸置くと、隠しきれない満面の笑みを浮かべて言葉を続けた。
「レイナ、これがどういう意味か分かっているな? お前の未来が変わるのだ。
すべての貴族がこのような機会を得られるわけではないのだからな」
それを聞いても、レイナは冷静なままだった。
アレックスの視線と言葉を無視し、彼女はゆっくりとティーカップを持ち上げると、優雅に紅茶を啜った。
ブライアンは険しい目付きでアレックスを睨みつける。
「アレックス! お前……まさかまた娘に無理を強いるつもりか? 昨日は公爵、今日は王子、明日は一体誰のつもりだ!?」
アレックスの顔から、次第に笑みが消えていく。
「無理を強いるだと? 人聞きの悪いことを言うな。私はただ、レイナの将来を想って言っているのだ」
「将来、だと?」ブライアンは目を細めた。
「私には、お前がその地位と注目をただ楽しんでいるようにしか見えんがな」
アレックスは即座に舌打ちをした。
「ブライアン、お前にはこの機会がどれほど価値のあるものか分かっていないのだ」
依然として沈黙を保つレイナは、表情一つ変えずに紅茶を啜り続けている。
「そしてお前も、レイナ様の気持ちを何も分かっていない」ブライアンは冷酷に言い返した。
カチャン……。
レイナは静かにティーカップをテーブルのソーサーに置いた。
「ブライアン……もういい」
レイナは柔らかな布で、自身の薄桃色の唇を拭う。
「……私の杖を持ってきて。それから今夜、私をギルドへ送りなさい」
その言葉に、ブライアンは息を呑んだ。
「レイナ様……まさか、貴女は……。いえ、御心のままに」
ブライアンはワインボトルを握った手を胸に当て、深く一礼した。
『まさか、Sランクを狙うおつもりか? 皇室の権威を拒絶するには、圧倒的な『力』を証明する他ない……!』
アレックスは突如として困惑の表情を浮かべた。
「は? 一体どういう意味だ? なぜギルドなどへ行く!?」
◆◆◆
コツ…… コツ…… コツ……。
アトランズの街の中、キャシーは湯気が立ち上る温かいトーストを口に運びながら歩いていた。
賑わう雑踏の真ん中で、彼女は手元にあるSランクのハンターライセンスを見つめる——そこには「REINA FROST」の名が刻まれていた。
露店が立ち並ぶ街外れでは、小さな子供たちが無邪気な笑い声を上げながら走り回っている。
「Sランクの試験が、竜を単騎で葬るだけとは……。実につまらないものですね」
キャシーは片手で口元を覆い、妖しく不敵な笑みを浮かべた。
「これで、家族も運命も、もはや私を縛り付けることはできません」
その時、キャシーの近くにいた一人の子供が、仲間たちと一緒に彼女を指差して大笑いした。
「見てよ、見て! このお姉ちゃん、顔がすごく怖いよ! ガハハハハ!」
キャシーは口元から手を下ろすと、その子供に向けて、この上なく愛らしい笑みを浮かべた。
「殺しますよ」
子供たちは一瞬で顔を引きつらせ、恐怖のあまり叫びながら逃げ出した。
「怖いお姉ちゃんだぁーっ!」
キャシーは、レイナだった頃の過去の記憶をさらに思い出していく。
豪華な自室の中で、レイナは「REINA FROST」の名が刻まれた、Sランクハンターのライセンスカードを手に持って佇んでいた。
それから彼女は大きな姿見の前へと歩み寄る。
白銀のオーラを放つ魔法を指先に宿らせ、髪の毛先をそっと擦ると、その髪は徐々に淡いピンク色へと染まり始めた。
「少しの美しさ、これで十分でしょうか」
やがて、彼女のすべての髪が鮮やかなピンク色へと変わっていく。
そして彼女は静かに前髪を整え始め、ゆっくりと、見慣れた「キャシー」の姿を作り上げていった。
「これは不要。これも不要。……これも、不要です」
試着した様々な種類のドレスや服が、躊躇なくベッドの上へと放り投げられていく。
それから間もなくして、彼女は部屋から飛び出してきた。
ウサギのように軽快に小躍りしながら、武器と魔法使いの帽子を身にまとった完全な「キャシー」の格好で、楽しげに廊下を歩んでいく。
すると前方から、執事長であるブライアンが歩いてくるのと出くわした。
彼は右手を背中に回し、こっそりとワインボトルを隠し持っている。
ブライアンはレイナの変わり果てた姿に目を丸くし、一瞬、言葉を失って呆然と立ち尽くした。
一方、天真爛漫な様子を見せるレイナは、ブライアンの肩をポンと叩いた。
ショックのあまり凍りついたブライアンは、首を動かすことすらできない。
「私、この家を出ていく。「ATLANZ」向かいます! みんなによろしく伝えてね」
レイナは楽しそうに笑いながら、ブライアンの横をそのまま歩き続けた。
「……そ、その格好は……。レイナ様が、この屋敷を出ていかれると……!?」
ブライアンが手元に目を落とすと、握られたワインボトルが激しく震え、中のワインが四方八方に飛び散っていた。
「そうだ……。私は酔いすぎているだけだ。これは絶対に夢だ……。ああ、なんてことだ……早くこの夢から目覚めねば……!」
—— ガシャァァン!
躊躇うことなく、ブライアンは自らの頭にワインボトルを叩きつけた。ボトルは粉々に砕け散る。
次の瞬間、彼の身体はぐらりと傾き、そのまま床へと崩れ落ちて気絶した。
◆◆◆◆◆◆
レイナがアトランズの街で「キャシー」という偽名を名乗り、正体を隠していた頃のこと。そこで彼女はポコと出会った——。
「俺はポコ! パーティ『THE ANGEL WING』のリーダーだ! お前、俺たちと一緒に来る気はねぇか?」
しかし、後日——。
「……ごめん!キャシー! 俺はお前をパーティから外さなきゃならないんだ!」
ポコはうつむき、申し訳なさそうに頬を掻いた。
「なぜかは分かんねぇけどよ……お前が入ってからってもの、依頼の帰りにいつも魔物に囲まれるんだ。
別にお前を疑ってるわけじゃねぇ。ただ、俺たちはもっと長く生きてぇんだ……だから、ごめん」
ポコのその反応を見て、キャシーは大きく綻びそうになる口元を手で隠した。
『その誠意は、本当に私に伝わっています……貴族たちとは大違いです』
そして彼女は、エリックと共に『ロックホーン』と戦った時のことを思い出す。
「キャシー、逃げろ!」と、エリックが叫んだ。
その言葉に、キャシーは目を見開いた。
「貴方の誠意、本当に伝わっています! 心配には無用です」
ロックホーンがキャシーに迫る。
「危ない!!」
俺は叫びながら、キャシーを数メートル先へと突き飛ばした。
時間が、まるでスローモーションのようにゆっくりと流れる。
『は……? 何ですか、これは……? この美しい私を突き飛ばすなんて……! どうしましょう……? 早く……早く決断を……!』
「きゃああっ!」
キャシーはドラマチックに地面に倒れ込んだ。
そして彼女は仲間たちの顔を一人ずつ見回したが、彼らは倒れた彼女など目もくれず、ロックホーンの突撃を受ける俺の方に必死に視線を注いでいた。
『無視された……!? この美しい私が転んでいるというのに、誰も気に留めないのですか!?』
キャシーはうつむき、地面を見つめた。
『今までは……いつも偽りの注目ばかりを浴び、それに飽き飽きしていました。でも、こんな風に扱われたのは……』
キャシーの唇が、自然と笑みの形に歪む。
『悪くないですね』
さらに彼女は、アイアンモンキーと戦った時のことも思い出す。
「危ない!」
俺は跳躍し、アイアンモンキーに体当たりした。
その拍子に、俺の身体が不意にキャシーにぶつかり、彼女を転ばせてしまう。
「きゃあ!」
一瞬の静寂。
『また……!? また、私だけが無視されているのですか!?』
うつむいた姿勢のまま、キャシーは鋭く、しかしどこか妖艶な眼差しで俺を凝視した。
その視線はまるで獲物を狙うかのようだ。
一方の俺は、地面で暴れ狂うアイアンモンキーの両腕を必死に押さえつけていた。
地面に伏せながら、キャシーは二本の指先で、自身の金属製の魔導杖を左右へとゆっくり、静かに愛撫するように滑らせた。
『ノイトラマ、いつか貴方には私の従者になってもらいます。ずっと傍にいて、私を楽しませなさい。
こんなゴミみたいな世界で、それこそが貴方の存在意義です』
やがて、キャシーの脳裏に浮かんでいた記憶の数々がゆっくりと薄れていく。
彼女の足は、ギルドの扉の前で止まっていた。
「もし彼が私の誠意を無駄にするというのなら、渡した金はすべて十倍にして返してもらいましょう……」
彼女は静かに、ギルドの中へと足を踏み入れた。
「さあ、早くCランクに上がって、私の従者になりなさい。」




