表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
左遷された冷血公爵の領地経営改革〜有能な婿を捨てた元妻が泣きついてきましたが、もう遅い。優秀な部下たちと理想の領地を築きます〜  作者: 伊達ジン


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/49

第6話 就業規則の抜本的改革

 翌朝、午前8時前。代官所の前庭。

 身を切るような寒空の下、数十人の職員が集められていた。文官、衛兵、雑用係に至るまで、彼らの顔には一様に疲労と不安の色が濃く表れている。

 昨日、この地で絶対的な権力を振るっていたボルドーが捕縛されたのだ。新任の代官がこれから何を言い出すのか、皆が戦々恐々としていた。


 セレスティアンが石段の上に立つ。その斜め後ろにはカイラが静かに控えている。


「集まってもらったのは他でもない。本日から、この代官所における労働の規則を根本から変更する」


 低く通る声が、静まり返った前庭に響いた。


「まず、全員の1日の労働時間を8時間とする。そして、7日のうち2日は完全に職務から離れ、休息をとること。これは絶対の規則だ」


 職員たちの間に、困惑のざわめきが広がった。

 やがて、痩せ細った下級文官の男が恐る恐る進み出た。


「お、お待ちください、代官様。1日8時間などと……我々は毎日、夜明け前から深夜まで帳簿の整理や各村からの陳情処理に追われています。休む日など、この数年間、一日たりともありませんでした。時間を減らされれば、業務が完全に滞ります」


 セレスティアンは静かに文官を見下ろした。


「それだけ働いて、業務は回っていたのか?」

「え……」

「昨日の段階で、未処理の書類が書庫に山積みになっていた。お前たちが長時間机に向かっていたのは事実だろうが、極度の疲労で判断力は落ち、手戻りが増え、ただ無駄に時間を浪費していただけだ。違うか」


 文官は言葉に詰まり、視線を落とした。


「効率の悪い長時間労働は、組織の首を絞めるだけだ。無駄な手続きや重複している業務は、代官補佐のカイラを中心にすべて見直す。お前たちは定められた時間だけ、集中して働け」


 別の職員が声を上げる。


「……ですが、我々には生活があります。ただでさえ少ない給金で、働く時間を減らされれば、家族を養っていけません」

「給金は減らさない」


 即答だった。


「昨日までの実態のない長時間労働を基準にするのではなく、定められた8時間の中で成果を出した者には、相応の対価を支払うよう体系を作り直す。不当な中抜きが消えた分、予算には余裕がある」


 どよめきが大きくなる。彼はカイラに視線を向けた。


「カイラ。昨晩決めた通りだ。各部門の人員を再配置し、無駄な承認手続きを減らせ。夕刻の鐘が鳴ったら、全員を強制的に帰宅させろ。居残りは一切認めない」

「承知いたしました」


 カイラが短く応じると、セレスティアンは踵を返し、執務室へと戻っていった。


 数時間後、執務室。

 書類仕事の手を止めたカイラが、疑問を呈した。


「代官所の職員への処遇は理解いたしました。彼らも疲弊しきっていましたから。ですが、先ほど仰っていた『領地全体への適用』というのは……本気でしょうか」


 セレスティアンは万年筆のインクの出を確かめながら頷く。


「ああ。農地や鉱山で働く領民たちにも、1日8時間、7日のうち2日の休息を義務付ける」

「それは……危険です」


 カイラは少し強い口調で言った。


「彼らは代官所の役人とは違います。その日暮らしで、冬を越すための蓄えもありません。休めと言われても、畑に出るなと言われているのと同じです。働かなければ飢え死ぬと、間違いなく反発が起きます」

「過労で倒れれば、結局は飢え死ぬだろう。今の領民の体力は限界を超えている。無理に動かして病気になったり、土地を捨てて逃亡されたりするのが、領地にとって一番の損失だ」


 彼は一枚の書類をカイラに差し出した。


「当面の間、規定通りに休んだ者には、代官所から生活保障として食料の配給と少額の硬貨を支給する」


 カイラは書類の数字を見て目を丸くした。


「これほどの支出……ボルドーの隠し資産を充てたとしても、長くは持ちません。数ヶ月で代官所の金庫は空になります」

「数ヶ月もあれば十分だ。休息をとった人間がどれだけ動けるようになるか、すぐに結果が出る」


 セレスティアンは手元の書類に視線を戻した。


「領民が休んでいる間に新しい産業の準備を進める。今日の午後に、近隣の村の長たちを呼んでおけ。俺が直接話す」


 午後。

 代官所の応接室に、近隣の村の代表者たちが集められた。

 皆、日に焼け、痩せこけた体つきをしている。着ている服も粗末なものだ。彼らは不安げに顔を見合わせている。新しい代官が税の取り立てを厳しくするのではないかと警戒しているのは明らかだった。

 彼がカイラを伴って入室すると、村長たちは慌てて立ち上がり、深く頭を下げた。


「面を上げろ。堅苦しい挨拶は不要だ」


 セレスティアンはソファに腰を下ろし、村長たちにも座るよう促した。


「単刀直入に言う。本日から、この領地内のすべての労働に対して制限を設ける。農作業であれ、鉱山での採掘であれ、1日の作業は8時間までとする。そして、7日のうち2日は完全に休息日とし、一切の労働を禁ずる」


 村長たちの間に、重い沈黙が落ちた。

 数秒後、一人の白髪交じりの村長が、震える声で口を開く。


「お、お代官様……それは、我々に死ねと仰っているのでしょうか」

「なんだと?」

「我々の村は、朝、星が出る前から夜更けまで泥に這いつくばって、ようやく生かされている状態です。それなのに、働く時間を減らせなどと……。確かに税の取り立ては一時的に待ってもらえると聞きましたが、休んでいては、その後の税が払えなくなります」

「そうだ。新しい代官様は、我々を怠け者にして、後で重い罰を科すおつもりなんだ」


 別の村長が悲痛な声を上げる。彼らの目には、新しい権力者に対する根深い不信感が宿っていた。ボルドーの時代から、一見して理不尽な命令には必ず裏があり、結局は搾取されるだけだったからだ。

 カイラが一歩前に出ようとしたが、彼は手でそれを制した。声を荒げることもなく、ただ静かに村長たちを見つめ返す。


「罰を与えるための罠ではない。俺が求めているのは、お前たちが畑で倒れて死ぬことではないからだ」


 淡々とした声が、村長たちの動揺を少しだけ静める。


「長く、健康に働き続けてもらうこと。それが領地にとっての最大の利益だ。今のままでは、来年の春には畑を耕す人間がいなくなる」


 セレスティアンは、懐から取り出した数枚の銀貨をテーブルの上に置いた。


「休んだ日の分は、代官所から食料と手当を支給する。働けない間の生活は保証する。だから、休め」


 村長たちは、テーブルの上の銀貨とセレスティアンの顔を、信じられないものを見るような目で見比べた。


「ほ、本当に……休んでも、食べていけるので?」

「ああ」

「し、しかし……後になって、やっぱり返せと言われるのでは……」

「これまでの代官ならそうしたかもしれないな。だが、俺は約束は守る。その代わり、条件がある」


 彼の声が一段と冷たくなる。


「隠れて規定以上の時間働いた者、休息日に畑に出た者からは、逆に配給と手当を没収する。これは絶対の命令だ。お前たち村長は、村の者が働きすぎないように監視する義務を負う。わかったな」


 労働を強制するのではなく、休息を強制する。

 聞いたこともない命令に、村長たちは呆然としたまま、ただ頷くしかなかった。


 それから数日後の夕暮れ時。

 冷気が肌を刺す中、セレスティアンとカイラは領都の郊外にある農地を視察していた。

 夕刻の鐘はすでに鳴り終わっている。見渡す限り、畑に人影はない。静まり返った農村の風景が広がっていた。


「どうやら、命令は守られているようだな」


 歩きながら言う。


「はい。各村の長たちが目を光らせていますし、何より、手当が支給されると分かってからは、皆おとなしく家に戻るようになりました」


 カイラは少しだけ戸惑いを含んだ声で答えた。彼女自身も、これまでは夜遅くまで書類仕事をするのが当たり前だったが、今は強制的に夕方で仕事を切り上げさせられている。


「しかし、代官様。農地の作業が完全に止まっているのを見ると、どうしても焦りを感じてしまいます。本当にこれで、領地は立て直せるのでしょうか」


 セレスティアンは立ち止まり、遠くの山並みを見つめた。


「人間は、休まなければ動けない生き物だ。壊れてからでは修復に何倍もの時間と金がかかる。俺が一番よく知っている」


 過去の激務と、過労で命を落とした記憶が脳裏をよぎるが、それを口に出して説明することはしない。


「焦る必要はない。十分な睡眠と食事をとった人間が、どれほどの集中力と結果を出すか。数週間もすれば、嫌でも数字に表れる」

「……はい」


 カイラは短く応えた。


「さあ、戻るぞ。これ以上外にいては、俺たちが規定の労働時間を超えてしまうからな」


 セレスティアンは身を翻し、代官所へ向かって歩き出した。

 カイラは小さく頷き、背筋を伸ばしてその後を追った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ