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左遷された冷血公爵の領地経営改革〜有能な婿を捨てた元妻が泣きついてきましたが、もう遅い。優秀な部下たちと理想の領地を築きます〜  作者: 伊達ジン


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第7話 生産性向上という魔法

 就業規則の抜本的な改革から、3週間が経過した。

 アビス領の領都は、薄雲の隙間から差し込む朝日に照らされていた。

 広い執務机に向かっていたセレスティアンは、代官補佐から提出された最新の収支および生産報告書の束に無言で目を通していた。

 窓の向こうからは、通りを行き交う人々の話し声や、荷車の車輪が石畳を転がる活気ある音が聞こえてくる。赴任初日に感じた、あの死んだような静寂はすでに消え去っていた。


 机の前に立つ彼女は、どこか信じられないものを見るような目を書類に向けている。


「……数字の集計が終わりました。各村からの報告を二度確認しましたが、間違いありません」


 その声には、珍しく抑えきれない動揺が混じっていた。


「北部の鉱山における魔石の採掘量、および東部の農地での冬野菜の収穫量。どちらも先月の同時期と比較して、およそ4割増という異常な数値を記録しています」


 セレスティアンは報告書から目を離さずに頷く。


「異常ではない。想定通りの推移だ」

「ですが、代官様。労働時間を強制的に減らし、さらに7日のうち2日を完全に休息日としたのです。全体の作業時間は以前より3割近く減っているはずなのに、なぜ生産量が跳ね上がるのでしょうか」


 彼はペンを置き、書類の一箇所を指先で示した。


「鉱山での落盤事故や、農地での怪我、そして重病による欠勤者の推移を見てみろ」


 身を乗り出して資料を覗き込んだ彼女の目が、わずかに見開かれる。


「……事故の件数が激減しています。欠勤者も、ほぼゼロに等しいです」

「以前は、慢性的な疲労と睡眠不足で注意力が散漫になった状態で、危険な作業を長時間続けていた。怪我人や病人が出れば、その治療や人員の補充に余計な時間と物資を奪われる。さらに、残された者の負担が加重され、新たな事故を呼ぶ悪循環に陥っていた」


 セレスティアンは落ち着いた声で続ける。


「その負の連鎖が断ち切られただけでも、全体の進行は大きく改善する。加えて、十分な休息と食料を得た人間は、短い時間でより多くの成果を出そうと自発的に工夫し、集中する。疲労を引きずりながら夜明けから深夜まで漫然と働くより、気力と体力が充実した状態で8時間働く方が、結果的に質の高い成果を生み出す」


 王都の騎士団で激務に追われていた頃、徹夜で書き上げた書類には必ずと言っていいほど些細な不備があり、翌日その修正に余計な時間を割かれていた。人間は機械ではない。整備を怠れば、必ずどこかに歪みが生じる。自らの苦い経験を思い返し、彼女は内心で深く同意した。


「もう一つ」


 彼が書類の端を指で叩く。


「規定通りに休んだ者に、代官所から支給している生活保障の存在も大きい。約束通り休めば、少なくともその日の食料は保証される。その安心感が、翌日の労働への活力に直結している」


 午後になり、代官所へ近隣の村長たちが面会に訪れた。

 数週間前に「休まなければ罰する」と告げられた際、彼らは絶望的な顔をしていたが、今の表情は全く違っていた。

 白髪交じりの村長が、深く頭を下げる。


「お代官様。最初は半信半疑でしたが、村の若い衆の顔色が見違えるように良くなりました。それに、休む日があるからこそ、働く日の集中力がまるで違います。皆、定められた時間内に作業を終わらせようと、自発的に道具の手入れを行い、効率の良い分担を話し合うようになったのです」

「それが人間本来の働き方だ。工夫は効率を生み、効率は利益を生む」

「はい。以前は少しでも長く畑に出ることが正しいと信じておりましたが……今では、無駄に長く働く者には村の中で注意し合うようになりました」

「良い傾向だ。休息を義務化したことで、互いの作業工程を見直す余裕が生まれたのだろう」


 セレスティアンの言葉に、村長たちは力強く頷いた。


 数日後。

 冬の気配が色濃くなってきた夕暮れ時、セレスティアンは代官補佐を伴って領都の視察に出ていた。

 市場には近隣の村から持ち込まれた野菜や薪が並び、以前よりも明らかに活気が増している。すれ違う領民たちの顔には、かつての削り取られたような諦観はなく、確かな血色が戻っていた。

 視察の帰り道。大通りから一本外れた、薄暗い路地裏を通りかかった時のことだ。


 瓦礫の山と木箱の陰から、微弱な鳴き声が聞こえた。

 セレスティアンが足を止める。


「代官様?」


 いぶかしむ視線を背に受けながら、彼は瓦礫の方へ近づき、積まれた木箱の裏を覗き込んだ。

 そこには、寒さに震える小さな毛玉がうずくまっていた。

 黒と茶色が混ざった毛並み、ピンと立った短い耳、そして丸まった尻尾。泥水に浸かり、カラスか野良猫につつかれたような小さな傷がある。片手に収まるほどの小さな犬だ。


(……豆柴?)


 セレスティアンは微かに目を見開いた。

 間違いない。前世で幾度となく画面越しに眺めていた、あの姿そのものだ。なぜこんな辺境にいるのかはわからない。遠方から珍しい動物として持ち込まれたが、弱ったために売り物にならないと判断されて捨てられたのだろうか。


 泥にまみれ、息も絶え絶えに丸まっている仔犬を見下ろし、セレスティアンは躊躇うことなくしゃがみ込んだ。


「代官様、それは……」


 背後で驚きの声が上がる。


「野犬の仔でしょうか。病気を持っているやもしれません。あまり触れない方が」


 その忠告を聞くよりも早く、彼は革手袋を外し、素手でその小さな毛玉を掬い上げていた。

 手の中に伝わってくるのは、ひどく冷え切った、しかしかろうじて脈打つ命の温もりだった。仔犬は抵抗する力もなく、彼の大きな掌の中で弱々しく「きゅぅ」と鳴いた。

 かつて画面越しに見つめることしかできなかった存在が、今、自分の手の中で震えている。


「……俺が洗う」

「え?」

「俺が洗って、俺が世話をする。だから問題ない。連れて帰る」


 早口で、有無を言わせない強引な口調だった。理路整然としたいつもの彼からは想像もつかないほど、その声には焦りと執着が滲んでいる。

 主君のあまりにも人間らしい一面に呆気にとられ、彼女はそれ以上の言葉を紡ぐことができなかった。


 その夜。代官所の自室。

 セレスティアンは上着を脱ぎ、袖を捲り上げると、部屋に用意させた湯を入れたたらいで、仔犬の泥を丁寧に洗い落としていた。

 大きな手で慎重に湯をかけ、毛に絡みついた汚れを指の腹でほぐしていく。最初は怯えていた仔犬も、湯の温かさと不器用ながらも優しい手つきに安心したのか、大人しく身を委ねていた。

 彼にとっても、動物に触れるのは前世を含めても初めての経験だった。力の加減がわからず、細い骨を折ってしまわないかと背中を流す手は自然と強張る。だが、手のひらに伝わる鼓動は確かに力強さを取り戻しつつあった。

 汚れが落ちると、本来の艶やかな黒と茶色の模様が現れる。丸々とした可愛らしい姿は、間違いなく豆柴のそれだった。

 布でしっかりと水気を拭き取り、暖炉のそばに用意した毛布の上へ置く。

 厨房から運ばせた温かいミルクと、細かくちぎって柔らかくしたパンを皿に入れて鼻先に近づけると、仔犬は我先にと必死な勢いで舐め始めた。鼻の頭にミルクの泡をつけながら無心に食べる姿に、彼は小さく息を吐いた。


 セレスティアンはその様子を床に座り込んだまま、穏やかな眼差しで見つめていた。

 前世の記憶。

 黒川理人だった頃。夜中の3時に誰もいない暗い部屋に帰り、ネクタイを外しながらスマートフォンの画面で犬の動画を見るのが、彼の孤独な生活における唯一の癒やしだった。

 ペットを飼えるだけの広いマンションに住む金はあっても、世話をする時間が全くない。自分が生きるだけで精一杯の激務の中で、他の命を預かることなど許されるはずもない。当時の彼には、画面の中の愛らしい命を眺めることしかできない。

 残業ゼロの生活を手に入れたら、いつか犬を飼う。

 それは彼にとって、叶うことのない密かな夢にすぎなかったのだ。


 皿を空にした仔犬が、満足げなため息をつき、セレスティアンの膝の近くへすり寄ってくる。彼は少し硬くなった手つきで、その温かい身体をゆっくりと撫でた。


「……ようやく、一つ形になったな」


 誰に聞かせるわけでもない、独り言だった。

 その時、ドアがノックされる音がした。


「入れ」


 短く応じると、扉が開き代官補佐が入室してくる。


「失礼いたします。明日の各村への通達の件で、最終的な確認を……」


 報告を始めようとした彼女の言葉が、不自然に途切れた。

 視線の先には、床に座り込んでいるセレスティアンがいる。そして彼の膝の上では、すっかり綺麗になったあの仔犬が丸まって眠っている。さらに、普段は書類や帳簿しか触らない代官の大きな手が、その仔犬の頭を優しく撫で続けていた。


 数秒間完全に硬直したまま、彼女は目を瞬かせた。

 脳内で、この冷徹で合理的な主君と、膝の上の愛らしい仔犬という組み合わせが全く処理できていないようだった。


「……代官様。その、犬は」


 ようやく絞り出したような問いに、セレスティアンは真剣な顔つきのまま答えた。


「代官所の警備力強化の一環だ」

「……警備力、ですか」

「そうだ。夜間の不審者の侵入をいち早く察知するための、優秀な番犬として育成する。これは領地の安全を守るための必要な投資だ」


 彼がもっともらしい理屈を並べる中、膝の上の仔犬が気持ちよさそうに「くぅ」と寝言を漏らし、手の中にすり寄った。

 どう見ても、ただ可愛がっているだけにしか見えない。

 彼女は小さく息を吐き、口元を手で隠すようにしてわずかに肩を震わせる。賢明にも、それ以上の追及を避けることにしたようだ。


「……左様ですか。随分と、愛らしい番犬ですね」

「将来は威厳ある姿になるはずだ」


 セレスティアンは頑なに主張しつつ、撫でる手を止めない。


「名前は決まっているのですか」

「……ポチだ」

「ポチ、ですか。不思議な響きですね」

「ああ、呼びやすいからな」


 彼女は手元の書類に視線を落とし、微かな笑みを隠したまま業務の報告に戻った。

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