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左遷された冷血公爵の領地経営改革〜有能な婿を捨てた元妻が泣きついてきましたが、もう遅い。優秀な部下たちと理想の領地を築きます〜  作者: 伊達ジン


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第5話 役員任命と忠誠

 冷たい北風が吹きすさぶアビス領は、早くも深い夕闇に包まれようとしていた。

 代官所の前庭では、午後から始まった食料の配給がようやく落ち着きを見せ始めている。

 セレスティアンは執務室の窓際に立ち、眼下で繰り広げられる光景を無言で観察していた。広場にはまだ数十人の領民が残っていたが、食料を前にした飢えた群衆にありがちな暴動や、我先にと押し合うような混乱は起きていない。

 カイラが数人の衛兵を要所に配置し、列の整理と物資の計量を厳格に管理しているためだ。


「……無駄のない動きだ」


 セレスティアンは短く呟いた。

 カイラは感情に流されて食料を無秩序に配るような真似はしなかった。高齢者と子供を抱える世帯を優先するという指示を忠実に守りながらも、配給の手順を完全に確立させている。

 身分証代わりの木札を素早く確認し、世帯人数に応じた規定量の麦を量り分け、受け取った者から別の出口へと誘導して滞留を防ぐ。衛兵たちも、数時間前に自分たちの隊長がセレスティアンに完全に屈服させられた事実を知っているせいか、彼女の的確な指示に一切の反論を挟まず、従順に動いていた。

 兵の配置、動線の確保、そして現場での咄嗟のトラブル処理。どれをとっても、ただの文官が付け焼き刃でこなせる指揮ではない。


 セレスティアンは窓から離れ、年季の入った広い執務机に戻った。

 机の上には、ボルドーが残した膨大な書類の中から抽出した、領地の現状を示す正確なデータが数枚の白紙にまとめられている。

 現在の総人口、稼働可能な農地面積、備蓄の残量、そしてボルドーの私邸から接収する予定の隠し資産の推計額。

 自分が何もしなくても領地が回る仕組みを作らなければ、この辺境での平穏な生活など訪れない。そのためには、まずこの瀕死の領地に荒療治を行い、自力で立ち上がるための確固たる土台を整備する必要がある。

 セレスティアンは王都から持参した万年筆のキャップを外し、明日以降の具体的な再建計画を白紙に書き込んでいく。

 彼は無駄な思考を切り捨て、ただひたすらにペンを動かして数時間ほど作業に没頭した。


 夜の帳が完全に下りた頃、執務室の重い扉がノックされた。


「入れ」


 短く応じると、カイラが入室してくる。地味な文官服の裾には土埃がつき、顔には隠しきれない疲労が滲んでいるが、その足取りはしっかりとしていた。

 彼女は机の前で立ち止まると、小さく息を吐き出した。


「対象となった150世帯への配給作業が、先ほど終了いたしました。……ひとまず、目立ったトラブルもなく、皆が安全に麦を持ち帰ることができています」


 カイラの声には、長年苦しんできた領民に初めてまともな支援を行えたことへの、微かな安堵の色が混じっていた。セレスティアンが求めた「感情を交えない報告」としては少しだけ隙があったが、彼女自身が今日一日で極度の緊張と疲労に晒されていたことを考えれば、十分に人間らしい反応だった。


「ご苦労だった。見事な指揮だったな」


 セレスティアンが机から視線を上げずに言うと、カイラはわずかに目を瞬かせた。


「……窓から見ておられたのですか」

「俺が指示を出した以上、現場がどう動くかを確認するのは当然だ」


 セレスティアンは万年筆を置き、カイラを見据えた。


「現在の備蓄の残量は?」

「麦が残り30袋、保存肉は15樽です。本日のペースで配給を続ければ、もって5日分。明日の配給量を2割削減するか、近隣の村からの徴発が必要になります」


 今度は事実と数字だけを用いた、極めて的確な報告に戻っていた。


「配給量は減らさない。徴発も不要だ。ボルドーの屋敷から接収する資産を現金化し、すぐに外部の商人から食料を買い付ける手配をしろ」

「承知いたしました」


 カイラは手元の紙束に素早くメモを書き込む。その迷いのない動作を確認し、セレスティアンは机の端で組んでいた手を解いた。


「カイラ。お前は王都の騎士団に所属していたそうだな」


 唐突な問いに、カイラはペンの動きを止めた。


「ボルドーがそう言っていたが、今日の広場での兵の動かし方を見れば、相応の訓練を受けた部隊指揮官であったことは明白だ。それだけの現場指揮能力と事務処理の正確さがあれば、王都でも十分に出世できたはずだ。なぜ、この辺境へ?」


 カイラは視線を伏せた。何かを言い淀むような間があり、ペンの軸を握る指先にわずかに力が入るのが見えた。やがて、彼女は淡々と事実を述べる。


「……上官の不正を告発したためです」


 静かな声だった。


「3年前まで、私は第2騎士団で小隊長を務めておりました。ある時、所属していた小隊の備品購入費が不自然に水増しされていることに気づき、帳簿の矛盾を突いて上層部に報告しました。ですが、結果として私の方が『組織の和を乱す者』として不敬罪に問われ、このアビス領へ左遷されました」

「なるほど」

「正しさが常に通るわけではないと、その時に学びました。どれだけ正しい主張をしても、権力と癒着の前では無意味です。ですから、この領地でボルドー殿の不正に気づいた時も、私は黙って見過ごすことを選びました。どうせ何を言っても無駄だと……完全に諦めていたのです」


 彼女の拳が、身体の横で微かに握り込まれる。

 自分の無力さと、不正に目を瞑った妥協に対する自己嫌悪が、その小さな動作に表れていた。


 セレスティアンはそれを否定も肯定もしなかった。

 正論が組織を良くするとは限らない。既得権益に固執する無能な層にとって、論理的な正論ほど目障りなものはない。それは彼自身が王都で痛いほど経験してきたことだ。


「それで、ボルドーの下でただの書類係に成り下がっていたわけか」

「……おっしゃる通りです」

「だが、今日のお前の動きは違った。5年間眠らせていた能力としては、あまりにも勘が鈍っていない」


 セレスティアンは机の中央に置いていた、書き上げたばかりの数枚の書類を、カイラの方へ滑らせた。


「カイラ・アシュフィールド。お前を、この代官所における実務の統括責任者に命じる」


 カイラが弾かれたように顔を上げた。


「実務の、統括責任者……ですか?」

「そうだ。役職名は代官補佐のままで構わないが、与える権限はこれまでの比ではない。領地内の人事配置、予算の執行、そして各村の監督権。これらすべてにおける現場の裁量権をお前に一任する」


 カイラは目を見開いたまま、セレスティアンと、彼が差し出した書類を交互に見た。


「それは……実質的に、代官であるあなたと同等の権限です。赴任したばかりとはいえ、左遷された私のような人間にそこまで任せるのですか?」

「俺は細かい現場の指揮をいちいち執るつもりはない」


 セレスティアンは淡々と言い放つ。


「今後の方針は俺が決める。それを現実の形に落とし込み、現場を回すのがお前の仕事だ。俺が求めるのは過程の正しさや精神論ではなく、結果としての利益と効率のみ。お前が持つ能力がこの領地に利益をもたらすと判断したから、権限を与える。過去の経歴や挫折など関係ない」


 カイラは書類に視線を落とした。

 そこには、セレスティアンがまとめた領地の再建計画の骨子と、彼女に委ねる権限の範囲が、明確な数字と箇条書きで記されている。

 王都の騎士団で正論を否定され、辺境で腐敗に絶望していた彼女にとって、この男の言葉はあまりにも異質だった。

 忠誠や愛国心といった曖昧な言葉は一切使わない。ただ能力を冷徹に評価し、合理的な理由で明確な権限と責任を与える。そこには王都の貴族たちが好むような裏の思惑や派閥の論理は一切存在しなかった。


「……失敗すれば、どうなりますか」


 カイラが静かに問う。


「責任は最終決裁者である俺が負う。お前はただ、与えられた権限を最大限に使って結果を出せばいい」


 短い静寂が執務室に降りた。

 カイラは深く息を吸い込み、姿勢を正した。かつて王都の騎士団で見せていたような、一切の隙がない完璧な直立の姿勢。


「承知いたしました。代官様」


 涼やかな声が室内に響く。


「与えられた権限、確かにこの手でお預かりいたします。必ずや結果でお応えしてみせます」


 その声には、赴任初日の出迎えで見せていた無気力さは欠片も残っていなかった。


 セレスティアンは小さく頷き、机の上に残っていた別の白紙を引き寄せる。


「ならば、早速だが最初の業務だ。明日の朝一番で、代官所に勤める全職員を広場に集めろ」

「全職員、ですか」

「ああ。横領の主犯は排除したが、代官所自体の腐敗した労働環境は手付かずのままだ。まずはここからメスを入れる」


 セレスティアンは再び万年筆を走らせ始めた。


「出勤時間と給与体系の抜本的な見直しを行う。まずは役人たちの意識から叩き直す」

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