第53話 経済特区の拡大と移民ラッシュ
初夏の陽光が、アビス大公国の領都を白く眩しく照らし出していた。
分厚い石壁をくり抜いた大公府の最上階にある執務室には、開け放たれた窓から乾いた風が吹き込み、磨き上げられたマホガニーの机の上に山と積まれた書類の端を微かに揺らしている。
独自通貨『アビス・クレジット』の発行から数週間。強固な金準備に裏打ちされた新通貨は、またたく間に周辺諸国の市場を席巻し、旧態依然とした王都の硬貨を駆逐しつつあった。それに伴い、関税ゼロの完全自由市場となったこの新興国には、大陸中から莫大な富と情報が集積され、凄まじい熱量をもって膨張を続けている。
セレスティアン・フォン・ルシフェルは、背もたれに深く体重を預け、手元の決裁書類に無駄のない動作で万年筆を走らせていた。
「東部第二居住区の上下水道延伸工事、石工ギルドからの追加予算申請か。地盤の岩盤層への到達は事前の調査で予測できていたはずだ。予備費の枠内で処理させろ。残業で工期を無理に縮めることは許さん」
一人ごちるように呟きながら、却下の印を淡々と押していく。カリ、カリと硬質な摩擦音が執務室に響き続けた。
彼の足元に敷かれた柔らかな絨毯の上では、黒と茶色の被毛に覆われた若犬――ポチが、イレーネの工房で作らせた複雑なロック機構を持つ特製の知育玩具をすでに解き終え、内部に隠されていたご褒美の干し肉を平らげた後、満足そうに丸まって規則的な寝息を立てていた。
そこへ、控えめなノックと共に首席補佐官のカイラ・アシュフィールドが入室してきた。彼女の腕には、いつにも増して分厚いファイルの束が抱えられている。
「大公閣下。国境の検問所および、移民管理局からの週次報告です」
カイラはファイルを円卓に置き、涼しげな瞳に隠しきれない疲労と驚嘆の色を浮かべた。
「今週の移住申請者の数は、先週をさらに三十パーセント上回りました。特に顕著なのは、技術職の流入です。王都の第一鍛冶ギルドで技術を搾取され続けていた元幹部や、周辺の小国で不当な重税や古いギルドの締め付けに喘いでいた優秀な中堅職人たちまでもが、家族や弟子を連れて国境を越えてきました。彼らは皆、口を揃えて『自分の腕一つで正当な対価が得られる国で働きたい』と言っています」
セレスティアンは万年筆を止め、静かに顔を上げた。
「関税の撤廃と、一日八時間労働。そして何より、生み出した利益が正当に還元されるという事実。それらが大陸中に知れ渡った結果だ。優れた技術を持つ者ほど、旧態依然とした組織での搾取を嫌う。自らの技術が最も高く売れ、適正に評価される場所へ流れるのは、経済の当然の摂理だ」
「はい。彼らは着の身着のままであっても、その頭脳と腕に確かな技術を持っています。しかし、受け入れのキャパシティが限界に近づいています。新設した第五居住区も、すでに八割が埋まりました。このままでは、居住施設の拡張が追いつきません」
「労働環境の保証は国家の責務だが、フリーライダーを養う気はない」
セレスティアンは冷徹な三白眼でカイラを見据えた。
「技術審査の基準を引き上げろ。即戦力となる者と、明確な学習意欲・労働意欲を持つ者だけを居住区へ通す。審査に落ちた者は容赦なく国境へ送り返せ。ここは慈善施設ではない。徹底した能力主義を維持しろ」
「承知いたしました。すぐに管理局へ通達します。それと……」
カイラが少しだけ言い淀む。
「第三実験区画のイレーネ殿ですが、昨夜から工房のシステムログに退室の記録がありません。通信魔導具への応答も途絶えています」
「……またか」
セレスティアンは小さく息を吐き、上着を羽織った。
彼には、移民の受け入れと同じくらい、あるいはそれ以上に優先して処理しなければならない「案件」があった。
★★★★★★★★★★★
領都の南部に位置する、巨大なガラス張りの第三実験区画。
その最深部にある特別研究室に足を踏み入れたセレスティアンは、室内に充満するオゾンと焦げた金属の臭いに微かに眉をひそめた。
「あと少し……この魔力伝導率のロスさえ解消できれば、新型魔導炉の出力が二十パーセント向上する……! 構文の第七節を書き換えて、冷却液の循環を……いや、待って、ここで風属性の補助陣を入れれば……」
巨大な黒板の前で、技術開発統括であるイレーネ・フォン・ヴァルトスタインが、狂ったような速度でチョークを走らせていた。
美しいブロンドヘアは無造作に束ねられ、白衣には用途のわからない薬品の染みや煤がいくつも付着している。視力が悪いため精密作業の時にしかかけない銀縁のアンダーリム眼鏡の奥で、青い瞳には完全に狂気じみた知的好奇心の炎が宿っており、背後から近づくセレスティアンの足音にすら全く気づいていない。
セレスティアンは彼女の背後に立つと、メインデスクに置かれていた駆動用の魔石を、躊躇いなく引き抜いた。
「あっ!? ちょっと、何するの! 今一番いいところだったのに……って、大公様?」
突如として稼働音を止めた機材を振り返り、イレーネが抗議の声を上げる。
「就業規則の第三条、連続労働時間の制限を大幅に超過している。お前のタイムカードは昨日から切られていない」
「私は技術開発のトップなのよ! 研究の熱が乗っている時に、時間の縛りなんて関係ないでしょ! これが完成すれば、街の生産効率がさらに上がるのよ!」
「自己管理ができてこその研究者だ」
セレスティアンは氷のような声で一刀両断した。
「お前が過労で倒れれば、全ての技術開発ラインが停止する。その損失額は、魔導炉の出力向上で得られる利益を遥かに上回る。俺はそんなリスクを許容しない」
「でも……っ」
「業務命令だ。白衣を脱いで着替えろ。これより半日、俺の視察に同行させる。頭を冷やすための強制的な休暇だ」
反論を許さない絶対的な重圧。
イレーネは唇を尖らせたが、これ以上逆らっても無駄であることを悟り、渋々といった様子で手の中のチョークを置いた。
★★★★★★★★★★★
一時間後。
領都の中心部、新たに整備された『技術者特区』の目抜き通りを、長身の男女が並んで歩いていた。
セレスティアンはいつものダークネイビーのスーツ姿だが、隣を歩くイレーネは先ほどの研究オタクの面影を微塵も残していなかった。
彼女が身に纏っているのは、身体の豊満な曲線を完璧に計算して仕立てられた、アイスブルーのサマーニットのワンピースだ。ゴージャスな美貌と相まって、すれ違う職人や商人たちがことごとく足を止めて振り返るほどの破壊的な色香を放っている。
先ほどまでかけていた銀縁のアンダーリム眼鏡をそのままにしていたが、それがかえって、華やかで隙のない容姿に知的な雰囲気を添え、強烈なギャップを生み出していた。
「……信じられないわ」
イレーネは周囲の光景を見渡し、驚きに青い瞳を瞬かせた。
通りには、王都や周辺国から移住してきた職人たちが開いた真新しい工房や店舗がひしめき合っている。店頭に並べられた商品は、ただの生活必需品ではなく、どれもひと工夫が凝らされたものばかりだった。
イレーネが驚愕したのは、そこで当たり前のように使われている技術だった。
「あのパン屋のオーブン……火魔石の出力を時間単位で自動調整してる。あれ、私がポーションの精密抽出用に組んだ基礎プロトコルじゃない! 肉屋の冷蔵ケースもそうよ。冷却魔法の陣を応用して、冷水を循環させながら鮮度を保つなんて……」
「お前が基礎理論をオープンソース化した結果だ」
セレスティアンは歩調を緩めることなく答えた。
「移住してきた熟練の職人たちが、お前の理論を自分たちの専門分野に組み込み、独自に最適化した。彼らには現場で培われた技術と知恵がある。俺たちはただ、それを妨害する古い規制を取り払い、利益を生む環境を与えただけだ」
イレーネは足を止め、ガラス張りのショーウィンドウの向こうを見つめた。
そこでは、王都から移住してきたと思われる若い職人が、魔導技術を使って効率よく金属部品を削り出していた。彼の手元には、分厚い魔導書ではなく、イレーネが執筆して街で安価に配布している『実践・魔導工学の基礎』の小冊子が置かれている。
「王立アカデミーでは……私の研究はいつも『異端』だって笑われてきたわ。伝統的な魔法体系を壊す、実用性のない机上の空論だって。誰も、私の見ている世界を理解しようとしなかった」
彼女の声が、微かに震えていた。
貴族の血筋でありながら、己の好奇心だけを信じて突き進んできた彼女が、王都の硬直した権威主義の中でどれほど冷遇されてきたか。その傷は、決して浅いものではない。
「でも、ここでは違う。私の作った理論が、こんなにもたくさんの人の生活の土台になって……当たり前のように、街を豊かにしている」
セレスティアンは立ち止まり、彼女を見下ろした。
「お前の技術が異端だったのではない。既得権益にすがりつく無能な連中が、自分たちの理解できない変化を恐れ、排除しただけだ」
冷徹な声には、同情も慰めもない。ただの事実だけがあった。
「俺は、生み出される価値と事実しか評価しない。お前の技術は、この国という巨大な法人を回すための最も重要な心臓だ。……だからこそ、メンテナンスを怠り、自己破壊することは絶対に許さん」
イレーネはゆっくりと顔を上げた。
初夏の陽光が、彼女の顔に落ちる建物の影を和らげる。
彼女はふっと艶やかな笑みを浮かべると、悪戯っぽく銀縁の眼鏡を指先で押し上げ、知性と好奇心に満ちたブルーの瞳をきらきらと輝かせてセレスティアンの顔を覗き込んだ。
「……本当に、あなたって人は。私をここまで満たしておいて、ただの『雇用主』で終わるつもり?」
周囲の喧騒を切り裂くような、甘く挑発的な声。
計算されたゴージャスな美貌と、研究者としての狂気。その二つを併せ持つ彼女のアプローチは、並の男であれば一瞬で理性を消し飛ばされるほどの威力があった。
しかし、セレスティアンは表情一つ変えなかった。
至近距離からの挑発的な視線を真正面から受け止め、淡々と前を向く。
「契約以上の待遇を要求するなら、正式な稟議書を通せ。費用対効果が合えば検討してやる」
「もうっ! そうやっていつも逃げるんだから!」
イレーネは頬を膨らませて彼の腕を軽く叩いたが、その表情は明るく、先ほどまでの過労による陰りは完全に消え去っていた。
陽が傾き始め、西の空が柔らかなオレンジ色に染まり出す。
街のあちこちから聞こえていた活気ある槌音は、夕暮れの訪れとともに少しずつ落ち着きを取り戻し、代わりに夕餉の支度をする温かな匂いが漂い始めていた。
やがて、大公府の方角から、一日の労働の終わり――『定時』を告げる低く重厚な鐘の音が、夕空に響き渡った。
セレスティアンはその音を確認すると、歩みを止めて隣のイレーネを見た。
「さて、戻るぞ。お前のメンテナンス時間はここまでだ。明日も業務は山積みだ」
「えー、もう終わり? もっとこの街の面白い応用技術を探したかったのに」
「それこそ明日の就業時間内にやれ。これ以上の超過勤務は認めない」
「はいはい、わかってるわよ。鬼の大公様」
イレーネは呆れたように肩を竦めつつも、その足取りは軽く、楽しげに彼の背中を追う。冷徹な規則と、それに惹きつけられた才能たちが歩む石畳の先には、確かな平穏が広がっていた。




