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左遷された冷血公爵の領地経営改革〜有能な婿を捨てた元妻が泣きついてきましたが、もう遅い。優秀な部下たちと理想の領地を築きます〜  作者: 伊達ジン


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第54話 王国残党軍のゲリラ的妨害

 初夏の朝は早い。


 アビス大公府の最上階。広く清潔な私室の窓からは、白み始めた空の青と、朝露に濡れた街の輪郭が微かに浮かび上がっていた。開け放たれた窓から吹き込む風には、すでに冬の鋭い冷気はなく、土と緑の柔らかな匂いが混じっている。


 セレスティアン・フォン・ルシフェルは、糊の利いたシャツの袖に腕を通す前、オーク材のサイドテーブルに置かれた盆へと手を伸ばした。

 盆の上には、透明なガラスのコップと、小さな陶器の小皿が用意されている。コップに注がれた熟成もろみしぼり酢を一気に煽る。ツンと鼻腔の奥を突く鋭い酸味が胃に落ち、全身の血流が強制的に醒めていく感覚を味わいながら、すぐさま小皿に置かれた純度の高い黒糖を口へ含んだ。


 奥歯で噛み砕くと、土の香りをわずかに残した野性味のある甘さが、口腔内に残る強烈な酸味を中和しながら広がる。疲労物質を分解する有機酸と、脳を直接稼働させる純粋な糖質。前世の過労死の記憶を教訓とする彼にとって、この物理的な自己管理は、国家という巨大な法人を運営するための不可欠な前提作業だった。


 ふと視線を下に向けると、黒と茶色の被毛に覆われた若犬――ポチが、バルコニーの窓際でお座りをして外を眺めていた。

 厳しい冬を越え、すっかり夏毛へと生え変わったポチは、仔犬の頃のような手当たり次第に主の服や靴を噛む乱暴な振る舞いは見せなくなっている。セレスティアンが背後で身支度を整える微かな衣擦れの音を聞きつけると、ポチは一度だけこちらを振り返り、短い尻尾をパタパタと二、三度振った。しかし、すぐにまた興味深そうに外から響く街の喧騒へと鼻先を向け直す。


「……手がかからなくなったな」


 セレスティアンは誰に言うともなく短く呟き、ダークネイビーの3ピーススーツのジャケットを羽織った。主の仕事の時間を察し、自立した行動を取り始めた若犬の姿にわずかな安堵を覚えながら、彼は部屋の扉を開けて執務室へと向かった。


★★★★★★★★★★★


 大公府の中枢に位置する執務室には、朝から活気に満ちた領都のノイズが途切れることなく流れ込んでいた。

 平たく切り出された石畳を叩く重厚な荷馬車の車輪の音や、商人たちが威勢よく値切り交渉をする声。独自通貨『アビス・クレジット』の発行と、関税ゼロの完全自由市場化。その二つの劇薬は、アビス大公国をかつてない速度で膨張させている。


 セレスティアンが重厚なマホガニーの机に向かい、本日の決裁書類の束に目を通し始めた直後、硬質なノックの音とともに扉が開かれた。

 入ってきたのは、首席補佐官のカイラ・アシュフィールドだ。隙のないパンツスーツ姿の彼女は、いつもの涼しげな表情の中に、隠しきれない微かな焦燥を滲ませていた。


「大公閣下。至急のご報告があります」


 カイラは机の前に立ち、分厚い革張りのファイルを広げた。


「東部国境付近……旧王国の領土との境界線を通る主要街道で、また商隊が襲撃されました。今週に入ってこれで3件目です」

「被害の規模は」


 セレスティアンはペンを止めず、視線だけをファイルに向けた。


「クレメント商会が手配した大型馬車2両。積荷は隣国へ輸出予定だった中級ポーションの箱と、第4居住区のインフラ工事に使う予定だった魔導具の部品です。護衛として雇われていた傭兵5名が重傷を負い、積荷は全て奪われました」

「あら、朝から物騒な報告ね。私のところにもたった今、急報が届いたわ」


 開いたままの扉から、カツカツとヒールを鳴らしてヴィオラ・クレメントが姿を現した。彼女は苛立ちを隠すように扇を小さく揺らし、カイラの隣に並び立つ。


「うちの商会だけで、すでに金貨数十枚規模の直接的な損害が出ていますのよ。ポーションの再手配も痛手ですが、それ以上に問題なのは……」

「『アビス・クレジット』の信用に関わる、ということだな」


 セレスティアンが言葉を引き継ぐと、ヴィオラは深く頷いた。


「その通りですわ。私たちが発行した紙幣は『アビスに行けばいつでも安全に物資と交換できる』という前提があるからこそ、機能していますの。国境付近とはいえ、流通網が物理的に脅かされれば、他国の商人たちは買い付けの足を鈍らせる。物流の遅延は、そのまま新通貨の価値の目減りに直結します」


 セレスティアンは机の上の広域地図を引き寄せ、カイラが示した襲撃地点に万年筆の尻で触れた。


「単なる野盗の手口ではないな。積荷の選別が早すぎる上、護衛の傭兵を一方的に制圧している」

「ええ。生き残った御者の証言によれば、襲撃者たちは統率の取れた陣形を組んでいたそうです。軍用の長槍を持ち、後方からは支給品のクロスボウによる援護射撃もあったと。山賊が扱うような粗悪な武器ではありません」


 カイラの報告を裏付けるように、開いたままの扉からソフィアが足早に入室してきた。彼女の細い腕には、暗号化された羊皮紙の束が抱えられている。


「王都周辺の債権回収ギルドから、裏付けの情報を取りまとめてきたわ」


 ソフィアは青緑色の瞳を細め、手元の羊皮紙を机に滑らせた。


「襲撃犯の正体は、旧王都の強硬派貴族たちの残党よ。エリシア殿下が拘束され、王家が事実上破綻した後、自分たちの利権を完全に失った連中ね。給与未払いで離散した近衛の兵士や騎士たちを私兵としてかき集め、野盗化しているの」

「……没落した貴族が、誇りを捨てて盗賊の真似事ですか」


 カイラが嫌悪感を露わにして眉をひそめる。


「彼らは『ここは元々王家の土地であり、自分たちには利益を回収する正当な権利がある』と嘯いているそうよ」


 ソフィアは鼻で笑った。


「王都の経済が崩壊して食い詰めたから、豊かなアビスの物流網を逆恨みして略奪しているだけ。ただの言いがかりよ」

「哀れな方々」


 ヴィオラは扇で口元を隠し、冷酷な嘲笑を浮かべた。


「市場のルールも紙幣の仕組みも理解できず、暴力でモノを奪えば経済が手に入ると思い込んでいるのね。泥船から逃げ出したネズミが、他人の蔵の麦をかじっているようなものですわ」


 セレスティアンは地図から視線を上げ、静かに息を吐いた。

 流通が過熱すれば、その分だけ滞留や障害のリスクも高まる。新興国として急激に膨張するアビスにとって、物流という大動脈の確保は最優先課題であった。


「彼らの個人的な事情や、時代遅れの妄言に興味はない」


 超低音の声が、執務室の空気を一段と冷たく引き締めた。


「問題なのは、我が国という巨大な法人の『動脈』が滞りかけているという、ただ一つの事実だけだ。相手がかつての王国の貴族であろうと、飢えた兵士であろうと関係ない。他者の資産を不法に侵害する行為は、等しく排除されるべき物理的障害でしかない」


 彼は引き出しから一枚の白紙の命令書を取り出し、流れるような手つきで署名と大公の印を刻み込んだ。


「エレナ」


 短い呼びかけに応じ、壁際の影からエレナ・ルージュが静かに一歩前へ出た。

 黒を基調としたタクティカルなパンツスーツ姿の彼女の左胸には、正規役員であることを示す銀の徽章が光っている。かつての王家の筆頭暗殺者は、今やアビス大公国の総合安全保障を統括するトップとして、この執務室の空気に完全に馴染んでいた。


「聞いていたわ。いつでも行ける」


 エレナはダークブラウンの髪を揺らし、獲物を前にした肉食獣のような笑みを浮かべた。


「相手は元騎士や貴族の私兵みたいだけど……一応、旧王国の人間ね。手加減や、生け捕りの必要はあるかしら?」

「不要だ」


 セレスティアンは即答し、万年筆をペン立てに戻した。


「我が国の国境を越え、許可なく武装して荷を奪う者は、身分に関わらずただのテロリストだ。対話の余地はない」


 彼は冷徹な三白眼で、真っ直ぐにエレナを見据えた。


「物流の停止は、国家の信用の停止を意味する。一日の遅延も、一銅貨の損害も許容しない。今日の夕刻までに、東部街道の障害を完全に物理的に排除しろ。これは防衛ではなく、不要な障害物の『清掃』だ」


 一切の感情を排した、純粋な合理性に基づく命令。

 エレナはその冷酷な響きに楽しげに唇の端を吊り上げた。


「了解。速やかに片付けてくるわ。……出張手当と、危険任務手当はしっかり弾んでよね?」

「成果に見合った対価は保証する。行け」

「御意」


 エレナは恭しく一礼すると、身を翻して足早に執務室を後にした。彼女が率いる特殊部隊が動けば、東部街道を荒らす残党軍など数時間後には文字通り形も残らないだろう。


 セレスティアンは残された三人に視線を移した。


「カイラ、東部街道を迂回している商隊への補償の手配を。ヴィオラは奪われた物資の再発注と、市場の価格統制を頼む。ソフィアは引き続き、残党軍の別動隊がいないか裏付けを取れ」


 的確な指示を出し終えると、セレスティアンは視線を机に戻し、何事もなかったかのように次の決裁書類に手を伸ばした。

【書籍発売のお知らせ】


作者の別作品『実力S級の俺、配信切り忘れで「虚無顔でボスを瞬殺する姿」が全国放送されてた件。今さら「ただの荷物持ち」とは言えない~定時で帰りたいので、追放してくれてありがとう~』第1巻が、9月4日に発売されます。


現在予約受付中です。


もしご興味がありましたら、こちらもチェックしていただけると嬉しいです。


書籍の詳細は近況ノートをご覧ください。

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