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左遷された冷血公爵の領地経営改革〜有能な婿を捨てた元妻が泣きついてきましたが、もう遅い。優秀な部下たちと理想の領地を築きます〜  作者: 伊達ジン


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第52話 独自通貨『アビス・クレジット』の発行

 アビス大公府の最上階。セレスティアン・フォン・ルシフェルは、広大なマホガニーの執務机に向かい、次々と運び込まれる決裁書類の山を無駄のない動作で処理していた。

 窓の外からは、経済特区として爆発的な発展を続ける領都の喧騒が、途切れることのない心地よいノイズとして流れ込んでくる。各国の特権商人たちが交わす異国の言葉、新しい工房を建設するための活気ある槌音、そして重厚な荷馬車が石畳を叩く音。かつて限界集落と呼ばれたこの地は、今や大陸有数の巨大な経済機構へと変貌を遂げていた。

 セレスティアンは手元の書類――南部の新たな鉱山開発に関する予算案――に万年筆で承認のサインを書き込むと、静かに息を吐いた。


 足元の影では、ポチがイレーネの工房で作らせた木製の知育玩具と格闘している。

 立方体の木箱の側面には様々な形状の穴が空いており、内部に隠された干し肉の匂いが微かに漏れ出ている。ポチは力任せに噛み砕くような無駄な真似はしない。短い前足を器用に使って木箱の角度を変え、鼻先で特定の仕掛けを順番に押し込み、コトンと干し肉が落ちてくるのをじっと待つ。その動作には、野生の勘ではなく、論理的な学習の萌芽が確かに存在していた。


「……賢くなったな」


 セレスティアンが視線を落とさずに低く呟くと、ポチは短い尻尾をパタパタと振り、手に入れた報酬を満足げに咀嚼した。


 そこへ、控えめなノックとともに扉が開く。

 首席補佐官のカイラ・アシュフィールドと、監査役のソフィアが連れ立って入室してきた。カイラの手には数枚の報告書が握られ、ソフィアの表情は珍しく険しい。


「大公閣下。今朝の市場で、ゼノア公国からの中央商隊が、王国発行の旧銀貨による決済を完全に拒否しました。それに同調し、他の主要なギルドも次々と旧通貨での取引を停止し始めています」


 カイラは抑揚のない声で事実だけを告げ、デスクの端に報告書を置いた。


「……ついに現場で弾かれたか。理由の裏取りは」

「ここにあるわ」


 ソフィアが一歩前に出て、手にしていた革袋からジャラリと数枚の硬貨を机の上にぶちまけた。

 王家の双頭の鷲が刻印された、見慣れたはずの旧王国の銀貨。しかし、その輝きはひどく鈍く、表面の刻印もどこかぼやけている。ソフィアがその1枚を指先で弾くと、銀特有の高く澄んだ音ではなく、ボソッという鈍く重い音がした。


「王都の造幣局が、借金返済と軍への未払い給与を誤魔化すために新しく鋳造した銀貨よ。裏ルートから現物を押さえて成分を調べたけど……銀の含有量が、規定の3割を切ってる。ほとんど鉛と銅の塊ね」


 ソフィアは手についた見えない汚れを払うようにパパンと両手を叩き、吐き捨てるように言った。


「王都では今、この粗悪な硬貨が市場に出回ったせいで凄まじいインフレが起きてるわ。黒パン一つ買うのに、この鉛の塊を両手いっぱいに積まないといけない状況よ」


 財政が破綻した国家が最後に手を染める、貨幣の悪鋳。手持ちの貴金属を溶かし、卑金属を混ぜてかさ増しすることで、額面上だけの数字を作り出す愚行だ。しかし、そんな子供騙しが市場で通用するはずがない。


「沈みゆく泥船がどうなろうと知ったことではないが、こちらの物流の足元をすくわれるわけにはいかない。信用できない通貨が市場に紛れ込めば、健全な経済活動そのものが麻痺する」


 セレスティアンは卓上の粗悪な硬貨を一瞥し、静かにペンを置いた。


 ちょうどその時、来客を告げる短いベルが鳴り、ヴィオラ・クレメントが入室してきた。

 彼女は体にフィットした洗練されたパンツスーツを纏い、手にした羽根扇で軽く口元を隠している。


「あら、皆様お揃いで。……セレスティアン、うちの商会でもついに実害が出始めましたわ」


 ヴィオラは机の上に散らばる粗悪な銀貨に冷ややかな視線を落とし、小さくため息をついた。


「価値の担保されない金属片では、帳簿の数字がどれだけ大きくても、他国での仕入れには使えません。このまま王国の旧通貨を使い続ければ、いずれアビスの経済もあの泥船に引きずり込まれますわよ。早急な対策が必要ですわ」

「だろうな」


 セレスティアンは淡々と応じ、デスクの最下段の引き出しを開けた。

 そして、束になった真新しい「紙片」を取り出し、机の中央へ放り投げた。


 バサリ、という軽い音が響く。

 それは、貴金属ではなく、淡い青みを帯びた上質な紙だった。表面には精緻な幾何学模様と、アビス大公国の新たな紋章が刻まれている。


「……紙、ですか?」


 ヴィオラが目を細め、その1枚を手に取った。指先に伝わる質感は、通常の羊皮紙とは全く異なる、強靭で滑らかなものだ。少し光に透かしてみると、紙の内部に微細な粒子の連なりが浮かび上がった。


「イレーネの工房で開発させた特殊な魔導繊維紙だ。内部に微小な魔石の粉末を特定の配列で漉き込んである。紙そのものの耐久力は通常の羊皮紙の数十倍。万が一偽造しようとしても、専用の魔導具を通せば一瞬で看破できる仕組みになっている」

「偽造防止技術は完璧でしょうけれど……紙切れそのものに価値はありませんわよ。これを商人たちに『金』として認めさせるおつもりで?」

「ただの紙ではない。これは『兌換紙幣』だ」


 セレスティアンの氷のような三白眼が、ヴィオラを真っ直ぐに射抜いた。


「この『アビス・クレジット』1枚で、大公府の地下金庫に備蓄された同額の金塊、あるいはクレメント商会が扱う最高品質のポーションとの交換を無条件で保証する」


 その言葉の意味を理解し、カイラとヴィオラの表情が同時に引き締まった。


「……圧倒的な金の準備高と、他国が絶対に真似できない実物資産による裏付け。王国の粗悪な金属片よりも、アビス大公国が発行するこの『紙』の方が、遥かに確実な価値の保存手段になるということですね」


 カイラが推論を口にすると、セレスティアンは短く頷いた。


「そうだ。ヴィオラ、今日からクレメント商会が扱う全ての卸売決済、および周辺国への輸出取引を、この『アビス・クレジット』に限定しろ。旧王国の通貨での支払いは一切受け付けるな。どうしても買いたければ、手持ちの金銀や物資を、アビスの基準レートでこの紙幣に両替してから買えと突きつけろ」


 ヴィオラは手にした紙幣を見つめ、ふっと艶やかな笑みを漏らした。


「……悪魔のような手口ですわね。商人たちは、喉から手が出るほど欲しいアビスの特産品を買うために、嫌でもこの紙切れを受け入れ、自国に持ち帰る。そうして周辺国の市場に流通し始めれば、この紙は大陸全土の新たな基準になる。通貨発行権を完全に握るということは……」

「大陸の経済の首根っこを掴むということだ。やれるか」

「誰に物を言っていますの?」


 ヴィオラは紙幣を扇の代わりに口元へ当て、好戦的で美しい目を細めた。


「私の商会網を隅々まで使って、大陸中にこの美しい紙切れをばら撒いて差し上げますわ」


★★★★★★★★★★★


 それから数日後の休日。


 アビス大公国の中心部に位置する、高級商業区のメインストリート。

 関税ゼロの恩恵と、圧倒的な治安の良さに惹かれて周辺国から集まった特権商人たちが行き交うこの大通りは、かつての王都の繁華街すら凌ぐ活気と洗練を誇っていた。道の両脇にはクレメント商会が誘致した豪奢な石造りの店舗が並び、ガラス張りのショーウィンドウには異国の珍しい品々が飾られている。


 その一角、大通りを見渡せる瀟洒なオープンカフェのテラス席に、セレスティアンとヴィオラの姿があった。


 休日の私服として、セレスティアンは無駄な装飾を省いたダークグレーのタイトなジャケットを羽織り、ネクタイは外して襟元をわずかに開けている。その隣に座るヴィオラは、深いワインレッドのタイトドレスに身を包んでいた。胸元のカッティングが大胆で、大人の色香を隠そうともしない装いは、通りを行き交う男たちの視線を否応なく引き寄せる。

 だが、セレスティアンが発する冷たく近づきがたいオーラの前に、誰一人として不用意に声をかけようとする者はいなかった。

 テーブルの上には、焙煎されたばかりのコーヒーと、上品な甘さの焼き菓子が並べられている。


 ヴィオラは脚を組み替えながら、細い指でコーヒーカップの縁をなぞり、通り沿いの巨大な両替所の前にできた列を視線で示した。

 両替所のカウンターでは、周辺国からやってきた商人たちが自国の重い金貨や、かさばる物資の目録を差し出し、代わりに真新しいアビス・クレジットの札束を受け取っている。彼らは受け取った紙幣を太陽の光に透かし、精巧な透かし模様を確認しては満足げに頷き、専用の革財布にしまい込んでいた。


「たった数日でこれよ。王国の旧通貨なんてもう誰も見向きもしないわね」


 ヴィオラが手元のコーヒーを一口飲み、満足げに微笑む。


「偽造のリスクがある粗悪な金属片より、価値が担保された紙を選ぶのは当然だ」


 セレスティアンは氷の浮かぶ果実水を手に取り、淡々と応じた。商人の行動原理など、計算通りに動く歯車にすぎない。重くてかさばり、輸送コストがかかる金属貨幣よりも、信用という担保がある限り、軽くて持ち運びやすい紙幣の方が流通の効率は圧倒的に高い。


「それにしても」


 ヴィオラはテーブルの上に肘をつき、艶やかな顔をセレスティアンへと近づけた。彼女が動くたび、微かな香水が初夏の風に混じって鼻腔をくすぐる。


「休日に私をこうして街へ連れ出すなんて。ただの市場調査というわけではなさそうですわね?」

「俺の視察に、最も有益な意見を出せるのはお前だからだ」

「つれない言葉。少しはエスコートする男性としての甘い台詞でも期待していたのですけれど」


 口ではそう言いながらも、ヴィオラの目には確かな優越感が揺らめいていた。

 王都の腐りきった貴族たちのように、家柄や権力だけで女を飾ろうとする男たちとは違う。この目の前の男は、自分の商才と能力を完全に評価し、対等なプレイヤーとしてこの席に座らせているのだ。その事実が、彼女の自尊心を心地よく満たしていた。


「甘い言葉より、確実な利益の方がお前の好みだろう」

「ええ、もちろん。だからこそ、あなたに賭けたのですから」


 ヴィオラは妖艶に微笑み、自分の席から立ち上がると、自然な動作でセレスティアンの背後に回り込んだ。彼女の柔らかな胸元が、意図的にセレスティアンの肩に軽く触れる。通りを行き交う何人かの男が羨望の目を向けたが、二人は意に介さない。


「ねえ、セレスティアン」


 彼女の唇が、彼の耳元で囁くように動いた。


「通貨を握り、物流を支配した。王都は自重で崩壊を待つばかり。……あなたは私を、この先どこまで連れて行ってくれるのかしら?」


 誘惑と、底知れぬ野心が入り混じった問い。

 もしこれが並の男であれば、彼女の放つ色香に当てられて気の利いた台詞を取り繕うか、あるいはその重圧に耐えかねて目を逸らしていただろう。だが、セレスティアンは表情を変えることなく、前を見据えたまま静かに答えた。


「すべてを飲み込むまでだ。お前がその商会網を維持できる限り、大陸の富はすべてこのアビスに集束する」


 揺るぎない、冷酷なまでの絶対の自信。

 その底知れないスケールに、ヴィオラは彼の肩からゆっくりと身体を離し、恍惚とした吐息を漏らした。


「……ゾクゾクしますわね」


 冷徹な実務と、極限の合理性によって構築されていく新しい世界。彼女はその最前線で、この規格外の男と共に踊り続ける権利を手に入れたのだ。利益の匂いと、これまでにない巨大な権力の胎動が、彼女の商人としての本能を激しく昂ぶらせていた。


「午後からは東の工業区画へ向かう。イレーネの新しい魔導炉の稼働状況を確認する」


 セレスティアンが立ち上がり、ジャケットの襟元を正す。


「ええ、お供しますわ。私の商会が、どれほどの物資を運べばいいのか、直接見ておかなければなりませんから」


 ヴィオラも嬉々として頷き、彼と並んで歩き出す。

 二人は、初夏の日差しが降り注ぐ石畳の通りへと、力強い足取りで向かっていった。

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