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左遷された冷血公爵の領地経営改革〜有能な婿を捨てた元妻が泣きついてきましたが、もう遅い。優秀な部下たちと理想の領地を築きます〜  作者: 伊達ジン


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第51話 大公国の初登庁と新規事業計画

 アビス大公府、最上階。

 東向きの窓から、初夏の鋭い朝の光が執務室兼私室に差し込み、磨き上げられたオーク材の床に長い影を落としている。


 セレスティアン・フォン・ルシフェルは洗面台の鏡の前に立ち、首元までボタンを留めたシャツの襟を整えていた。アビス大公国としての建国宣言から数日が経過し、表向きの熱狂と祝祭騒ぎは一段落したものの、水面下で処理すべき実務は辺境伯時代の比ではない。


 鏡の横に用意されているのは、新しく仕立てられたダークネイビーのスリーピーススーツだ。王都の貴族たちが好むような過剰な金糸の刺繍や華美な装飾は一切ない。上質なウール生地の微かな光沢と、極限まで計算されたカッティングだけで、着る者の威厳を担保する代物である。ベストに腕を通し、銀のカフスを袖口に滑り込ませる。カチャリという微かな金属音が静かな部屋に響いた。


 その音に反応するように、部屋の隅に置かれた長椅子の上から、トンッと軽い着地音が聞こえた。


 視線を向けると、黒と茶色の被毛に覆われた若犬――ポチが、音もなく足元まで歩み寄ってきていた。

 数ヶ月前、王都から追放された直後の路地裏で拾った瀕死の毛玉は、厳しい冬を越え、今や見違えるほどしっかりとした骨格を持つ若犬へと成長しつつある。冬毛から夏毛へと生え変わった被毛は、十分な栄養状態を証明するように艶やかな光沢を帯びていた。


 乳歯が生え変わる時期の、手当たり次第に靴や家具に噛み付く無軌道な時期はすでに過ぎ去った。最近の彼は、主の朝の行動パターンを注意深く観察し、的確なタイミングを計ることを覚えていた。


 セレスティアンが上着に手を伸ばすため、鏡の前から一歩身を引いた瞬間だった。

 ポチは床に短い尻尾をつけ、彼が見下ろす視界のど真ん中に正確に座り込んだ。そして、一切鳴き声を上げることなく、琥珀色の丸い瞳でじっと主の顔を見上げる。


「……邪魔だ」


 低い声で告げるが、ポチは動かない。ただ背筋を伸ばしたまま、右の前足をほんの少しだけ持ち上げ、宙を掻くような仕草を見せた。撫でろ、という無言の要求だ。大公としての威厳を纏おうとする主の邪魔はしないが、出勤前のこの数秒間だけは自分に注意が向けられることを、彼は経験則から完全に理解している。


 前世での、息詰まるような孤独な朝には存在しなかった温かな質量。

 セレスティアンは小さく息を吐き、しゃがみ込んだ。大きな手のひらで耳の裏から首筋にかけてを数回掻いてやると、ポチは満足げに目を細め、鼻先を彼の手首に押し付けてきた。


「後にしておけ。今日は長くなる」


 立ち上がり、上着を羽織る。ポチはそれ以上は追ってこず、賢くその場に伏せて主の出勤を見送る体勢に入った。


 私室の重い扉を開けると、そこにはすでに首席補佐官のカイラ・アシュフィールドが待機していた。


「おはようございます、大公閣下」


 彼女は両腕に分厚いファイルを抱えながら、完璧な角度で頭を下げた。ダークネイビーのパンツスタイルは動きやすさを重視しているが、その所作には元騎士らしい揺るぎない規律がある。


「その呼び方は、まだ慣れんな」

「対外的な公文書にはすでに使用されております。内部の実務においては、これまで通りCEOとして扱わせていただきますが、各国の使節団の前ではご容赦を」


 カイラは彼と並んで歩き出し、即座に一番上にあるファイルを開いた。


「昨夜遅くに到着したゼノア公国からの親書、および北部商業連盟からの関税に関する問い合わせは、優先度別に分類して執務室のデスクに配置済みです。しかし、その前に……」

「第1回役員会議だな」


 大公府の廊下を進む二人の横を、初夏の風が通り抜けていく。開け放たれた窓の下には、朝から活気に満ちた領都の全景が広がっていた。新設されたばかりの第4居住区には赤茶けた真新しい屋根が連なり、平たく切り出された石畳の街道を、周辺国からの商隊が絶え間なく行き交っている。かつて死の街と呼ばれた辺境領は、今や数万の人口を抱える巨大な経済都市へと変貌を遂げていた。


 セレスティアンは歩調を緩めることなく、大公府の奥に設けられた特別会議室へと向かった。


★★★★★★★★★★★


 重厚な両開きの扉が開かれると、すでに7人の役員たちが巨大な円卓を囲んで着席していた。

 セレスティアンが上座に腰を下ろすと同時に、室内の空気が一段と張り詰める。


「全員揃っているな。独立に伴う第1フェーズの処理状況の報告を」

「法務および渉外関係は、予定通り進行中です」


 カミラ・フォン・ローゼンベルクが、手元にある数枚の書類を指先で軽く弾きながら口を開いた。


「王都に対する全債務の不履行通知、および周辺国への国家承認の要請。ゼノア公国を含む3カ国からは、すでに非公式ながら事実上の承認を取り付けました。ゼノア公国は今週末にも正式な使節団を派遣してくる予定です。残る小国群も、王都の経済破綻を目の当たりにしているため、こちらになびくのは時間の問題ですわ。旧王国の特権ギルドたちも、すでに王家を見限ってこちらの法務局へ個別の取引申請を出してきています」

「広報戦略も順調よ」


 クロエ・ヴァレンタインが、手元の資料から視線を上げ、落ち着いたトーンで続く。


「『王家の圧政から解放された自由と革新の国』。この概念は周辺国の民衆レベルにまで浸透しているわ。旧王都の市場で、アビス領の物資の横流し品が通常の10倍の価格で取引されているという情報も流してある。王都から逃れてきた商人たちの口コミも手伝って、国際社会の世論はこちらに有利に働いている。王都の貴族たちが何を喚こうと、彼らはただの強欲な侵略者としてしか見られないわ」


「防諜網の再構築も完了しています」


 エレナ・ルージュが、姿勢を崩さずに淡々と報告する。


「国境付近で不審な動きを見せた王都の工作員を3名確保しました。王都の残党や不満分子が入り込む隙は、物理的にも情報的にも存在しません。地下水路からの侵入ルートも完全に塞ぎました。確保した工作員は地下の拘置室で尋問中ですが、すでに王都の強硬派貴族との繋がりを自白しました。報告書は後ほどデスクへ」


 ソフィア・ランカスターが、集めた帳簿の写しを円卓の中央に押し出しながら言った。


「王都の内部情報も監視を続けてるわ。物価の上昇率はさらに跳ね上がって、まともな軍事行動を起こせるような資金も物資も、あっちにはもう残ってない。近衛騎士団への給与未払いも3ヶ月目に突入して、一部の部隊はすでにストライキ状態よ。脱走兵が日を追うごとに増えているわ。彼らの武器や防具が闇市場に流れているのがその証拠」


 ヴィオラ・クレメントが、手元の万年筆を置き、視線をセレスティアンに向けた。


「物流も安定しています。関税の完全撤廃により、特区への投資と商人の流入はさらに加速しています。新設した第4居住区もすでに8割が埋まりました。各国の商人たちは、王都を迂回して直接このアビス領へ物資を運び込んでいます。あとは、イレーネ様の工房がどれだけ新しい生産ラインを稼働できるかですわ」


 名前を呼ばれたイレーネ・フォン・ヴァルトスタインは、展開していた巨大な設計図面から顔を上げ、銀縁眼鏡の位置を直した。


「メイン魔導炉の拡張はスケジュール通り。でも、これ以上の生産ラインの増強には、さらに高純度の魔石と……それに応じた追加予算が必要になるわ。ゼノア公国からの輸入ルートだけじゃ、いずれ頭打ちになる。早急に新しい供給元を開拓しないと、来月にはポーションの生産目標を下方修正することになるわよ」


「南部の鉱山都市との新規取引ルートの開拓は、ヴィオラに一任する。今週末までに供給の目処を立てろ」

「承知いたしましたわ」


 ヴィオラが短く応じる。


 短い報告が途切れ、円卓に静寂が訪れる。

 セレスティアンは手元のグラスに入った冷水を一口含み、円卓を見渡した。


「第1フェーズの処理は及第点だ」


 低い声が、部屋の空気を引き締めた。


「だが、我々は独立を果たしたが、それはただ自陣の周囲に防衛ラインを引いただけにすぎない。王都という泥船から切り離されただけであり、ここからが本題だ」


 カイラが新しい羊皮紙を広げ、ペンの先を紙面に落とす準備をした。


「これより、このアビス大公国を1つの巨大な法人として定義する。我々が目指すべきは、現状の維持などという消極的なものではない。次なる目標は、大陸全土の経済圏の完全な掌握だ」


 その言葉のスケールに、ソフィアが小さく息を呑んだ。イレーネも設計図から完全に手を離し、彼を見つめている。


「武力による領土の拡大はコストに見合わない。我々は、情報と技術、そして物流によって、他国がこの大公国なしでは経済を維持できない状態を作り出す。関税撤廃によるモノの流入はあくまでその布石にすぎない」

「……そのための、第1手は?」


 ヴィオラが、商人の鋭い目を向けて問う。


「通貨の支配だ」


 セレスティアンの即答に、カミラの目が微かに細められた。


「王国の旧通貨は、王家の財務破綻によりすでに紙屑同然となりつつある。周辺国も、共通の決済手段が揺らいでいることで物流に摩擦が生じているはずだ。そこに介入する。圧倒的な技術力と、ポーションという実体価値を担保にした、強固な独自通貨を発行する。名前は『アビス・クレジット』とする」


 セレスティアンは視線をヴィオラとカミラに向けた。


「ヴィオラ、お前の商会網を使って、この新通貨を周辺国の決済の標準として機能させるための流通スキームを構築しろ。カミラ、お前は周辺国の有力ギルドを抱き込み、新通貨の使用を前提とした新たな法的枠組みを法務局と作り上げろ」

「承知いたしましたわ。他国の決済網を根底から書き換えるということですわね」


 ヴィオラが短く応じる。


「お任せを。喜んで他国の首根っこを押さえる鎖を編んで差し上げますわ」


 カミラも書類に目を落としながら頷いた。


「エレナ、周辺国の為替相場に介入しようとする不穏な動きがないか、各国の裏社会に探りを入れろ」

「了解。ネズミが湧く前に潰しておくわ」

「カイラ。通貨発行に伴う中央銀行に相当する組織の設計と、初期の人員配置案を明日の午後までに提出しろ」

「承知いたしました」


 カイラは流れるような手つきで要件をメモしていく。


 セレスティアンは席を立ち、上着のボタンを留めた。


「定時までに、それぞれの初期タスクを終わらせろ。会議は以上だ」


 彼が背を向けて扉へと向かうと、7人の役員たちも一斉に立ち上がり、それぞれの執務室へと向けて散っていく。


 セレスティアンは廊下に出ると、待機していたカイラから最初の決裁書類を受け取り、歩きながらその内容に目を通し始めた。

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