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左遷された冷血公爵の領地経営改革〜有能な婿を捨てた元妻が泣きついてきましたが、もう遅い。優秀な部下たちと理想の領地を築きます〜  作者: 伊達ジン


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第50話 俺の完璧なスローライフ

 初夏の陽光が、西の山際に差し掛かろうとしていた。

 アビス大公府の最上階。執務室の窓からは、夕暮れ特有の深いオレンジ色の光が差し込み、マホガニーの広いデスクを鮮やかな色合いに染め上げている。微かに開いた窓の隙間からは、1日の労働を終えた者たちが家路を急ぐ足音や、夕餉の準備を始める家々から漂う薪の匂いが、穏やかな風に乗って室内に運ばれてきていた。


 壁に掛けられた重厚な魔導時計の針が、16時50分を指している。

 デスクに向かうセレスティアン・フォン・ルシフェルは、恐るべき速度で手元の決裁書類に万年筆を走らせていた。


「……第3区画の下水道延伸工事における、石工ギルドからの追加予算申請です」

「却下だ。先月の地質調査の段階で、硬い岩盤に当たることは予測できていたはずだ。予備費の枠内で処理させろ。どうしても足りないなら工期を延ばせ。労働者の残業でカバーすることは許さん」


 首席補佐官のカイラ・アシュフィールドが読み上げる案件に対し、セレスティアンは書類から視線を上げることなく即答し、承認、あるいは差し戻しの印を淡々と押し続けていく。


「イレーネ殿より、新型魔導炉の出力テストに伴う深夜の特別警戒態勢の要請が上がっています」

「テストは明日の日中にスケジュールを組み直させた。夜間の人員配置コストに見合わない。そもそもあいつは徹夜する気だっただろう。工房の電源は18時で強制的に落とせ」

「ソフィアから、王都の残党に関する新たな資金の流れの報告です。小規模な商会を隠れ蓑にしている模様」

「エレナの部隊が既にそのダミー商会を嚙ませて口座を凍結済みだ。泳がせておけ。……次」

「商業ギルドより、隣国との国境地帯における新たな関税免除措置の拡大要請」

「保留。免除対象の品目リストが甘すぎる。国内の一次産業に打撃を与えかねない。明日、ギルド長を呼んで直接詰める。……次だ」


 カリカリという硬質なペン先の音だけが、小気味良く室内に響く。

 セレスティアンの足元では、ポチが丸くなったまま静かに待機していた。長い尻尾の先だけが、主がペンを置くその瞬間を期待するように、微かに床を叩いている。


 時計の長針が、ゆっくりと頂点へと近づいていく。

 そして、17時00分。

 魔導時計が、終業を告げる低く荘厳な鐘の音を響かせた。


 その1打目が鳴り終わるよりも早く、セレスティアンは万年筆をペン立てに戻し、最後に押印した書類の束をカイラの方へ滑らせた。


「本日の業務を終了する。各員、直ちに退庁しろ」

「……はい。お疲れ様でした、大公閣下」


 カイラはわずかに口元を緩め、書類の束を丁寧に抱え直した。


 セレスティアンは椅子から立ち上がり、軽く首を回した。


「くぅんっ!」


 待ちわびていたポチが弾かれたように立ち上がり、セレスティアンの膝に前足をかけて短い歓喜の声を上げる。


「ああ。行くぞ」


 セレスティアンはポチの首筋を撫でながら、壁際のコート掛けからダークネイビーの上着を手にとった。


★★★★★★★★★★★


 領都の中心を貫く目抜き通りは、夕暮れの柔らかな光と、無数に灯り始めた魔導灯の青白い光が入り交じる独特の色彩に包まれていた。

 仕事帰りの職人たち、夕食の買い出しに出た家族連れ、そして1日の売り上げを計算しながら片付けをする露天商たち。石畳の上を行き交う人々の表情は明るく、足取りは軽い。


 その人波の中を、セレスティアンは歩いていた。

 ポチの丈夫な革製リードを握る彼の手の横には、執務服から薄灰色の私服に着替えたカイラが並んで歩いている。


 すれ違う領民たちが二人の姿に気づいてハッと立ち止まり、深く頭を下げていく。セレスティアンは足をとめることなく、視線や短い会釈だけでそれに応じた。


「……周囲の警戒態勢は緩んでいませんが、それでも不用意に近づこうとする者が絶えませんね」


 カイラが周囲の人々の動きを視界の端で捉えながら、静かに呟いた。彼女の視線は、無意識のうちに建物の死角や路地の入り口へと向けられている。


「視察ではないと言ったはずだ。肩の力を抜け。ここは最前線ではない」

「頭では分かっているのですが。どうも、あなたが無防備に人混みを歩いていると、背筋が伸びてしまって」


 カイラは自嘲気味に笑い、セレスティアンとの距離をわずかに縮めた。


「最初の頃を思い出します。あの、泥にまみれ、誰もが明日を諦めて蹲っていた代官所の前庭を。あの頃は、いつ暴動が起きてもおかしくない空気でした」

「戻りたいか」

「……いいえ、絶対に」


 即答する彼女の横顔には、僅かな微笑みが浮かんでいた。


 ふと、食欲を暴力的に刺激する香ばしい匂いが風に乗って漂ってきた。

 道の端に設営された真新しい屋台からだ。鉄板の上で、領内で採れた甘みの強い根菜と、厚く切られた豚肉が特製の醤油ダレと絡み合いながら音を立てて焼かれている。店主が手際よく串を返し、その度に白い煙が食欲をそそる香りを撒き散らした。


 セレスティアンが立ち止まると、ポチもすぐに「お座り」の姿勢をとって屋台の方をじっと見つめた。


「何か食べるか」

「えっ……ここで、ですか?」

「今は定時後だ。肩書きは執務室に置いてきた」


 セレスティアンは屋台の店主に銀貨を渡し、串に刺さった熱々の肉を2本受け取ると、その1本をカイラへと差し出した。

 周囲の視線を気にしつつも、躊躇いながらそれを受け取ったカイラは、小さく口を開いて肉を齧る。


「……」


 熱と脂、そして複雑なタレの旨味が口の中に広がり、彼女の涼しげな瞳がわずかに見開かれた。


「美味いか」

「はい。とても」

「少しタレの粘度が高いな。焦げ付きやすくなる。だが、肉の筋切りは完璧だ。労働者の胃袋を満たすには十分な質だろう」


 セレスティアンは自分の分の串を咀嚼しながら、淡々と呟いた。


「……そういうところは、執務室に置いてこれないのですね」


 カイラは呆れたように息を吐いたが、すぐにクスクスと声を上げて笑った。


 二人はそのまま、街を眼下に見下ろせる高台の広場へと向かった。

 広場のベンチに腰を下ろすと、ポチは心地よさそうにセレスティアンの足元に伏せ、微かな寝息を立て始めた。


 眼下には、見渡す限りの光の海が広がっていた。

 魔導灯の青い光、屋台の赤い炎、そして家々の窓から漏れる暖かなオレンジ色の光。風に乗ってかすかに届く人々のざわめきは、どこまでも穏やかだ。


「……あ」


 カイラが不意に、眼下の通りの中央を指差した。


 光の海の中、特別に設えられた小さなステージの上で、人だかりができている。そこには、派手なドレスを翻しながら見事なステップを踏み、観客から万雷の拍手を浴びているクロエの姿があった。

 さらにその少し先、大通りに面した高級レストランのテラス席では、ヴィオラが異国の商人らしき男たちを前に、優雅にグラスを傾けながら何やら談笑している。そのテーブルの上には、分厚い契約書らしき羊皮紙が置かれていた。

 視線を上に向ければ、月明かりに照らされた屋根の上を身軽に跳躍して移動するエレナの影が見え、暗い路地の入り口では、密偵から情報を受け取っているソフィアの小さな姿が一瞬だけ街灯に照らされた。


「誰も彼も、定時後だというのに精が出ますね」

「好きでやっている連中だ。止めはしない。労働ではなく、ただの余暇の過ごし方だ」


 セレスティアンは短く返し、手元の果実水を一口飲んだ。


「お前はどうだ。休めているか」


 不意の問いに、カイラは視線を眼下の光の海から手元の串へと移した。


「……ええ。最初の頃は、仕事から離れることに恐怖がありました。自分が手を止めれば、またあの地獄に戻ってしまうのではないかと。休むことは、罪悪感すら伴うものでした」


 カイラは顔を上げ、夜風に髪を揺らしながら真っ直ぐにセレスティアンの横顔を見つめた。


「でも、今は違います。誰もが自分の足で立ち、働き、そして適正に休むことができる。それがこの街の当たり前になった。だから私も、安心して仕事の手を止めることができます」

「俺は、俺自身が休むために仕組みを作っただけだ」

「知っています」


 カイラは少しだけ身を乗り出し、セレスティアンの大きな手に、自らの手をそっと重ねた。

 剣を握り続けてきた痕跡が微かに残る、少し硬い手。だが、その温もりは確かだった。セレスティアンは重ねられた手を振り払うことはせず、ただ静かにカイラの瞳を見つめ返した。


「……お疲れ様でした。セレスティアン」


 その言葉には、大公と補佐官という主従の響きはなく、ただ背中を預け合った対等な相棒に対する、深い親愛が込められていた。


 セレスティアンは小さく息を吐き、視線を夜空へと向けた。


「これで終わりではない。明日も明後日も、同じように利益を出し続ける。俺たちの生活を維持するためにな」

「ええ。分かっています」

「そのためには……」


 セレスティアンは再び視線を下げ、カイラの顔を真っ直ぐに見据えた。


「明日の朝も、必ず俺を起こしに来い。遅刻は許さん」


 その不器用すぎる言葉に、カイラは一瞬目を丸くした後、耐えきれないように肩を揺らして笑い出した。

 静かな広場に、彼女の明るく、飾り気のない笑い声が響く。足元で眠っていたポチが目を覚まし、不思議そうに短い尻尾をパタパタと振った。


「……はい。承知いたしました」


 笑い収まったカイラは、極上の微笑みを浮かべて立ち上がった。


「行きましょうか。夜風が少し、冷たくなってきました」

「ああ」


 セレスティアンも立ち上がり、ポチのリードを引き寄せる。

 眼下に広がる街の灯りは、夜が深まっても消えることはない。だが、それはもう命をすり減らすような絶望の明かりではない。明日という日を確実に迎えるための、豊かな夜の証だった。


「明日の朝食は、東区画で新しく開いたパン屋のものを試してみませんか。最近、領民の間で評判が良いそうです」

「構わんが、甘すぎるものは避けておけ。朝から思考が鈍る」

「ふふ、分かりました。では、店主にそう伝えておきますね」


 二人の足音と、ポチの軽快な足取りが、石畳の上に静かに響いていく。

 夜の帳が完全に下りた街を、彼らは並んで歩き続けた。

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