第49話 ホワイト企業のジレンマ
初夏の眩しい陽光が、アビス大公府の執務室に満ちていた。
分厚い石壁をくり抜いた窓からは、乾いた風が心地よく流れ込み、磨き上げられたマホガニーの机の上に積まれた書類の端を微かに揺らしている。大公国として独立を果たしてから数週間。激動の事後処理はひと段落し、領都はこれまでにない安定と繁栄の軌道に乗っていた。
セレスティアン・フォン・ルシフェルは、背もたれに深く体重を預け、右手の指先で眉間を静かに揉みほぐした。
彼の足元では、立派な若犬へと成長したポチが、不要になった羊皮紙の束を前足で押さえ込み、短い牙で嬉々として引き裂いている。シャカシャカというその無邪気な音と、時折漏れる「くぅん」という甘えた声だけが、今の彼にとって唯一の神経を緩められる時間だった。
しかし、その穏やかな時間は、目前に直立不動で立つ1人の女性によって物理的に遮られていた。
「……だから、帰れと言っている」
セレスティアンの低く冷ややかな声が、執務室に響いた。
机の前に立っているのは、首席補佐官となったカイラ・アシュフィールドだ。彼女は両腕に、大人の腕の太さほどもある分厚いファイルの束を抱え、一歩も引かない構えを見せている。彼女の生真面目さを体現するような隙のないパンツスーツ姿だが、その涼しげな瞳には、明らかな疲労と異様な熱気が混在していた。
「しかし、大公閣下。各ギルドから提出された来期の中期経営計画の精査が、まだ全体の3割ほど残っております。今夜中には終わらせておきませんと、明日の午後の投資承認会議に支障を来す可能性がゼロとは言い切れません」
「提出期限は来週末であり、明日の会議で扱うのはそのうちの優先度の高い3件だけだ。なぜ今日、しかも終業時刻を2時間も過ぎてからすべてをやろうとする」
「それは……私が早く終わらせておけば、その分、閣下の決裁に余裕ができるからです。私はこれでも元騎士です、2日や3日の徹夜など、王都の駐屯地時代に比べればどうということもありません。それに、閣下のために働けるのであれば、疲労など――」
「却下だ。お前が倒れれば、そのリカバリーのために俺を含めた他者のリソースが奪われる。属人的な忠誠心で組織の寿命を縮めるな。明日の始業時刻まで、そのファイルには一切触るな」
セレスティアンが絶対的な命令として告げると、カイラは不満げに眉を寄せながらも、渋々ファイルを自身の補助デスクに置いた。だが、その視線は未練がましく書類の山を撫でており、隙あらば持ち帰って夜通し作業をしかねない気配を漂わせている。
(……厄介なことになったな)
セレスティアンは内心で小さく息を吐いた。
労働時間を規定し、十分な給与と福利厚生を与えた。だが、環境が改善され、自分たちの成果がダイレクトに領地の発展や「セレスティアンの利益」に繋がるようになった結果、彼女たちは「やりがい」と「恩返し」という強力な麻薬に酔い、自ら進んで過重労働へと突き進もうとしている。
昨日もそうだった。
「あと少し……あと少しでこの冷却回路の効率が2パーセント上がるのよ! 誰か、私の目に覚醒のポーションを直接流し込んでちょうだい!」と、目の下に濃い隈を作りながら3日連続で研究室に泊まり込もうとしたイレーネ。彼女の暴走を止めるため、セレスティアンは自ら研究室へ赴き、魔導炉のメイン電源を物理的に落として強制排除しなければならなかった。
そして今朝はクロエだ。
「今のうちに周辺国のメディア網を完全に掌握しておくわ。寝る時間なんて、国境を越える移動中の馬車で十分よ。私の愛嬌に休日は必要ないの」と、人間の限界を超えた分刻みのスケジュールで出発しようとした彼女の馬車を、関所で強権を発動して差し止めたばかりだ。
前世の記憶――倒産寸前の企業を渡り歩いた経営指南役だった頃、優秀な人間ほど「責任感」という名の下に自らをすり減らし、やがて取り返しのつかない形で壊れていくのを嫌というほど見てきた。それを未然に防ぐためのシステムだったはずが、彼女たちの異常なまでの忠誠心とワーカホリック気質が、システムそのものを食い破ろうとしている。
コンコン、と控えめなノックの音が鳴り、静かに扉が開いた。
「ボス。明日の視察の警備配置ですが、第3ルートに少し死角があります。私が夜通しで人員配置を組み直して、朝までに完璧な代案を――」
入ってきたのは、総合安全保障・情報統括のエレナ・ルージュだった。
防諜網の再構築から戻ったばかりの彼女の足取りに、プロとしての隙は一切ない。だが、報告を読み上げる声は普段よりもわずかにかすれており、瞬きの回数が多い。王家という最大の脅威が去った後も、周辺国の密偵対策や新たな治安維持のため、彼女は誰よりも長く影の中で動き続けていた。
セレスティアンは組んでいた手をほどき、ゆっくりと立ち上がった。
「エレナ。その警備配置の組み直しは、副官にやらせろ」
「ですが、万が一のことがあれば……」
「お前が作ったマニュアルと教育システムだ。副官に任せられないほど脆弱なものを、お前は納品したのか」
「っ……いえ、そのようなことは……」
論理的な急所を突かれ、エレナは言葉を詰まらせた。
「お前には、本日付けで強制的な有給休暇を付与する。明日まで職務への復帰を禁じる」
「有給……休暇?」
「だが、お前の性格上、ただ休めと言っても宿舎で壁の隙間でも数えて過ごすのだろう。……これから出かける。着替えてこい」
呆然とする元・暗殺者を連れ、セレスティアンは執務室を後にした。背後でカイラが「あ、あの! 私の分の有給休暇は……!」と声を上げたが、それは無視した。
★★★★★★★★★★★
初夏の風が吹き抜ける、アビス大公国のメインストリート。
かつては飢えた人々が力なくうずくまっていたその場所には、今は色鮮やかなオーニングを広げたカフェや、各国の珍しい品を並べる露店がひしめき合っている。クレメント商会の流通網が運び込む異国の香辛料の香りと、新設された工房群から流れてくる乾いた木材の香りが混ざり合い、活気に満ちた都市特有の匂いを作り出していた。
セレスティアンは動きやすさを重視したダークグレーのサマースーツ。エレナは、ボディラインにフィットする薄手の白いニットと、足捌きの良いスラックス姿だった。
戦闘服を脱いだ彼女は、すれ違う通行人が思わず振り返るほどの洗練された大人の女の魅力を放っている。しかし、当の本人は全く落ち着かない様子で、周囲を鋭く見回し続けていた。
「ボス……本当に、護衛を1人もつけないなんて」
「休日に兵を動かせば、彼らの手当と振替休日が発生する。無駄なコストだ」
「コストの問題じゃないわ。こんな開けた場所を歩くなんて、狙撃の的になるようなものよ。せめて路地裏の……」
「路地裏のクレープ屋は、生地の焼きが甘い。あそこの角の店の方が上だ」
セレスティアンはエレナの抗議を完全に無視し、繁盛しているオープンカフェのテラス席へと向かった。
手際よく席を確保し、冷たい果実水と、たっぷりの生クリームと旬の果実が乗ったクレープを2つ注文する。
数分後、テーブルに置かれた甘い匂いを放つ皿を前にしても、エレナはどこか緊張した面持ちでフォークを握っていた。
彼女の目は、無意識に周囲の客の視線や、給仕の足運び、さらには向かいの建物の屋根の陰にまで警戒を向けている。
「食べないのか。溶けるぞ」
セレスティアンが自らのクレープにナイフを入れながら言うと、エレナはビクッと肩を揺らし、慌ててクレープを切り分けて口に運んだ。
「……っ」
その瞬間、彼女の張り詰めていた表情が、わずかに緩んだ。
上質な小麦の香ばしさと、クリームの濃厚な甘さ、そして冷たい果実の酸味が口の中で完璧に調和している。常に命のやり取りの中で神経をすり減らしてきた彼女にとって、それは暴力的なほどの多幸感だった。
「美味しい……」
「クレメント商会が新しく開拓した、南の農園から仕入れた果実だ。原価は張るが、それだけの価値はある」
セレスティアンは淡々と解説しながら、自分の分のクレープを機械的な動作で口に運ぶ。
エレナは二口、三口と食べるうちに、ようやくフォークを持つ手の余計な力が抜け始めていた。
「……休むなんて、いつ以来かしら」
不意に、エレナがぽつりとこぼした。視線は手元の皿に落ちている。
「なんだか、怖いわね。自分が何もしていない時間に、誰かが私の居場所を奪うんじゃないか。私が手を抜いたせいで、この大切な場所が壊れてしまうんじゃないかって。常に誰かの首に刃を突き立てていないと、自分の存在価値がなくなるような気がして」
エレナはフォークを置き、自嘲するように笑った。
かつての非人道的な環境が彼女に植え付けた呪縛。それは、安全な場所を手に入れたからといって、すぐに消え去るものではない。有能な人間ほど、自分自身を追い込む理由を無意識に探し出してしまう。
セレスティアンはナイフを置き、氷の浮かぶ果実水のグラスを手にとった。
「お前は、自分がいないと回らない組織を作りたいのか?」
冷徹な、しかし静かな問いだった。
「え?」
「トップが24時間働き続けなければ崩壊する組織は、三流だ。それは『有能』なのではなく、単なる『構造的欠陥』だ。俺がお前に求めているのは、お前自身が手を下し続けることではない。お前が1日2日現場を離れても、全く揺るがない防衛システムを構築することだ」
セレスティアンはグラスを傾け、喉を潤す。
「お前が部下を育て、権限を委譲し、システムを機能させているからこそ、こうして白昼堂々、俺とお前が丸腰で茶を飲んでいられる。……違うか」
エレナは目を見開いた。
周囲を見渡す。行き交う人々は誰も自分たちを狙っていない。それは平和ボケしているからではなく、彼女自身が構築した防諜網が、領都の入り口で危険分子を完全にシャットアウトしているからだ。さらに、定期的に巡回している衛兵たちの動線には、彼女が教え込んだ死角を潰す動きが完璧に浸透している。
自分の作ってきたものは、間違いなく機能している。
その事実に気づいた瞬間、彼女の背負っていた見えない重りが、音を立てて崩れ落ちた。
「……本当に、あなたって人は」
エレナはふっと息を吐き、今度は心底からの、柔らかく艶やかな笑みを浮かべた。
「どこまでも理屈っぽくて、可愛気がないわね。でも……そういうところ、嫌いじゃないわ」
「俺は事実に基づく評価しかしない。さっさと食え」
エレナは再びフォークを手に取り、今度は純粋にその味を楽しむようにクレープを頬張った。
初夏の陽光の下、彼女の横顔に暗殺者の冷たさはなく、年相応の女性らしい穏やかさがあった。
セレスティアンはそれ以上何も言わず、残りのクレープを片付けた。
エレナのケアはこれで一旦完了したと言える。だが、大公府にはまだ、書類の山と格闘したがる首席補佐官や、魔導炉と添い寝したがる技術統括など、強制的に休ませなければならない者たちが多数控えている。
セレスティアンは冷たい果実水を飲み干し、頭の中で明日の「強制有給消化スケジュール」の論理的な構築を淡々と開始した。




