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左遷された冷血公爵の領地経営改革〜有能な婿を捨てた元妻が泣きついてきましたが、もう遅い。優秀な部下たちと理想の領地を築きます〜  作者: 伊達ジン


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第48話 後日談1

 初夏の風が、アビス大公府の分厚い石壁を抜け、広く清潔な私室に心地よい涼気を運んでいた。


 窓辺のカーテンが微かに揺れ、磨き上げられたペルシャ絨毯の幾何学模様に、木漏れ日が不規則な光の斑点を落としている。

 セレスティアン・フォン・ルシフェルは、洗面台に張った冷水で顔を洗い、清潔なリネンのタオルで水滴を拭い取った。頭蓋の芯まで冷えるような感覚が、睡眠から覚醒へのスイッチを強制的に切り替える。


 クローゼットから選び出したのは、新しく仕立て直されたダークグレーの3ピーススーツだった。辺境伯時代に着用していたものよりも生地の目が細かく、それでいて関節の可動域を全く邪魔しない極めて機能的なカッティングが施されている。無駄のない所作でベストのボタンを留め、シャツの袖口に冷たい銀のカフスを通す。


 カチャリ、という微かな金属音が室内に響いた直後だった。


 シャカシャカシャカ、と硬い木材の床を爪で擦る忙しない音が、部屋の扉の方から近づいてきた。


「くぅーん、ひゃんっ」


 視線を落とすと、黒と茶色の被毛に覆われたポチが、琥珀色の丸い瞳で見上げていた。

 路地裏で拾われた瀕死の毛玉は、ここ数ヶ月で劇的な体格の変化を遂げている。冬の間に蓄えた脂肪は引き締まった筋肉へと変わり、手足の骨格は太く安定感を増した。冬毛から夏毛へと生え変わりつつある被毛は、窓から差し込む朝の光を弾いて艶やかな光沢を放っている。もはや、指先で摘むように持ち上げられた「仔犬」ではない。


 しかし、その肉体の成長とは裏腹に、ポチの要求は全く変わっていなかった。


 ポチは短い後ろ足で器用に立ち上がると、セレスティアンのスラックスの膝あたりに両前足を乗せ、ふんすふんすと鼻先を押し付けてきた。明らかに「抱き上げろ」という強い意志表示だ。


「……もう出勤の時間だ」


 セレスティアンは静かな低音で告げたが、ポチは全く諦める様子がない。むしろ、要求が通らないことに対する抗議のように、前足でスラックスの生地をシャカシャカと掘るような仕草を始めた。


 数秒の沈黙の後。


 セレスティアンは小さく息を吐き、片膝を床についてしゃがみ込んだ。ポチの脇の下に両手を差し入れ、真っ直ぐに持ち上げる。


 ずっしりとした確かな重みが、腕の筋肉にのしかかる。


 計算するまでもなく、質量は確実に増している。セレスティアンはそのままポチの身体を自身の胸元へと引き寄せた。

 ポチは待ってましたとばかりに、セレスティアンの肩に顎を乗せ、首筋に冷たい鼻先を擦り付けた。喉の奥から「ぐるるる」という低いモーター音のような満足げな声を響かせ、短い尻尾がセレスティアンの背中をパタパタとリズム良く叩き続ける。


 温かい体温と、微かに土と草の混ざった健康的な獣の匂い。


 セレスティアンは片手でポチの背中から首筋にかけての張りのある毛並みをゆっくりと撫でた。前世の激務の中では、スマートフォンの画面越しに眺めることしかできなかった命の重みが、今ここにある。


「……30秒だけだ」


 誰に言い訳するでもなく短く呟き、彼は静かな朝の時間をその質量と共に味わった。


★★★★★★★★★★★


 アビス大公国の国境から遠く離れた、王都近郊の岩山。


 かつて王家の直轄地として莫大な富を搾取し続けてきたその巨大な採石場は、現在、王家の借金を肩代わりした周辺国の巨大な債権回収ギルドの完全な管理下にあった。


 草木一本生えない灰色のすり鉢状の空間に、カン、カンという鈍いツルハシの音が反響し続けている。

 初夏の日差しを遮るものは何一つなく、岩肌からの強烈な照り返しが空気を陽炎のように歪ませていた。風は熱を帯びた細かな石粉を運び、労働者たちの肺を容赦なく焼いていく。


 その採掘場の底辺で、泥と汗にまみれながらツルハシを振るう2人の人間がいた。


 エリシアと、マリアンである。


 かつて王都の社交界で最も華やかなドレスを纏い、権力の頂点に立っていた王女と、彼女に取り入っていた金髪の美しい男爵令息。その2人の面影は、もはや微塵も残っていない。

 身に着けているのは、通気性も肌触りも最悪な、粗末な麻の貫頭衣だけだ。手入れの行き届いていたエリシアの金糸の髪は泥と埃で固まり、作業の邪魔になるという理由でギルドの男に無造作に耳元で切り落とされていた。


「ああっ……!」


 エリシアが弱々しく振り下ろしたツルハシの先が硬い岩肌を滑り、手元に鋭い衝撃を返した。

 悲鳴と共にツルハシを取り落とす。彼女の白い手のひらは、慣れない過酷な労働によってできた血豆が幾重にも潰れ、赤黒く腫れ上がって化膿していた。


「痛い……なぜ、私が……こんな……!」


 エリシアの唇は乾ききってひび割れ、虚ろな目から涙が土埃の積もった頬を伝って落ちた。


 隣で、砕かれた岩の破片を背負い籠に詰め込んでいたマリアンが、地面に這いつくばるようにして泣き崩れた。

 線の細い美青年であったマリアンにとって、この過酷な肉体労働は死の苦しみに等しい。真っ白だった彼の腕は無惨に日焼けして皮が剥け、細い指は痙攣したように小刻みに震えていた。


「エリシア様……もう、僕、無理です……腕が、上がりません……お腹も、空きました……」


 マリアンは泥にまみれた手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。

 昨日の夕食は、塩気の強い泥水のようなスープと、石のように硬い黒パンの切れ端だけだった。今日の昼食の時間までは、まだ数時間ある。極限の疲労と飢餓が、2人の理性を少しずつ削り取っていた。


 その時、背後で、ジャリッ、と軍靴が砂利を踏みしめる音がした。


「おい、405番、406番。手が止まってるぞ」


 分厚い皮の鞭を持った、大柄な現場監督の男が冷たい目で見下ろしていた。


 エリシアは弾かれたように顔を上げ、血走った目で男を睨みつけた。


「わ、私を誰だと思っているの! 私は、王女よ! 王家の人間をこんな泥水のような扱いで働かせるなんて、絶対に許されることでは――」


 パァンッ!


 空気を裂く鋭い音と共に、エリシアの膝の数センチ横の地面が鞭で打たれた。砕けた石の破片が頬を掠める。


「ひっ……!」


 エリシアは短い悲鳴を上げて尻餅をつき、泥水溜まりの中に倒れ込んだ。


「寝言は寝て言え。王家なんてもんは、とっくに破産して消えて無くなったんだよ」


 監督の男は、感情の乗らない声で淡々と事実を告げた。


「お前らはただの負債を抱えた労働力だ。ギルドに買い取られた天文学的な借金を返すまで、ここで石を掘り続けるんだよ」

「で、でも……僕たち、もう限界なんです! 少しだけでいいから、休ませて……!」


 マリアンが地面を這い、男のブーツにすがりつこうとしたが、男はそれを無造作に蹴り飛ばした。マリアンはくぐもった呻き声を上げて泥の中に転がった。


「限界? 休む暇があったら手を動かせ」


 男は鞭の柄で自分の肩を軽く叩きながら、冷ややかに見下ろした。


「昔、ここの採石場のノルマをいきなり倍に引き上げて、1日15時間休ませずに働かせろって通達を出したのは、他でもない王都の偉いさんだったらしいがな。俺の親父はそれで過労でぶっ倒れて死んだよ」


 その言葉に、エリシアの表情が凍りついた。


「だから、その時と全く同じ条件で働かせてやってるんだ。文句はないよな? さあ、ノルマが終わるまで飯も水も抜きだ」


 男の目に、同情や怒りはなかった。ただ、決められたルールを機械的に執行する現場の論理だけがあった。


 エリシアは絶望に目を剥き、震える両手で地面のツルハシを再び握るしかなかった。

 誰も彼女を助けない。明日も、明後日も、数十年先も。


★★★★★★★★★★★


 アビス大公国の心臓部である大公府の執務室。


 セレスティアンは重厚なマホガニーの円卓に向かい、次々と提出される決裁書類に万年筆を走らせていた。


 開け放たれた窓の外には、かつての泥濘など想像もつかないほど完璧に舗装された石畳の街道が真っ直ぐに伸びている。そこを、改良されたサスペンションを持つ大型の荷馬車が、滑るようにスムーズに通り抜けていく。風が運んでくるのは、新設されたオープンカフェから漂う焙煎されたコーヒー豆の香りと、職人たちが威勢よく交わす活気に満ちた声だった。


 控えめなノックの音と共に、ソフィアが入室してきた。彼女の腕には、いくつかのファイルが抱えられている。


「セレスティアン。王都近郊の債権回収ギルドから、今月分の定期報告が届いてるわよ」


 ソフィアは円卓の端に1枚の羊皮紙を置いた。


「エリシアと、あの男爵令息……マリアンだっけ。2人とも予定通り東部の採石場に送られたみたいね。初日からノルマを落として、夕食の黒パンを半分に減らされて泣き喚いてたってさ」


 彼女は青緑色の瞳を細め、僅かに冷たい笑みを浮かべた。


 だが、セレスティアンは報告書を一瞥しただけで、すぐに手元の別の書類へと視線を戻した。その冷徹な三白眼に、感情の動きは一切ない。


「違法な暴力や、契約外の不当な扱いは受けていないんだな」

「ええ。ただ、1日15時間、休日は月に1日だけ。かつて王都がこの土地の民に強要していた最低限のコストで、ギリギリ生かさず殺さず搾り取られてるだけよ。ギルドの規定通りにね」

「ならば、我々が関与する事項ではない」


 セレスティアンは万年筆を動かし続けながら、淡々と言い放った。


「以降、彼女たちの個別の動向に関する報告は不要だ。回収された負債額の数字として帳簿に載っていればそれでいい」


 ソフィアは少しだけ目を丸くしたが、すぐに彼がその2人を完全に「終わった案件」として処理していることを理解し、口角を上げた。


「了解。無駄な紙幅を割くのはやめるわ。あんな連中、もう私たちの時間を1秒でも使う価値はないものね」


 ソフィアが報告書を回収して下がろうとした時、入れ替わるようにカイラが入室してきた。

 彼女の手には、先程よりもさらに分厚い革張りのファイルが握られている。洗練されたダークネイビーのパンツスタイルは、一切の隙を感じさせない。


「大公閣下。ゼノア公国からの通商使節団が、第1区画の迎賓館に到着いたしました。午後からの関税協議の最終確認と、明日の新しい魔導炉群の視察スケジュールの決裁をお願いします」

「わかった。すぐに出る。資料を隣の会議室へ運んでおいてくれ」


 セレスティアンが立ち上がり、椅子に掛けてあった上着に手を通す。


 その動きに反応し、執務机の下の影で丸まっていたポチが目を覚ました。ポチは大きな欠伸をして短い尻尾を数回振ったが、主が完全に執務の顔になっているのを見ると、自分の鼻先を前足に乗せ、再び絨毯の心地よい感触に身を委ねて目を閉じた。


 セレスティアンは手元の万年筆を置き、次なる交渉の席へと向けて静かに執務室の扉を開けた。

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